第46話 世界への提案書
机に向かう。
白い便箋。
万年筆。
そして図書館で借りた本。
部屋の中は静かだった。
わたしは深く息を吐く。
「さて」
いよいよだ。
ユヴェントスへ送る手紙。
たった一通。
だけど、この一通で未来を変えるんだ。
ペン先を紙に置く。
最初の一文字を書く。
そして止まらなくなった。
翔吾のこと。
その才能。
今の日本では受けられない指導。
世界へ出るべき選手であること。
わたし自身のこと。
サポート役としての価値。
日本という市場の将来性。
伝えるべきことはいくらでもあった。
「誇張はいい」
小さく呟く。
営業ではよくあることだ。
相手の興味を引くために魅力を大きく見せる。
それは技術だ。
けれど。
「嘘はダメ」
嘘はいつかバレる。
そして信用は一度失えば戻らない。
だから事実だけで勝負する。
その事実を、最大限魅力的に見せる。
それが仕事だった。
前世でも何度もやったことだ。
「これはビジネスだ」
ペンを走らせる。
書いては消し。
消しては書く。
表現を変える。
順番を変える。
言葉を選ぶ。
「思い出せ」
わたしは自分に言い聞かせる。
「敵対するマフィアのボスを商談の席につかせた時のことを」
あの時だって難しかった。
普通なら会うことさえ不可能だった。
でも会わせた。
交渉の場を作った。
だったら今回もできる。
やることは同じだ。
相手に価値を示す。
会いたいと思わせる。
それだけ。
気合を文章に込めろ。
思いを行間に盛り込め。
これはお願いじゃない。
ユヴェントスへの提案だ。
チュンチュン
気付けば窓の外が白み始めていた。
鳥の鳴き声が聞こえる。
「できた……」
最後の一文を書き終える。
腕を伸ばす。
肩が痛い。
首も痛い。
何度書き直したか分からない。
でも。
納得できるものにはなった。
前世を含めて何十年かの経験のほとんどを注ぎ込んだ手紙になったと思う。
その瞬間。
「紗里ちゃーん!」
一階から声が聞こえた。
亜紀さんだ。
「学校遅刻しちゃうよー!」
「え?」
時計を見る。
固まる。
「うそっ!」
慌てて立ち上がった。
そして数分後。
ランドセルを背負って家を飛び出した。
◇
分団登校。
眠い。
とにかく眠い。
徹夜明けだった。
徹夜とか前世では何度もしたから慣れてはいるはずだけど……
いや、前世でもやっぱり徹夜明けは眠かったな。
翔吾くんもさすがに今日は何も言わない。
たぶん顔を見れば分かるのだろう。
限界だと。
教室に着く。
席に座る。
そして――
そのまま机に突っ伏した。
◇
「紗里ちゃん」
声が聞こえる。
「紗里ちゃん」
肩を揺らされる。
わたしはゆっくり顔を上げた。
「……ん?」
「給食の時間だよ」
目を瞬かせる。
まわりをキョロキョロと見回す。
「え?」
頭が追いつかない。
「もう?」
「もう」
翔吾くんが笑った。
「ずっと寝てたよ」
「えぇ……」
時計を見る。
本当に給食の時間だった。
「先生は?」
「見逃してくれた」
「なんで?」
「ボクがお願いした」
さらっと言う。
「手を合わせて頼み込んだら、そのままにしてくれたよ」
先生優しい。
それとも呆れていたのだろうか。
「それより」
わたしは少し身を乗り出した。
「できたよ」
「ん?」
「手紙」
翔吾くんの目が少し大きくなる。
ランドセルからまだ閉じてない封筒を取り出した。
「見て」
差し出す。
でも翔吾くんは一瞬見ただけだった。
「分からない」
「え?」
「イタリア語……だよね、これ」
それはそうだけど。
「読んであげようか?」
すると翔吾くんは首を横に振った。
「いいよ」
「いいの?」
「全部紗里ちゃんにまかせたんだから」
迷いのない声だった。
「見なくても大丈夫」
そして少し笑う。
「それより」
優しい声で続けた。
「お疲れ様」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「ありがとう」
思わずそう返した。
翔吾くんは頷く。
「じゃあ給食食べよう」
「うん」
「それから」
翔吾くんが言う。
「練習のあと、一緒に手紙を送りに行こう」
わたしも頷いた。
未来へ向かう一通の手紙。
世界への扉を叩く準備は整った。
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