友達
『一応、衛生兵のところに行っとけ。あの大雨の中、二日間も塹壕にいたんだ。おかしくなってるところがあるかもしれないからな』
わたしはあの後、ルークさんに言われて、衛生兵がいる野戦病院に向かっていた。正直、わたしの身体には異常が無いと思っているのだが、ルークさんに何度も言われたため、渋々従うしかなかった。
また、今のわたしたちには、かなりの自由時間を与えられているようで、シス伍長などの先輩たちは、どこかへ行ってしまっているらしい。
(まぁ、当然なのかな)
何せ、もともと後方で休養していた時に、他の隊が塹壕を取られてしまったせいで、夜中から戦闘し続ける羽目になってしまったのだ。しかも、ただでさえ、休養中の夜だったのに、常に大雨に晒されながら、二日間も塹壕に居座ることになったのだ。十分な休養が無いと、割に合わない。
いくら、ルークさんやシス伍長が、わたしよりもずっと優れた兵士だったとしても、さすがにこれは堪えたのだろう。
(どこに行ってるんだろうね? 今の時間はまだ朝だし、娼婦なんていないと思うんだけど)
かつての会話を思い出しながら、シス伍長たちがどこに行ってしまったのか予想する。
でも、そう思っただけで、わたしがレオン二等兵にされたことを思い出してしまい、冷汗のようなものが全身から滲んでしまう。未遂で終わったものの、あれだけのことをされてしまったのだ。消えない傷になっていても、おかしくはない。
でも、これには耐えないと駄目なんだ。わたしが、わたしとして戦い続けるためには、この程度のことで立ち止まっている暇は無い。それに、結果的には何もされてないんだ。銃に撃たれた時の方が、ずっと酷かったに決まってる。
「あ、今日は人が少ないんだ」
まだ、雨はやんでいない。けれど、あの二日間に比べると、弱くなっているし、ただの霧雨みたいなものだ。地面に跳ねる水音も弱く、空気もどこか軽い。もし、塹壕にいる時の雨がこれくらいだったのなら、どれほど楽だったのだろうかと思ってしまう。
でも、あの大雨のせいで、未だ地面は泥だらけであり、こんな状況では、碌な突撃が出来ない。だから、味方側も、敵兵も、どちらも攻め手が大きな被害を受けると分かり切っているため、大きな戦闘が起きなかったようだ。
おかげで、野戦病院に搬送される負傷者も、必然的に少なくなってくれて、テントの前は驚くほど静かだった。
普段なら、うめき声や怒号、衛生兵の走り回る足音が絶えない場所なのに、今日は雨音の方がよく聞こえる。
(……静かすぎるのも、落ち着かないな)
わたしは、濡れた地面を踏みしめながら、ゆっくりとテントの入口へ向かった。
泥が靴底にまとわりつく感覚が、まだ身体のどこかに残っている緊張を刺激する。
深呼吸をして、布をめくった。
「すみませーん」
わたしが、テントの中に向かって声をかけると、奥の方から布をめくる音がして、誰かがこちらへ歩いてくる気配がした。
「あら、セラちゃんじゃないの。もう、目が覚めたのかしら?」
「は、はい」
「それなら、あの雨で身体に異常が出来てないか確認しに来たってわけね。こっちに来てちょうだい」
出迎えてくれたのは、何度もお世話になっている衛生兵のお姉さんだった。同性ということもあり、わたしのことを気にかけてくれる数少ない人の一人だ。
その顔を見た瞬間、胸の奥に張りついていた緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。さっきまで、レオン二等兵のことを思い出して冷汗が滲んでいたのに、お姉さんの柔らかい声を聞いた途端、呼吸が少しだけ楽になる。
「痛いところはある?」
「大丈夫です。疲れくらいしかありません」
「ほんと? それならよかったわ。熱も無いし、顔色も悪くないわね」
体温を測ったり、足の状態を確認しながら、お姉さんは慣れた手つきでわたしの身体を診ていく。
「ふむ……足の色も悪くないわね。塹壕足の心配もなさそう」
「よかった……」
「二日間もあの泥の中にいたんだから、もっとひどい状態でもおかしくなかったのよ? ほんと、よく頑張ったわね」
