第14話 「買い取り禁止令」
格之助は愕然とした。
せっかく父上が家宝とも言える書籍を一切売却して得た金が、役に立たないと言うのか?
善右衛門に申し訳なさそうに見送られ、市中に出たとき格之助はさらに失望させられる。
こんな高札が立てられていたのだ。
『告 大坂領外の者の堂島での米の買取を禁ず……』
買い取り禁止令だった。
(聞いてへんで)
格之助はこのところ東町奉行で村八分にされている。
平八郎が跡部を怒らせたことが原因だった。
そのこと自体は気にしないよう努めていたが、ここまで聾桟敷に置かれるとは思っていなかった。
米屋の玄関にも『売り切れ御免』の紙が貼られている。
立ち尽くす格之助のうしろから、背中に赤子を背負った町人の女が声をかけてきた。
「あのう、お米はどこへ行ったら手に入りますやろ?」
格之助が見ると、女の足が泥だらけである。
「さて、こっちも困っておる。お主はどこから参ったのだ?」
「へえ、京からどす。夜通し歩いて」
「うむ。しかしな、領外の者は……」
言いかけた時に、女の背に負った赤子が泣き出した。
格之助にも二歳の乳児がいる。
他人事ではない。
「ひとまずうちへ来い。少しばかりだが、玄米をただで分けてやる。赤子に粥でも啜らせよ。よいな」
女はその場で土下座した。
「お武家様。おおきに、おおきに」
背中の赤子はさらに泣き続け、格之助はいたたまれない気分になった。
それから数日経った正月の末。
格之助は与力部屋で、大坂町奉行勤方帳を改めていた。
これは町奉行や与力の行動予定表である。
翌二月一九日の欄に西町奉行・堀利堅が着任挨拶をする、という記述があった。
(また新任様か。どうせ跡部と同類の腰掛け役人なんやろうな)
大坂はどんどん腐敗していく。
それを止めるには、父上が言うように決起するしかないのだろうか?
「与力殿」
格之助は慌てて勤方帳を閉じた。
同心の一人が襖を開け恭しく報告する。
「本日のお白洲、ご検分願います」
お白州で公事(裁判)の仕事が待っていた。
とはいえ、このところの格之助は重要な公事方から外されており、おそらくは市井の揉め事と思われる。
「あいわかった」
格之助は、他の与力たちと公事場に座った。
「次なる者、引ったてい」
進行役の与力が吠える。
白洲に放り出される捕縛された女を見て、格之助は驚いた。
昨年末に京から米を買いに来た女だったからだ。
格之助の思いをよそに、与力が淡々と訴状を読み上げていく。
「これより吟味致す。被疑人、丹波国糸屋半兵衛が妾おせん。この者、一時禁制の米五升を大坂天満高田米店にて買い取りしもの……」
聞きながら、格之助の胸はざわついた。
(たかが五升の米を、それも金を払って買っただけで? 弱気をくじき、強きにおもねる……もはや限界や)
理不尽な訴えを聞きながら、格之助は掌に爪が刺さるほど拳を握り込んだ。
その晩美吉屋五兵衛の屋敷の離れで、平八郎と格之助、そして田沼意義の三名が額を突き合わせた。
「私の堪忍袋は、もう緒っぽが切れかけとりますわ」
憤然とする格之助を前に、しかし平八郎は腕を組んだまま動かない。
「そればかりやおまへん。京は餓死者で溢れて、流民たちが大坂に流れ込んで来ております。このままでは治安の悪化は避けられへん思います」
平八郎が見ると、意義もまた黙り込んでいる。
建議書の件は首尾よくいったようだが、洗心洞に戻ってからの意義はどこか変わっていた。
少しザラザラしたものを、心中に抱えている気がする。
(そろそろ、具体的に準備を進めるか)
格之助は憐れな京女の公事の一件のほかに、堀某の予定も伝えていた。
新任の西町奉行が東町の跡部に挨拶に来て、その後洗心洞の北隣にある浅岡という与力宅に立ち寄るというのだ。
浅岡助之丞は意義が兵庫津で見た東町の組与力で、跡部が主導した江戸への廻し米の実行者である。
とばっちりを受ける堀某にはすまないが、悪玉ふたりを襲撃する千載一遇のチャンスを逃すいわれもない。
平八郎は、脇差を抜いてその刃を見つめた。
微かに揺らめくろうそくの炎が映っている。
「格之助。意義。かねてからの計画を実行に移すとしよう」
ふたりは同時に「は」と答えた。
白昼色の揺らめきが平八郎の眼に変わった。
(今回は力押しだけではあかんな。大義も要るやろうな)
力は蓄えた。
だが大義はあるか?
事を起こせば、あとからついてくるだろうか?
陽明学の権威と呼ばれた平八郎でも、神ならぬ身では知る由もなかった。
天保八年(1837年)二月に入ってから、大塩平八郎は朝礼のたびに洗心洞の講堂で門下生たちに檄を飛ばした。
「ええか。いつも言うてる通り、侍の仕事は民を守ることや。今動かなんだら、わしらの存在意義は無きに等しいのや……」
役人と豪商らに対して天誅を加えるべし、と自らの門下生に参加を呼びかけたのだ。
つづく




