後輩
「あ、ルークさん、おはようございます」
「おはよう。ほんと、セラは朝に強いな」
「慣れましたからね」
次の日の朝、わたしは太陽がのぼり始めた頃に目を覚まし、テントの外へと歩き出した。
外気が肌に触れた瞬間、ひやりとした冷たさが全身に染み込み、ぼんやりしていた意識が一気に澄んでいく。この感覚は、何度も死にかけるほど厳しい戦場の中で、数少ない“好きだと思えるもの”の一つだった。
この時間に起きている人はほとんどいない。シス伍長やグレン小隊長のように酒を多く飲む人たちはまず起きてこないし、それ以外の兵士も、後方に下がった時くらいは気を緩めて深い眠りに落ちている。
だから、目を覚ましているのは、わたしとルークさんくらいだった。
「よく寝れたか? 後方にいるんだから、もっと寝ればいいのに」
「深い眠りだったんで、これで十分なんですよ。それに、これ以上寝てしまうと、睡眠のリズムが崩れて、塹壕に戻った時に苦労しそうなので」
「確かにな。そんなことを言う奴を何人か見たことあるよ」
ルークさんが軽く笑う。その声が、朝の冷たい空気の中でやけに穏やかに響いた。
わたしは小さく息を吐き、空を見上げた。
太陽はまだ低く、地平線の向こうからゆっくりと顔を出したばかりだ。薄い光が霧のように広がって、戦場とは思えないほど静かな景色をつくっている。
「これだけを見ると、まるで戦場じゃないように見えますよね」
「そうだな、本当に穏やかだ」
でも、ここは戦場なのだ。どれだけ綺麗で美しくても、数多の命が失われている場所で、わたしの幼馴染もここで死んでしまったことには変わらない。
朝の光が地面を照らすたびに、昨日までそこにあった血の跡や、倒れていた影の気配が薄れていく。でも、大切な仲間との記憶は、無くなってくれない。
「いつまで、後方にいることが出来るんですかね?」
「さぁ? でも、今回は少しだけ長居することが出来るかもな」
「そうだといいですね」
そうして、わたしたちは静かな後方の風景を眺めていた。前線には存在しない、静かで穏やかな時間。この時間がずっと続けば、誰も死ななくて済むのに。
あ、そんな都合がいいこと、あるわけないんだけどね。
「あ、ルークにセラ。おはよう」
「シスか」
「シス伍長、おはようございます」
ルークさんと話していると、二日酔いなのか、シス伍長がふらふらと歩いてきた。
目の下にはくっきりとした隈ができていて、髪も寝癖で跳ねている。どう見ても、まだ酒が抜けていない。
「ルーク、記憶があまり残っていないんだけどさ。俺って、昨日の夜に誰かに殴られた?」
「……昨日せいじゃないのか? 少なくとも、俺は知らないぞ」
「そっか、酒を飲みすぎたんだな。娼婦のところに行きたかったのに」
「ぶれませんね、この人」
シス伍長は頭を押さえながら、地面にしゃがみ込んだ。
その姿は、戦場の兵士というより、ただの二日酔いの大人だ。
「ていうかよ……なんでお前ら、朝からそんな爽やかなんだ……? 俺、死にそうなんだけど……」
「飲みすぎなんですよ」
「分かってるよ……でも飲まなきゃやってられねぇんだよ……」
弱々しい声でそう言うシス伍長に、ルークさんが呆れたように肩をすくめた。
「後方に下がった時くらい、もう少し節制しろよ。前線戻ったら地獄なんだから」
「だから飲むんだよ……前線戻ったら地獄なんだから……」
同じ言葉なのに、意味がまるで違う。
わたしは思わず苦笑した。
「そんな調子で大丈夫なんですか? 小隊長に怒られたりしません?」
「それは大丈夫、今日は訓練だけらしいから」
「……普通、あの訓練は二日酔いの状態で出来ないんですよ」
何故か、先輩方は出来るけど。
