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世界一休める峠の宿――一泊ごとに設備が育ち、災害さえ越える大宿へ  作者: カイト


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10/20

【第10話】 一隊を休ませる定宿契約

 レイノは紙の上に書いた設備名を、三度目にしてようやく消す手を止めた。


 浴場。食料庫。厩舎。上級客室。


 どれも必要だ。どれも今の売上では、完成まで遠い。


「順番以前に、足りないな」


 暖炉は静かに燃えている。煙戻りはなく、食堂も共同客室も以前より少ない薪で暖まっていた。だが、閉鎖中の客室は残り、床も厩舎跡も直っていない。安全な土台を得たぶん、次に必要な金額がはっきり見えるようになっていた。


 入口の外から、車輪と蹄の重なる音が響いた。


 一台ではない。


 レイノが扉を開けると、荷車を連ねた輸送隊が宿前に止まり始めていた。隊員たちは肩や腰を回し、輸送獣は白い息を吐いて足を踏み替えている。その先頭から、帳簿を抱えた男が降りた。


「こちらが、休んだ翌朝には出発が早くなる宿でしょうか」


「休めるようにはします。ただ、全員分の個室はありません」


「個室が必要だとは申し上げていません」


 男は宿の入口、閉鎖中の廊下、荷車の数を順に見た。


「輸送隊の運行を管理しています。宿泊効果が予定へ組み込めるものか、一隊で試したいのです」


 大型改修へ届く金の入り方が要る。


 その答えが、荷車ごと現れた。


「それなら、使える個室を隊員へ回します。疲れの強い人から優先して、共同客室は残りの人へ。食事も身体の状態に合わせて――」


「同じことを百回できますか」


 レイノの言葉が止まった。


 男は柔らかな口調のまま、帳簿を開いた。


「一度だけ手厚く休ませる話ではありません。何人まで、いくらで、何時に到着すれば、翌朝何時から出発準備へ入れるのか。その条件が必要です」


「宿泊すれば、回復は見込めます」


「最大でどこまで回復するかではなく、最低でもどこまでそろうかを知りたいのです」


 個室へ振り分け、疲労ごとに寝具と食事を変える。それなら高い効果を出せる。


 だが、隊が来るたびに客室を閉じ、全員へ別の対応をするなら、通常営業も次の隊も受けられない。


「全員を最高の状態へ、では契約商品にならないということですか」


「私が買いたいのは奇跡ではなく、予定です」


 反論しようとして、入口から短い声が飛んだ。


「その聞き方なら、先に出発準備を決めた方が早い」


 荷袋を肩から下ろしたミレナが、輸送隊の後ろから食堂へ入ってきた。別の配達を終えたばかりらしく、外套には街道の埃が残っている。


「ミレナ、戻っていたのか」


「今着いた。隊列の後ろが峠道で二度詰まってた」


 ミレナは帳簿の男へ視線を向けた。


「全員が元気でも、荷締めをやり直す者が二人いれば出発は遅れる。必要なのは、同じ時間に起きて、食べて、荷へ触れる状態だ」


「あなたは、この宿の関係者ですか」


「配達人だ。ここで休んだ後の実走結果は持ってる」


 ミレナは荷袋から折り畳んだ記録を出した。休息前後の到着時刻と、経路変更による差が簡潔に並んでいる。


 男は記録へ目を落とした。


「予定外の経路変更がありますね」


「通れない道へ予定どおり入る方が遅れる」


「全体計画を現場判断だけで変えられると困ります」


「変更できる区間を先に決める。外へ出る前と、中継へ着いた時点で報告する。それ以上の裁量はいらない」


 男はすぐには答えず、記録とミレナを見比べた。


「今回の一件については、その条件で構いません。変更理由と到着見込みは必ず残してください」


「分かった」


 短いやり取りだった。互いに納得したというより、扱える範囲を切り分けた声だった。


 レイノは紙に並べた個室案を頭の中で破った。


「共同客室を中心にします」


 二人がこちらを見る。


「基本食、共同客室、荷物を置く動線、それから輸送獣の休息を一つにする。全員を最大まで回復させるんじゃない。翌朝、隊全体が同じ時間に動ける品質へそろえる」


「人数は」


「今夜はこの一隊までです。通常客は一部制限する。追加は受けません」


「料金は」


「食事と寝床を削って安くはしません。ただし、個室料金ではなく共同客室を基準にする。輸送獣は厩舎跡の安全な区画だけです。全体は使えません」


 男は閉鎖中の廊下へ目を向けた。


「当日追加は」


「保証しません。上限を越えれば、品質が落ちる」


「大口を断るのですか」


「休めない人数まで泊めれば、次から契約にならないでしょう」


 男の指が帳簿の端を一度叩いた。


「では、今夜はその条件で試しましょう」


 レイノは一隊を正式な宿泊客として受け入れた。


 共同客室では、寝台の間隔をそろえ、夜中でも荷物へつまずかない通路を一本残した。食事は到着直後に重い物を出さず、温かい基本食を同じ時刻に配る。出発準備の早い者だけが先に動いて他の眠りを妨げないよう、荷物は食堂側へまとめた。


 能力を向けたのは、一人の寝台ではない。


 共同客室全体の温度差を減らし、端の寝台だけが冷えないようにする。寝心地も、最良の一床を作るのではなく、どこへ横になっても大きな外れがない状態へそろえていく。片付けの補助も、朝に通路を塞がない範囲へ絞った。


