【第9話】 煙を追い出す本修理
「煙だ。火から離れてくれ」
薪を一本足した直後、暖炉の上から薄灰色の煙が押し戻された。食堂の天井近くへ広がるより先に、卓を囲んでいた客が咳き込み、椀を持ったまま立ち上がる。
レイノは火掻き棒で薪を崩し、火力を落とした。窓と扉を細く開けると、冷気が床を這い、せっかく暖まっていた食堂の空気を奪っていく。
「少し換気すれば戻る。客室の保温は残っているから、食事が終わる頃には――」
言いながら、壁際へ目を向けた。
毛玉はいつもなら暖炉に近い場所を選ぶ。それが今は、煙の残る壁から身体を遠ざけ、食堂の反対側で毛を身体へ張りつかせていた。
客室を暖かくすることはできる。寝具へ蓄積した保温も、すぐには消えない。
だが、煙は外へ出ていかなかった。
「今日はこの暖炉を止めます」
レイノが告げると、客の一人が開いた窓から入る風に肩をすくめた。
「夜はどうするんだ」
「使用する部屋を減らします。暖かさを保てる場所へ移ってもらう。今夜の人数も、これ以上は受けません」
その言葉を口にした途端、空いた寝台と失う宿泊料が頭へ浮かんだ。それでも、咳き込んだ客を前に火を足す選択はできなかった。
呼び寄せていた修繕職人が宿へ着いたのは、その日の昼過ぎだった。
大柄な男は挨拶より先に暖炉へ近づき、冷えた石組みを手の甲で叩いた。煤を指先で擦り、煙道へ顔を寄せる。レイノが整えた客室も見せたが、乾いた寝具や保たれた室温には短く目を向けただけだった。
「ここは暖かくできます。客も眠れている」
「暖かいことと、燃やしていいことは別だ」
修繕職人は煙道の根元へ道具を当てた。鈍い音が響き、石の継ぎ目から細かな煤が落ちる。
「煙が抜けきらず、内側へ戻っている。継ぎ目も痩せてる。このまま火を強くすれば、煙だけで済まん」
「火力を抑えれば、修理が終わるまで持たせられませんか」
「今夜持つかもしれん。次に薪を足したとき持つとは言わん」
短い返答だった。
レイノは暖炉を見た。火を弱め、窓を開け、能力で失った暖かさを補う。客を寒さへ戻さず営業を続ける方法なら、まだ考えられる気がした。
修繕職人は、その迷いを待たなかった。
「保温で煙は外へ出ない。寝心地を上げても、壁の中の熱は逃げん。客を眠らせたいなら、先に燃やしていい形へ戻せ」
レイノは唇を噛んだ。
能力を使えば客室は快適になる。だからこそ、危険が見えにくくなる。
「……名前を聞いていませんでした」
「ガルドだ」
「レイノです。この宿を管理しています」
「知った。で、どうする」
依頼人の顔色をうかがう問いではなかった。使用を止めるか、危険を承知で続けるか。責任を持つ者に決めさせる声だった。
「暖炉は止めます」
レイノは答えた。
「応急処置ではなく、本修理を頼みます。客室は閉める。必要なら売上も諦めます。ただし、泊めている客を今夜眠らせる場所は残したい」
ガルドは初めて客室の方を見た。
「使う場所を絞れ。工事側へ人を入れるな。煙道を開ける間、暖炉の周りも閉鎖だ」
「共同客室と安全な一室へ集めます。寝具と食事の動線は俺が組み直す」
「なら、俺は煙道を直す」
全室営業を諦めると、宿の中は急に狭くなった。
レイノは閉鎖する客室から寝具を運び出し、共同客室の寝台間隔を調整した。壁沿いの夜間通路は塞がず、荷物置き場も残す。暖炉へ追加の能力を重ねる代わりに、既に保温効果が残る部屋へ客を集め、食事の時間をずらして冷気の出入りを減らした。
「工事が終わるまで、新しい客は受けません。今いる方にも、使える部屋を移ってもらいます」
入口へ出した告知を見て、宿泊客が尋ねた。
「料金は同じか」
「閉鎖の影響がある分は下げます。共同客室が合わなければ、無理に残ってくれとは言いません」
客は工事区域を一度見てから、荷を共同客室へ運んだ。
「煙を吸うよりはいい。食事が出るなら泊まる」
「必ず出します。暖炉を使わない前提で、冷めにくい物にします」
客数は減った。空いた寝台を見るたびに胸が痛んだが、煙の戻る暖炉へ薪を入れるよりはましだった。
本修理には数日かかった。