そんな言葉を飲み込みながら、わたしは朝食が配給される場所へと足を進めた。何を言ったとしても、シス伍長が酒をやめることは無いし、わたしが心配したところで状況が変わるわけでもない。だから、余計なことは言わずに、わたしは朝食が配給される場所へと足を進めたんだ。
「あ、待ってくれ。俺も朝食を取りに行くから」
「おい、お前ら俺を放っておくのか!?」
だって、昨日のことまだ許してないし。
わたしは心の中でそれだけを呟いて、二日酔いで顔が真っ青なシス伍長をその場に残しながら歩みを速めた。背後から「ひでぇ……!」という情けない声が聞こえたけれど、振り返る気にはならなかった。
わたしとシス伍長はこんな関係。敵と戦っていたり、塹壕の中にいるわ気ではないんだから、このくらいがちょうどいい。
軽口をたたくことが出来る時間は、何よりも貴重な時なんだから。
「おい、いったん集まれ」
朝食を食べ終えてしばらく経った時、グレン小隊長がわたしたちに呼びかけて来た。
珍しい、軍の命令以外でグレン小隊長がわたしたちに話しかけることなど滅多にないのに。
「小隊長、どうかしたんですか?」
「シス、口答えするな。さっさと人を集めろ」
「はいはい、わかりましたよ」
ちなみに、軍規を破ったり、味方の足を引っ張らない限り、グレン小隊長は理不尽な暴力などをしてこないため、先輩たちが小隊長に話しかける時は、わりと口答えをしている。
正直、わたしはそんなことをする覚悟が持てないから、シス伍長の軽口を横で聞きながらも、背筋が自然と伸びてしまう。
「ルークさん、小隊長が人を集める理由って分かりますか?」
「まぁ、だいたいは予想つくよ。二か月前もそうだったし」
「二か月前? それって……」
ルークさんの言葉を聞いて、わたしはとある仮説を思いついた。けれど、それを言うよりも隊の先輩たちが集まるのが早かったせいで、口にすることは叶わなかった。
でも、そもそも口にする必要などない。すぐに、その仮説が合っていたことが分かったのだから。
「よし、全員揃ったな。じゃ、さっさと自己紹介しろ」
グレン小隊長がそう言うと、その後ろから三人の男性が姿を現した。ひとりは、わたしよりずっと年上に見える青年だった。落ち着いた雰囲気で、無駄のない動きをする。その雰囲気からは前線にいたようには見えないけれど、戦争という物をしっかり理解していそうな気がした。
それに対して、残る二人は戦場という物を全く知らなそうな少年であり、かつてのわたしを見ているような感覚に襲われた。一人は、わたしより二歳くらい年上のように見える少年。……もう一人は、わたしと同年代くらいの幼い少年であり、その姿をアインと重ねてしまう。
――そして、最初の青年が口を開いた。
「本日よりグレン小隊に配属されました、軍学校卒のレン・フェルス伍長です。よろしくお願いします」
その青年は、落ち着いて、胸を張りながら名乗った。 声はよく通り、姿勢も乱れがない。わたしの時とは大違いだ。
でも、ルークさん達は何か思うことがありそうな顔をしていて、その違和感が胸に引っ掛かった。
そして、次はわたしよりも数歳だけ年上に見える少年が前に出る。
「本日よりグレン小隊に配属されました、レオン二等兵です。徴兵で前線に送られることになりました。戦闘の経験はありませんが、よろしくお願いします」
さっきのアーロン伍長とは違って、言葉の端々に迷いが滲んでいた。
胸を張ろうとしているけれど、肩に力が入りすぎていて、呼吸が浅い。恐れなどは無いように見えるけど、しっかりと緊張してしまっていた。
そして、最後の少年が前に出る。
わたしと同じくらいの年齢。
