第3話 サンクコストの砂漠
2-1:冷たい復旧
地平線から昇る太陽の光は、大気中に浮遊する珪酸塩の微粒子によって屈折し、周囲の岩盤を濁った赤色に染め上げていた。要塞104の外壁は各所が融解し、不整形な黒い塊となって地面に垂れ下がっている。
新田中尉は、硬化した珪酸塩の残骸の上に腰を掛けていた。装甲服の胸部インジケーターは『BATTERY: 4%』を点滅させ、コンソールには『HEATER: OFF』の文字が固定されている。新田の指先は白く変色し、レーザーライフルのグリップを握ったまま微動だにしなかった。
「中隊長。……これ、一応、水です」
右目を血の滲んだ包帯で覆った日下部曹長が、新田の側面に歩み寄った。ちぎれた左腕の袖口には、凝固した紫色の止血剤が乾燥して固着している。差し出されたのは、大破したストライダーの冷却タンクから反転排出された、金属臭の帯びた再生水だった。
新田はバイザーを3センチだけ跳ね上げ、容器を受け取った。液体が喉を通るたび、鉄錆の味が口腔に残った。
「他の生存者は」
「19名。……2分前、第2小隊のササキのバイタルが停止しました。内臓破裂です。医療パックの残数はゼロです」
日下部は前歯の欠けた口元を横に広げた。その視線は新田を見ることもなく、足元に転がる装甲服の胸部プレートの破片へと向けられていた。日下部は右足のつま先でその破片を無造作に蹴り飛ばした。金属片は乾いた音を立てて斜面を滑り落ちていった。
「遺体はどうする」
「ここに残します。携行シャベルのバッテリーもありません。この区域の砂は酸性値が限界を超えています。3日後には装甲の複合材ごと液化して泥になります。イノウエも、坂口少尉も、すでにセンサーの走査範囲から消えました」
一個中隊の定員124名に対し、現在の登録数は19名。残弾数インジケーターはすべての兵員の端末で一桁の数値を表示していた。
そのとき、ひっくり返った通信コンソールの内部から、高周波の電子音が単調に響き始めた。
ピィーーーーーーーーー。
画面に『超空間リンク確立。極東管区総司令部サーバーと同期中』の文字が明滅する。新田は腰を上げ、コンソールの露出した基盤へ自身のマスターキーを差し込んだ。
『未読データ、1件。展開します』
バイザーの左半分に、暗号化された電子命令書が表示された。
『作戦変更命令:第11中隊は即座に要塞104を放棄。北方300キロに設定された新防衛線「セクター・ガンマ」へ即時転進せよ。同拠点におけるすべての残存資材は現地破棄を許可する』
新田は画面のテキストを見つめたまま硬直した。バイザーの内側で、彼の不規則な呼吸音だけがマイクに拾われて小さく鳴る。
「……転進、ですか」
日下部が通信ログを共有し、淡々と呟いた。「放棄、と書かれていますね」
新田の指先が動いた。彼は命令書のデータヘッダーを選択し、プロットトレーサーの処理手順でログファイルのバックトレーシングを開始した。画面上で、通信レイヤーの暗号コードが次々と反転していく。軌道衛星の周回フレーム、本隊の送信サーバーのタイムスタンプが数式化され、一本のタイムラインへと収束した。
「……日下部」
新田の声のトーンは変化しなかった。「この命令が決裁された正確なシステム時刻を読め」
「同期プロトコルが今完了したのですから、現時刻ではないのですか」
「違う」
新田は画面の一行を指でタップした。解析された生データが赤く反転する。
「送信キューへの挿入時刻は、今から72時間前だ」
日下部の右目の周囲の筋肉が、わずかに収縮した。
72時間前。それは、坂口の第3小隊が通路B3の爆破ログを残して通信を絶つより前であり、トヤマ一等兵のバイタルサインが停止するよりも前、そして大河内大尉の指揮所が重粒子砲の熱線によって熱量測定不能になるよりもさらに前のタイムスタンプだった。
「俺たちがここを維持していた3日間は」
新田の指が、コンソールのエッジをきつく押し付けた。「最初からシステム上の計算に入っていない。この座標は3日前に処理されている」
画面の隅では、本隊の自動処理プログラムが『要塞104:損耗率100%(償却済)』のステータスを出力していた。
「……日下部。心拍数に変化はあるか」
日下部はちぎれた左腕の袖口を右手で掴み、濁った赤い空を見上げた。大気から降下してくる珪酸塩の砂粒が、彼のひび割れたガラス面を叩いてカチカチと音を立てている。
「いえ」
日下部は前歯のない口をわずかに開けた。「エネルギーの無駄です。それよりも、あの駅前の店のカツカレーパンの脂の匂いの方が、今は鮮明に思い出せます」
2-2:虚無の行進
「総員、装備の泥を払え。移動を開始する」