ガルドは傷んだ継ぎ目を開き、煤の詰まりと熱の逃げ方を確かめ、使える部分と替える部分を分けた。レイノは作業を逐一覗き込まず、客室と食事を守る方へ回った。床のきしみや厩舎跡について尋ねても、ガルドは首を横へ振る。
「今は煙道だ。床まで開けば、客を置く場所がなくなる」
「厩舎跡も傷んでいる」
「見れば分かる。だが全部同時に直せる金も場所もないだろ」
否定できなかった。
「煙道を先にする。床と厩舎跡は、次の改修に回します」
「それでいい。優先を増やすな」
作業中、鋭い金属音が響くたび、毛玉は共同客室の寝台下へ逃げ込んだ。ガルドが工具を置いて音が止むと、しばらくして姿を現す。ただし煙道近くへは戻らず、別の壁際で床の振動を確かめるように短い脚を踏み替えた。
ガルドは毛玉へ手を伸ばさなかった。侵入口になりそうな隙間を見つけると、逃げ道を残したまま覗き込み、断熱材へ傷がないかだけを確かめる。
「こいつは壁へ入るのか」
「入ることはあります。けど、点検をさせるつもりはありません」
「させん。中で驚いて暴れられる方が困る」
工具を持ち上げた途端、毛玉は低く「ぶるる」と鳴いて後ずさった。
「嫌われましたね」
「音を嫌ってるだけだ。俺まで好かれる必要はない」
それでもガルドは、次に工具を打つ前だけ床を一度鳴らした。毛玉は意味を理解した様子もなく逃げたが、今度は作業域へ飛び込まず、離れた寝台の陰から様子を見ていた。
本修理を終えた朝、ガルドはすぐには火を入れさせなかった。
煙道の継ぎ目をもう一度触り、暖炉周りを見回し、窓と扉の状態まで確かめる。レイノが薪を手に待っていると、ようやく顎を引いた。
「少量からだ」
レイノは薪を組み、火を移した。
小さな炎が木肌を舐める。以前なら火が育つにつれて食堂へ滲んでいた煙は、今度は戻ってこない。細い煙は迷わず上へ吸われ、煤の匂いも壁際に残らなかった。
レイノは息を吸った。喉に引っかかるものがない。
「もう一本、足していいですか」
「急ぐな。排気を見ろ」
二人で待った。炎が安定しても、室内の空気は澄んだままだった。
「足せ」
許可が出ると、レイノは薪を加えた。それから使用中の客室へ回り、寝具の位置、扉の開閉、食堂までの動線を整える。安全になった暖炉の熱と、既に宿へ蓄積していた保温、寝心地、休息の流れを一つの宿泊体験として結び直した。
暖気が、以前より穏やかに広がっていく。
食堂だけが熱くなるのではない。共同客室の入口、使用中の一室、廊下の冷え込みまでが均されていく。薪は以前より少ない。それなのに、窓際へ座った客も肩をすくめなかった。
「煙くないな」
客は湯気の立つ椀を持ち上げ、暖炉へ背を向けたまま食事を続けた。
壁際では、毛玉が慎重に鼻先を動かした。煙道側へすぐ寄ることはせず、しばらく空気を確かめてから、安定した場所で毛をゆっくり膨らませる。耳も脚も隠れ、灰白色の球になった。
「暖かい。しかも、薪が減ってる」
レイノは薪置き場と客室を何度も見比べた。声が抑えられず、ガルドの方へ向き直る。
「煙を外へ出せるだけで、こんなに熱が使えるのか。今まで保温へ回していた分も、無駄が減ってる。これなら冬の客室を――」
「先に今夜を見ろ」
ガルドは浮かれなかった。暖炉の継ぎ目へ手を当て、音を聞いている。
「安全確認は終わった。だが床も厩舎跡も残ってる。次に何を造るかは、金と営業場所を見て決めろ」
「分かっています」
レイノは答えながらも、笑いを止められなかった。
煙を我慢させず、窓を開けて暖気を捨てず、少ない薪で客を休ませられる。冬を越すための土台が、ようやく能力ではなく建物そのものへ入った。
食堂には、煙ではなく料理の湯気が満ちていた。
レイノは暖炉の火を見つめ、次に欲しい設備を思い浮かべる。浴場も、食料庫も、厩舎も必要だ。けれど、すべてを造るには、今の宿泊料だけでは足りない。
「次は、工事を続けても客を減らしすぎない金の入り方が要るな」
「造る順番より先に、払う順番を決めろ」
「夢のない言い方をしますね」
「壊れた後まで払うのは、もっと夢がない」
レイノは暖かい食堂を見回した。
閉じた客室はまだある。直していない床も、使えない厩舎跡も残っている。
それでも暖炉は静かに燃え、煙を一筋も室内へ返さなかった。




