安堵
包帯を巻かれた左腕をそっと押さえながら、わたしはテントの外へと出た。
前線に戻るつもりで歩き出したけれど、その前に部隊の位置を確認しておこうと思った。
「あ、帰って来た。腕は大丈夫か?」
声のした方を見ると、ルークさんたちが少し後方に下がった場所で休んでいた。
どうやら戦闘後の再配置で、前線から一時的に引き上げられていたらしい。
「はい、綺麗に治りましたよ」
そう答えると、ルークさんは安心したように笑った。
その表情には暗さがなく、むしろどこか明るさすら感じられた。
「ルークさん、何で後方に来たんですか?」
「お前が治療してる間にな、前線の整理が終わったんだよ。グレン小隊長が暴れすぎて、敵がしばらく動けねぇらしい」
「……ああ、なるほど」
納得すると同時に、胸の奥が少しだけ軽くなった。
わたしがいない間に何かあったわけじゃないと分かったからだ。
「腕は本当に大丈夫か? 無理してないだろうな」
「怪我のことで嘘なんてつきませんよ。……小隊長にバレたら、後が怖いですから」
「それもそうだな」
グレン小隊長は、虚偽の報告を絶対に許さない。怪我をしていないのに怪我をしたと嘘を吐いた場合よりも、怪我をしているのに無理をして「大丈夫だ」と嘘を吐いた場合のほうが、ずっと罰が重い。
それは、わたしたちの身体を気遣っているわけではない。怪我を隠されると、いざという時に足を引っ張られる――ただそれだけだ。何処まで行っても自分の都合で、グレン小隊長は、わたしたちの命を部品としてしか見ていない。
……それでも、あの人の判断が正しい場面は多い。だから誰も逆らえないし、逆らおうとも思わない。
わたしも、その一人だ。
「シス伍長はどこに行ったんですか?」
「後方に下がって来たからな……いつも通り酒を取りにいたんだろう」
「ああ……そう言えばそうでしたね」
野戦病院の前でかなり並んだこともあって、太陽は西の大地に堕ちかけていて、空がオレンジ色になっていた。どうやら、戦闘が終わってから思っていた以上に時間が経っていたらしい。
「そろそろ夜営の準備が始まるな。小隊長も、今日は突撃の後処理で忙しいだろう」
ルークさんが空を見上げながら言う。
夕焼けに照らされた彼の横顔は、戦闘直後とは思えないほど落ち着いていた。
「セラ、お前は少し休め。腕もまだ痛むだろう」
「……はい。ありがとうございます」
返事をしながら、包帯の巻かれた左腕をそっと押さえる。
脈打つたびに鈍い痛みが走るけれど、さっきよりはずっと軽い。
「まぁ、少し離れたほうが良いか。酒を飲んだ時のアイツらはめんどくさいから」
「そうですよね……一番は、グレン小隊長ですけど」
「そりゃそうだ」
ルークさんは肩をすくめて笑った。その軽さに、張り詰めていた胸の奥が少しだけ緩む。
夕焼けの光が、戦場の土と血の匂いを薄めていく。わたしは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
――生きて帰ってきた。
その実感が、ようやく身体の隅々に染み込んでいくのを感じた。
あれから、少し時間が経ち、太陽が完全に沈んで、部隊のみんなで焚き火を囲む時間になっていた。
火の粉がぱちぱちと弾け、焦げた木の匂いが夜の冷たい空気に混ざって漂う。
「るーくぅぅぅ、お前も飲めよー! 今日は勝ったんだぞー!」
「……だからめんどくせぇって言ってんだろ。お前は一人で勝手に飲んでろ」
「ぶれませんね、シス伍長は」
シス伍長は、いつもの金属製の水筒――中身はもちろん酒――を片手に、上機嫌でふらふらしていた。
戦闘直後とは思えないほどのテンションで、周囲の兵士たちも苦笑しながら相手をしている。
「セラちゃんも飲むかー? ほれ、ちょっとだけならいいだろー?」
「未成年に酒を勧めないでください」
「細けぇこと気にすんなって!」
「黙らせようかな、コイツ」
ルークさんは、酒を飲むこと自体は嫌いではないっぽいけれど、酔っ払いに絡まれるのは本当に嫌いそうだから、本当に今のシス伍長とは関わりたくないんだろうな。
とは言っても、わたしたちの部隊で酒を飲んでいないのは、わたしとルークさんぐらいだし、シス伍長ほどでは無くても、ほとんどの人は酔っているから、ここから離れても意味は無いのだろう。一応、わたしのことはルークさんが守ってくれているから、大したことはされてないけど、迷惑をかけていると思うと少し申し訳なくなってくる。
(グレン小隊長は……ああ、あそこには近づかないでおこう)
グレン小隊長の酔い方は、別に悪いというわけではない。というか、ずっと一人で飲むだけで、他人には絶対に迷惑をかけない酔い方だから、シス伍長ほうがかなり酷いだろう。
けれど、急性アルコール中毒になりそうなほど飲んでいるせいで、近づくと本気で怒られそうだ。
