34 普通と諦め
由樹は少し悩んで、生徒会室のドアをカラカラと閉め直す。そして静かに伊知郎の前まで行って、手を差し出そうとした。
「おい。立てるか——」
「——触んな!」
涙声で拒絶され、由樹はびくりと身を引いた。今迂闊に刺激すべきではないか、と考えその場を離れようとすると、伊知郎が小さく喋った。
「……いだろ……」
「ん?」
「キモい、だろ……やめとけよ。……オレと居る、の」
「……そう?」
伊知郎は膝をぎゅうときつく抱え直す。いつものようになのか、今回ばかりは仕方ないのか、言葉の意味を由樹は判りかねていた。
「何されるかわかんない、だろ。オレはこういう奴なの。分かっただろ。……オレに変なことされるかもしれねーって、嫌じゃ、ねーの」
「ああ……」
そこで由樹はようやく察しがついた。正確には伊知郎の言葉を理解するために、一年生の時の文化祭を思い出していた。
あの日、伊知郎は倒れた葉音の——異性の体へ躊躇なく触れられ、抱きかかえることができた。腕を強く握られても、純粋に心配だけをしていた。
そして葉音がいつか言った、『〝普通であるように〟、誰よりも死ぬ気で努力している』という言葉。その記憶の数々に説明がつき、納得がいく。
だからこそ由樹は不思議だった。葉音や亜里沙と同じように、由樹とも仲良く話してくれることが。
「……別にお前、俺のことタイプじゃないだろ」
「え?」
「いや、なんていうの。あいつらみたいにイケメンじゃないし、背も高くないし。筋肉もないから」
いつも通り、由樹はつらつらと思いついたことを口から滑らせた。思わず顔を上げた伊知郎は、ぽかんと口を開けている。
「……まあ……そうだな……?」
「だろ」
「亜里沙を泣かしたまま生徒会に来ず、いつもスカしてクールぶってるような奴は、流石にちょっと……」
「あの。そんな言う?」
ハハ、と伊知郎は力なく笑った。初めて見る、〝お調子者〟らしくない嘘偽りなさそうな笑顔。彼の額はぐっしょりと汗ばんでいた。
「……キモくねえの。由樹。オレのこと」
伊知郎は再度問う。由樹は思ったことをそのまま答える。
「良くわからん」
「そっか」
「俺には美織さんだけだし」
「……そーかよ」
「仮にお前が俺をどうこう思ってたとしても、亜里沙みたいにフるだけ」
「ひでーな。やっぱ人でなしの道徳なしだわ」
クスクスと優しく笑えば、伊知郎は由樹の手を借りることなく、一人で顔を拭い、立ち上がって身なりを整えた。パンパンとズボンの裾をはらうと、やっと由樹の目を真っ直ぐ見た。
「何しにきたん。由樹」
「……あ、シャーペン返しに来たんだった」
言われて、やっと目的を思い出す。由樹は鞄を開け、筆箱から木目のシャープペンシルを取り出した。
「——オレのだ」
「マジ? 丁度良かった」
「ああ。これ、姉ちゃんから貰ったやつなんだ。オレもさっき、これ探しに来ようとしてて……そしたらあいつらがなんか、着いてきて。勝手に生徒会室に入れて悪い」
シャープペンシルを大事そうに仕舞う伊知郎を見て、案外普通の人間なんだな、と思った。テレビやネットではその存在が面白おかしく映されるが、目の前の人間はあまりに自然だった。それは伊知郎が特別だからか、普通だからかは分からないが、少なくとも伊知郎は伊知郎だった。
彼はゆっくりと深呼吸をして、澄んだ目を窓の外へやる。掘り返す気はなかったが、念のため、ひとつだけ確認する。
「お前のこと、他に知ってる奴は居んの」
「葉音だけ。家族も、生徒会の奴らも、他の友達も知らねえ」
「分かった」
「……由樹でよかったよ」
「どうも」
由樹と伊知郎はどちらからともなく鞄を担ぎ直し、忘れ物がないかそれぞれ確認する。互いの準備ができたことを確認して、由樹が先に生徒会室を出ようとすると、声をかけられる。
「由樹!」
「ん」
「オレ——由樹のこと応援したい!」
振り返れば、鞄の持ち手を握りしめた伊知郎が、真剣な顔をしていた。
「……恋愛とか、そもそも頑張ることとか、もう色々諦めちゃってるから。だから由樹が美織さんと結ばれるように、誰より願ってる! 由樹が困ったときにいつでも前向けるようにって、オレ、出来ることは何でもしたい!」
普段の伊知郎らしくない、不器用で真っ直ぐな、茶化さない言葉だった。あまりにも自分の境遇を、由樹の恋愛に重ね合わせているのがバレバレだ。由樹はフッと笑って挑発する。
「そーいうのが一番、キモいから」
「——はっ、はあ!? 死ね!」
「ハハ、それ亜里沙にも言われた」
今日一番に顔を真っ赤にして、思わず伊知郎は大声を出す。ずんずん歩いて由樹の脇を通り抜けようとしたとき、由樹はそっと零した。
「お前に応援されなくても、やるしな」