「……ありがとうございます」
あの二日間の間に、いろんなことがあったせいで、素直に言葉を受け取ることが出来ない。でも、何度もお世話になっている人に、その気持ちを見せたくなくて、わたしは表情を偽ってしまった。
こんなことをしても、何も変わらないってことは、自分でもわかっているというのに。わかっているのに、やめられない。
「気を失ったって聞いて、本当に心配したんだからね。今度は、自分の体調に気を付けるように」
「はい……ごめんなさい」
「リナちゃんも、心配してたんだからね」
「うっ……」
衛生兵の友達の名前を言われてしまい、何も言い返せなくなってしまう。確かに、わたしことを心配してくれる人がいると言われてしまうと、胸の奥がきゅっと締めつけられるような、どうしようもない気持ちになる。
(……心配、か)
あの二日間の間で、わたしはわたしのことをずっと責め続けていた。
わたしが手を引いたせいでルカが死に、わたしが余計なことを言って、レオンをさらに追い詰めてしまったから、あんな出来事が起きてしまった。どれも、原因はわたしであり、アインが死んだ時と同じように、自分のせいだと思ってしまっている。
そのせいで、わたしはわたしのことを軽視している。どれだけ怪我をしても、どれだけ負担をかけても、それは当然のことであり、戦い続けることが出来るのなら、それでいい……と。
だから、他者から心配されるというのは、まるで、自分の中の間違いを指摘されているようで、どうしていいかわからなくなってしまう。
「セラちゃん?」
「……はい」
「無茶をするつもりだよね」
「――ッ」
息が詰まる。衛生兵のお姉さんが言ったその言葉は、わたしの胸の奥に隠していた本心を、まるで見透かしたように突いてきた。
否定しようと口を開きかけたのに、声が出なかった。
お姉さんは、わたしの沈黙を責めるでもなく、ただ静かに、優しい目で見つめてくる。
「同じ隊の人から、何があったのか聞いたよ。セラちゃんのことを慕っていた後輩が死んだことも、もう一人の後輩から何をされたのかも」
「それは……」
「でもね、それは自分を罰する理由にならないの。他人の死に意味を見出して、平静に保とうとするのは良い。でもね、他人の死に対して、勝手に意味を付けて、自分のことを責めるのは、絶対にしちゃダメなことなんだよ。それは、自分にとっても、死んでしまった人に対しても、絶対に良くないことだから」
「……っ」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛んだ。
お姉さんの言葉は、優しいのに、逃げ場がないほどまっすぐで、わたしの中の間違った正しさを静かに崩していく。
(そんなつもりじゃ……なかったのに)
心の中で言い訳のように呟く。
わたしはただ、わたしが悪いと思ったから、償わなきゃいけないと思ったから、傷つくのは当然だと、そう思っていただけで――他人の死に意味を付けようとしていたわけじゃない。
でも、その考え自体が、もう間違っていたのだと、お姉さんの言葉で思い知らされる。
胸の奥がじんわりと熱くなり、呼吸が浅くなる。
お姉さんの声には、衛生兵として数えきれないほどの死を見てきた重みがあった。
「セラちゃん。あなたが自分を責めて苦しむことは、誰のためにもならないのよ」
その一言が、深く刺さった。
「はい……」
「焦る気持ちも分かるよ。だから、今はじっと安静にしてて」
安静にする。それは、今のわたしにとっては、本当に難しいことだった。
頭ではわかっている。自分を責めても何も変わらないことも、無茶をしても誰のためにもならないことも。
でも、心のどこかが、ずっと火の粉みたいに落ち着かなくて、じっとしていると、その焦りが胸の奥をかき乱してくる。立ち止まった瞬間、あの二日間の光景が全部押し寄せてくる気がして――だから、どうしても安静にすることが出来ない。
そんな時だった。
「セラちゃん?」
リナが、奥から顔を出した。