「るーくぅ、こんやこそは! 一緒に行こうぜー」
「お前な……、セラがいるところで、そんな話をするなよ」
「別にいいですけど。興味はありませんが、ルークさんとかには必要なことだと理解していますし」
「ほらー、いいじゃんかー」
後方に下がって来たのだから、娼婦のところに行こうとでもしているのだろう。戦場には楽しいことなんて無いし、わたしの前世は男だったんだから、その気持ちは理解している。だから、嫉妬とかも無いし、嫌悪感も無い。
――わたしとは、何一つ関係ない話だ。
「セラもいくかー? 男娼もいるってよ」
「ごめん、セラ。コイツのことは黙らすから」
「お願いします」
それは、ラインを超えている。
その気持ちを察してくれたのか、ルークさんの拳がシス伍長の鳩尾に突き刺さり、「ぐほっ」と情けない声をあげて、シス伍長は崩れ落ちた。
自業自得だ。慈悲なんていらない。
「本当にごめんな。コイツは馬鹿だから」
「大丈夫ですよ。そもそも、軍規的に、それは駄目でしょうに」
「いや、前線にいる時や不同意は駄目だけど、後方でかつ最後までしないのは、一応セーフだったはずだぞ。グレーではあるけれど、黙認されてるらしい」
「……ルークさん、殴られたいんですか?」
「ご、ごめん」
全く、十四歳の子供になんてことを言うんだろうか。前世があるからよかったものの、普通は嫌なんだからね、そんな話は。
……もし、アインがここに居たら、シス伍長はアインにも誘っていたんだろうか。何故か分からないけど、それは嫌だな。
ルークさんも反省してくれたのか、それからは今の話のようなことはせず、焚き火の前で黙って水筒の蓋を開けたり閉めたりしていた。気まずさを紛らわせようとしているのが、横から見ても分かる。
反省しているようだから、ちゃんと許してあげよう。
「そう言えば、友達出来ましたよ」
「え? あのセラに?」
「あのセラにって、どういう意味ですか?」
やっぱり、許してあげるというのは無しだ。
あのセラにって何なの。一体、わたしのことを何だと思っているだろうか?
「いや……だって、セラって他人に心開かないじゃんか。シスですら、しっかり話せるようになったの一か月くらいかかったよな」
「……社交性が無いことは認めますけど、さすがにその反応は酷いと思いますよ」
「そうかなぁ?」
うん、酷い。とっても酷い。深く傷ついた。
友達くらい、わたしにだって作ることは出来るんだもの。ごくまれにしか出来なくても、しっかりとしたちゃんといる。……アインだって、わたしの友達だったんだから。
そう言えば、ルークさんは友達がいるんだろうか。シス伍長や同じ隊のみんなとは仲良くしているけど、他の隊の人と関わっているところは見たことが無い。
まぁ、わたしも衛生兵を除くと、この隊以外の人たちとは関わったことが無いし、それが普通なのかもしれないけどさ。
「確かに、わたしは友達が少ないとは思いますけど、ルークさんはどうなんですか?」
「少ないって、もしろ一人じゃ……。まぁ、いいや。俺の友人か……ちゃんといたよ」
「いたって……その、ごめんなさい」
わたしがそう言うと、ルークさんは首を横に振った。
「気にしなくていいよ。戦場ではこんな話、よくあることだから」
そんなことを言うルークさんの顔は、どこか疲れているようで、わたしは何も言うことが出来なかった。
きっとルークさんも、アインの死のようなことを、何度も経験したのだろう。だから、その言葉がこんなにも軽くて、こんなにも重い。
「……辛くないんですか?」
気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。
聞くつもりなんてなかったのに。
ルークさんは少しだけ目を伏せ、苦笑した。
「そりゃ、辛いに決まってる。でもな、これが戦場なんだ。だから、辛いって気持ちよりも、諦めの方が上回ってしまってるんだよ」
「それは……」
「はい、この話はおしまい。今日は、安心して寝れるんだから、早めに寝とけ。安眠は後方に下がった時にしかできないんだからさ」
「……そうですね」
そうして、わたしたちはしばらく焚き火の前で黙って座っていた。
火のはぜる音だけが、夜の静けさを切り裂いている。
周囲では、酔った兵士たちの笑い声や、誰かが歌っているような声が聞こえる。
けれど、そのどれもが遠く感じた。
「……セラ」
不意に、ルークさんがわたしの名前を呼んだ。
「はい?」
「お前は、無理すんなよ」
「……ルークさんも、ですよ」
「それもそうだな。じゃ、おやすみ」
そうして、わたしはテントに戻って、瞼を閉じた。
けれど、胸の奥で何かがくすぶっていて、これから嫌なことが起きるんじゃないかという予感が、静かに、けれど確かに、わたしを締めつけていた。