 隊員の一人が寝具へ腰を下ろし、隣の寝台を見た。


「場所で寒さが違わないな」


「違いをなくしました。今夜は早く寝てください。荷の確認は食後に一度だけです」


「もう一度見たいんだが」


「見るなら今です。寝てから起きて確認するのはなしにしましょう」


 不満そうな顔をした隊員も、温かい椀を空にする頃には返事が鈍くなっていた。


 厩舎跡では、使える床と柵だけを区切った。レイノは傷んだ箇所へ縄を張り、輸送獣を入れすぎない。能力で破損を覆わず、乾いた敷き物と水、風を避けられる位置だけを整えた。


 大人数と荷音に驚いた毛玉は、食堂の隅から早々に姿を消した。ミレナが荷袋を軽く叩いても現れず、寝台下の暗がりからこちらをうかがうだけだった。


「今日は判定してくれそうにないな」


「させる気もない。これだけ音が多ければ、嫌がって当然だ」


 夜が深まり、荷車の金具も人の声も止むと、毛玉はようやく共同客室へ入った。寝台の列を避けて壁際を歩き、最も端の空いた場所で身体を丸める。


 隊員たちは誰も追わなかった。毛玉も誰かの寝具へ潜り込まず、低く「むぅ」と鳴いて毛を膨らませた。


 共同客室の呼吸が、少しずつ同じ速さへそろっていった。


 翌朝、最初に違いを見つけたのはミレナだった。


「二人目が起きる前に、一人目が荷をほどいてない」


 食堂の窓から外を見ながら、隊列を指で追う。


 普段なら起床の遅れた者を待ち、その間に先に動いた者が荷締めをやり直す。今朝は全員が近い時間に食堂へ下り、食べ終えた順に決められた荷へ向かっていた。


 輸送獣も一頭だけが遅れて立つことはなく、そろって水を飲み、荷具を受け入れている。


「予定より早いですか」


 輸送隊の運行管理者が尋ねた。


「早い。正確には、やり直しが少ない」


 ミレナは隊員の動きを見たまま答えた。


「先頭だけ急いでない。後ろも待たせてない。このままなら、峠を下りる前の遅れを減らせる」


 男は喜ぶより先に帳簿へ数字を書いた。


「削減できる時間は毎回同じとは限りません。ですが、出発準備へ入る時刻のばらつきは小さい」


「その条件なら再現できます」


 レイノは共同客室を振り返った。


「ただし上限は変えません。寝台を詰めれば人数は増やせる。でも通路と睡眠の質が落ちる。追加料金を出されても、今の設備以上は受けません」


「契約を得る場面で、客を断る条件を入れるのですね」


「断れない契約なら、宿の品質を売ることにならない」


 言い切ると、胸の奥が熱くなった。


 個室を並べなくても、一隊の朝を変えられた。しかも、一度きりの歓声ではない。人数と食事と寝床をそろえれば、次も同じ形で試せる。


 男は帳簿を閉じた。


「申し遅れました。私はセリオです」


 レイノはその名を、契約相手の顔と結びつけた。


「レイノです。改めて、よろしくお願いします」


「定期利用の条件を詰めましょう、レイノさん」


 セリオは食堂の卓へ契約書を広げた。利用回数、標準人数、前払金。予約情報を受ける担当はセリオが持ち、当日の追加人数は宿側が保証しない。食事、共同客室、輸送獣の限定区画を標準宿泊の範囲とし、それ以上は別途確認する。


 ミレナにも一件ごとの経路変更可能区間と、報告の時点が示された。


「この範囲なら走れる」


「では、変更時は理由と到着見込みをお願いします、ミレナ」


「分かった、セリオ。現場で止まる道まで予定扱いにはしない」


「その報告があれば、こちらも予定を変えられます」


 二人の間に親しさはなかった。だが、一件の運行を同じ紙の上で扱う関係は成立した。


 レイノは契約内容を最後まで読み、前払金を受け取った。


 硬貨の重みが掌へ沈む。


 宿で一晩眠った結果が、隊列の出発を変えた。その差が料金になり、次の宿泊予約になり、まだ存在しない設備の材料へ変わろうとしている。


「これで、工事へ進める」


 声が弾んだ。硬貨を置き、改修候補を書いた紙を引き寄せる。


「浴場なら客の回復を食事と睡眠へつなげられる。けど輸送隊を継続して受けるなら、厩舎の本修理も先に――いや、給湯の基盤を先に作れば後で洗浄にも――」


「一度に使う前提で話していませんか」


 セリオが穏やかに遮った。


 レイノは紙と前払金を見比べ、手を止めた。


「……まだ片方ですね」


「はい。前払金は、使い切るために渡したのではありません」


 ミレナが外套を着直しながら言った。


「決める前に寝た方がいい。今の顔は、四つ全部造る顔だ」


「二つくらいです」


「減ってない」


 食堂の隅では、昨夜の静けさを覚えた毛玉が丸いまま動かなかった。


 レイノは前払金をしまい、浴場と厩舎の文字を紙の上に残した。


 どちらを先にするかは、まだ決めない。


 だが、昨日まで空欄だった工事資金の欄には、確かな数字が入っていた。

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