支給されたばかりの軍服がまだ身体に馴染んでおらず、袖も少し長い。靴も新品のまま硬そうで、歩くたびにぎこちない音がした。
「……ルカ二等兵です。よろしくお願いします」
その少年は、声は小さく震えていたし、視線もわたしたちと合わせることが出来ていなかった。恐怖を押し殺しているのが、痛いほど分かる。
きっと、わたしと同じで、強制的に軍に連れてこられた人なんだろう。その気持ちは、かなり理解できる。
だって、わたしも同じような気持ちだったんだから。
「こいつらが、今日から俺の隊に入る。だから、しっかりと鍛えておけ」
グレン小隊長はそれだけを言って、わたしたちから離れていった。背中を向けた瞬間、場に残された空気がずしりと重く沈む。
誰もすぐには口を開かなかった。レン伍長は姿勢を崩さずに立っているが、わずかに喉が動いている。レオン二等兵は緊張で指先が落ち着かず、袖口を何度も触っていた。そしてルカ二等兵は、まだ顔を上げられずにいる。
誰も話さないこの状況で、最初に口を開いたのは、シス伍長だった。
「えーっと、俺はシスという名前で、階級は伍長だ。お前らには、しばらくの間俺の下で戦ってもらう。それは、レンも同じだ。伍長と言っても、前線を知らない奴に兵を任せるわけにはいかないからな」
「分かっています」
シス伍長の言葉に、レン伍長が頷いた。
正直、その言葉に安心した面もある。何故なら、前線を知らない人に自分の命を任す気にはならなかったからだ。冷たいと思われるかもしれないけど、生き残るためには、それは仕方がないことだ。
「ただ、俺はレンのことを優先する。だから、レオンとルカはルーク上等兵にいろんなことを教わってくれ」
「え? 俺か?」
「当たり前だろ。この中で、一番人に教えるのが上手いのはルークなんだから」
「はぁ、いいよ。それなら」
ルークさんも、シス伍長の意見に納得したようで、しぶしぶ頷いていた。そう言えば、わたしとアインの時もこんな会話があったっけ。
そんなことを思いながらも、胸の中には一筋の不安がよぎっていた。
(わたしはもう、一人なのかな)
新人とは言っても、もう軍に所属してから二か月は経っている。だから、ルークさんも、わたしよりレオンやルカの方を優先するだろう。
だから、ルークさんの負担にならないためにも、わたしは傍から離れるべきだと思った。この胸の痛みに比べれば、ルークさんの負担を軽減する方が、ずっと大切なことなんだから。
けれど、その時……ルークさんが優しく背中を叩いてくれた。それは、わたしの胸の奥に沈んでいた不安を、そっとすくい上げるような、あたたかい力だった。
わたしは驚いて振り返る。ルークさんは、いつもの落ち着いた顔で、でもどこか柔らかい目をしていた。
「お前、わたしは離れるべきだ、なんて思ってただろ」
「え……あ……」
「馬鹿野郎、一人前になったつもりか? 俺にとっては、セラはまだぺーぺーの新人なんだ。だから、俺の傍から離れるな。……俺の負担が気になるってんなら、俺のサポートをしてくれ。そのくらいは、出来るだろ?」
「……はい」
ルークさんの言葉は、叱るようでいて、どこか温かい優しさが混ざっていた。その声を聞いた瞬間、胸の奥に張りつめていた不安が、すっとほどけていく。
わたしは思わず目を伏せた。嬉しいのに、泣きそうで、でも泣くわけにはいかなくて。
ルークさんは、そんなわたしの反応を見て、少しだけ口元を緩めた。
「それじゃあ、解散だ。レンは俺のところに、レオンたちはルークの方へと行け」
こうして、わたしに後輩が出来た。
彼らが、わたしよりも長く生きるのか、それとも……わたしよりも前に命を落としてしまうのか。
この時のわたしには、予想すら出来なかった。




