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季節の変わり目に、この地へやってきた子供には、いつまにか嫌われていたらしい。改めて聞くまでもなく、いっそ清々しいまでの、あからさまな態度だった。
初顔合わせのときこそ俯き視線を逸らす彼女の真意は見えなかったが、言葉を交わす際の温度ひとつで察するに容易い。たまに向けられる冷めた眼差しは、厭忌からのものであろう。そこに嘘偽りは見当たらず、彼女自身がもつものすべてで、奏歌という雄が嫌いだと率直なまでに伝えてくる。
なんと情のないことか。
本来ならば、群れの領域へと無断で足を踏み入れた存在は、即刻排除の運命であるというのに。庇護下に置いてやったこちらに対して感謝の欠片もない。それどころか睨みつけてくる始末に、呆れを通り越していっそ憐れみに似た情を抱く。
「鬼が嫌いか?」
尋ねれば、幼い瞳が揺れることなく応える。何故か、いいようのない寂寥が広がった。
「俺が気に入らないか」
「……あなた、おとうさんを食べたでしょう?」
子供は、恐ろしいほどに真実を視ていた。
そう恐ろしいほどに。
夜の帳が下りて、欠けた月が空へと上がる。
先人の亡骸沈む湖を通じ、人間の里と交わることのできる限られた夜。
蔀の前に置かれた長椅子に横たわり、格子の隙間からただそれを眺めている常を破ったのは、一人の男とその娘であった。
血を啜る鬼が棲まう隠れ里。人間にとっては最果ての地ともいえようこの地に、彼らが侵入してくることはそう珍しいことではない。何十年かに一人、好奇に負けた愚かな者が自ら命を散らしにやってくるのだ。人々の里では吸血鬼とよばれる住人たちが何を好物としているかなど、知らぬはずがないというのに。
そして、今、この膝に抱く子供。彼女の父にあたる男もまた、人ならざる者に魅せられた一人であった。ただ他と違っていたのは、その胸に抱く仄暗い野望か。
――――これは私の最高傑作だ!
その男は、耳障りな声からして不快な存在であった。不摂生の見本であるかの如く草臥れた姿をし、王の目前へとそれを躊躇うことなく差し出してみせた。
黒い髪に黒い瞳。人間の里に行けば、巨万といるだろう凡庸な顔立ちをした子供が実の娘であると話す。子供を生み落とした連れが砂雨という個名を与えたと、そしてこれは一度心の臓を止めたことがあると。
――――これが何か分かるかい?
――――ああ、理解したくはないがな。
すぐさま群れ中に歓喜に満ちた笑い声が響く。なんとも悍ましい。唾棄すべき人間を前にして、これ以上の感情を抑えることなど出来はしなかった。それは未だかつて味わったことのない屈辱であり、義憤、そして痛みを王に教えさせた。
事の顛末はこうだ。
鬼の棲家へとやってくる人間がいるように、鬼のなかにも人間に興味惹かれる者がいる。無力といえども彼ら人間が備える文明の利器は、鬼を害することが可能といえよう。特に銀の弾は、当たりどころによっては命を落とす者もいる。それにより捕らえられたいくつかの鬼たちは、狂った人間にその身を調べ尽くされた。本当に人間とは、探究心が尽きない生き物なのだ。研究者たちは苦労して手に入れた獲物の肉を切り裂き、血を抜き、骨を削り、その先に繁殖を試みようとした。それは雌雄を番わせる交尾で終わらず、創成という未知へと進む。
鬼と人間は、姿形こそよく似ている。だが、それらを構成する一つ一つの細胞は異なり、鬼から流れる血は黒く、まるで墨のよう。ならば、人間と最も違うその血をすべて入れ換えてしまえばいい、思いつくのに時間はそうかからなかったそうだ。
とても短絡的な思考だ。あまりに単純で滑稽。だが、たった一人の人間が描き、数人の技術者によって実行された計画は、いとも簡単に成功してしまった。
今、王の膝に向かい合うかたちで乗る子供は、同胞たちの胸を掻き乱すほど懐かしい気配を放っている。幼いながらも甘美たる雌の匂いの奥、見え隠れするそれを王たるこの身が、否、父である己が間違えるはずがない。
「あいこだ」
丸く黒い目が、窺うように王を見上げる。
息子の瞳は、紅だった。似ても似つかぬその色を見下ろし、指先で彼女の渇いた唇をなぞる。
「君が俺を厭うように、俺も君を受け入れずにいる。君のこの小さな口は、倅を喰らったのだから」
「くらう……?」
「鬼を食べただろう」
不満だというように、子供の眉が寄った。
「……たべてない」
知っている。
嘘ばかりは己のほう。匂いに混じりを感じれないことから、子供がまだ人間の血を啜った経験はないとわかる。そして、受け入れないと告げながらも、男の腕はしっかりと小さな身体を支えていた。
ひとつ、息を吐き出した。音もないほど、小さく。
「君からは、倅と同じ匂いがする」
この子供は確かに人間として生をうけたはずだというのに、同族の匂いを纏っている。喪った彼らの血が彼女のなかで流れ、生きている証だった。その違いを嗅ぎ分けられる種族であることが幸か不幸かは判らないが、それでも男は新たな生命を拒むことなど出来ないのだ。あの狂った人間の腕から一刻も早く奪い去りたい、そう本能が告げてきた瞬間を、はっきりと覚えている。
人間とは思えぬ鬼畜の所業を犯した男は、罪を誇らしげに語った夜のうちにこと切れた。王はただ命じるだけでよかったのだ。後のすべては、王に同調する者たちの手により血を流し、朽ちていくはずの肉は深き森へと棄てられたことであろう。隷属たる狼は、骨さえもを砕く。残るすべてを狼の腹におさめられる最期となったあの男は、はたしてこの結果に満足しているだろうか。
「あなたの子供、なんて名前だったの……?」
「遠南」
びくり、と小さな肩が震える。
やはりか。男の予感が確信に変わった。
一度死を迎えたという子供の身を、造り変えることで蘇生させるなど、人間だけの力では不可能に思えた。だが、男の一人息子によるものだとしたら納得がいく。次の王になるべくして生まれたあれの血には、それだけの力があるはずだ。恐らくは、捕らえられた人間の棲家で死に間際、この子供に何か施したのだろう。
考えてみれば、可笑しな話だった。慈悲の心もなく、生物の命を誰よりも軽んじていたあの未熟者が、最期に抱いたのは単なる憐れみか、それとも愛念の情か。
「倅は、遠南という」
男がつけた名だった。
女が己の命と引き換えに産み落とした子であったのだ。
「あれは、誰に似たのか。どうしようもなく頑固で無鉄砲。……ああ、それに類をみない親不孝者であったか」
――――なるほど。子供はどこか息子に、似ているのやもしれない。
肉親の死にも哀哭することのなかった子供が、隠すことなく愛らしい顔を歪めていた。月明かりもなかった暗闇が潤み、柔らかな頬を撫でる男の指先には冷たい雫が落ちる。
それで、充分だった。息子の死を哀しんでくれる存在がいる。それだけで救われるものがあり、罪なき子を心置きなく愛せる気がした。