新田の音声コマンドがインカム経由で送信されると、各員の端末から『了解』を示す短い電子音が規則正しく返ってきた。兵士たちは無言のまま立ち上がり、要塞の残骸からバッテリーセルと装甲パッチを機械的に引き抜き始めた。
通路B3の強固な岩盤の前を通り過ぎる際も、誰も歩度を緩めなかった。インベントリの回収数値が『バッテリー:+4』『残弾:+12』と更新されていく。
「中隊長、120ミリ重迫撃砲の残弾4。重量過大です」
第2小隊の兵士が、砲弾の信管ボックスを指差した。
「信管のタイマーを最大値に設定し、コンソールの自爆回路へ直列しろ。座標の完全消去を行う」
「了解」
22分後、第11中隊の全車両・人員の移動準備が完了した。
新田がゲートの閉鎖レバーを引き下げると、油圧が抜ける重い金属音が響き、要塞内部の照明が一斉に消灯した。
北方300キロに広がるタナトス-IVの砂漠。
風が吹くたび、赤い珪酸塩の砂が装甲服の駆動関節部に侵入し、ギチギチと摩擦音を立てる。各員の補助モーターは『省電力モード:強制オフ』に設定されており、兵士たちは数十キロの装甲の自重を自身の筋肉だけで支えながら、時速4キロの速度で砂丘を越えていった。
「なあ」
行進の列の3番目を歩く日下部が、通信回線を開いた。
「実家の近くにさ、ちっちゃい池があったんだよ」
インカムからは風のノイズと、関節の摩擦音だけが返ってくる。日下部はそのまま単調な声を続けた。
「そこで親父とよくフナを釣った。竹の竿でさ、浮きがピコピコ動くのをじっと見るんだ。何時間も。池の水は泥臭いんだけど、どことなく甘い匂いがした」
「……フナは小骨が多くて乾燥食の足しにもならない」
前方を歩く兵士が、感情の起伏のない声で応じた。
「食わないさ。釣ったらすぐ逃がす。親父は、プロセスがすべてだと言っていた。結果はどうでもいいんだと」
新田は自身のバイザーに表示されている戦術マップを見つめた。画面上では「11th Co. MOVING」という緑色のプロットが、北へ向かってミリ単位で前進している。地球の主電算機において、そのプロットが動いているという事実だけが、処理ループを維持させていた。
行進開始から10時間が経過し、周囲の光量が低下して黒紫色の闇が砂漠を覆い始めた頃、新田の端末に警告シグナルが割り込んだ。
チカ。
『警告:第11中隊の現有戦力報告に3日間の遅延があります。データベース上、貴部隊は「一個中隊(124名)」として処理されています。正確な人員数を再入力してください』
新田は歩行を止めず、左手の手首コンソールを操作した。人員数の入力フィールドには『124』の数値がプリセットされている。新田はその数値を消去しなかった。ただ、下部にある『現状維持・接続継続』のチェックボックスをタップした。
画面上の総員数『124』はそのまま固定され、警告赤ランプが緑の正常点灯へと切り替わった。
「中隊長、前方に光軸」
日下部の変調音声が短く響いた。
砂丘の頂点から見下ろす視界の先、タナトスの赤い闇を切り裂くように、3本の青白い索敵レーザーが不規則に往復していた。友軍の周波数ではない。敵巡邏部隊の接近を示すアラートが、新田のバイザーの端で静かに点滅を開始した。
新田はレーザーライフルのレバーを静かに引き、スロットの装填ランプが青く灯るのを確認した。彼の指先は、次の戦闘プロトコルの入力を待つように、トリガーガードの横で完全に静止していた。
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[ASSET STATUS LOG]
Timestamp: 2126.04.15-02:18:40 (Tanatos-IV Local)
Unit ID: 3rd Sector, 11th Infantry Company
Target Point: Sector Gamma (En Route)
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[ASSET INVENTORY]
- Assigned Personnel: 124 units (Database Preset)
- Active Survivors: 19 units (Combat Capable: 2 units)
- Cumulative Attrition Rate: 84.7%
- Ammunition Reserves: 0.0% (Reclaimed Inventory Only)
- Operational Status: ACTIVE / RETURNING FIRE
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