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『夜の窓辺に君の描いた色彩を』  作者: 長月有希


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最終話『誰が為の栞』(2)

 窓のわずかな隙間から吹き込んだ一際体積の大きな気流の塊が、テーブルの上で滞空していた最も厚いページの束を一気にすくい上げた。

 数十枚分の手漉き紙の束が空中で一つの巨大な質量となり、重力によって絵本の右側へと激しく叩きつけられる。空気を鋭く押し潰す重たい衝撃音が病室の壁に激突し、四方に乱反射した。

 それを最後に、窓の外の気圧のバランスが変化したのか、室内への風の流入が完全に、そして唐突に停止した。

 めくれ上がっていた絵本のページは物理運動を強制的に終了させられ、開かれた状態のまま、金属のサイドテーブルの上で完全に動きを止める。

 紙が擦れ合う摩擦音の最後の残響が、消毒用アルコールの匂いが漂う均質な空気の中に吸収されて消滅する。色彩の明滅も完全に静止し、視界はただ、風の運動エネルギーによって偶然にあるいは必然的に開かれたまま固定されたその『最後の見開きのページ』の表面へと、音もなく極めて冷徹に焦点を絞り込んでいった。


 風という外部からの物理的干渉が完全に途絶えた病室は、直前までの紙片の激しい舞踏が初めから存在しなかったかのように、再び完全な真空の箱としての絶対的な静止状態へと回帰した。

 朝の無機質で白い光が、見開かれた広大な純白の余白とそこに定着している物質を、一切の陰影の逃げ場を許さないほど均一に照らし出している。

 そこに提示されている視覚的な事実は、つい先ほどまで極限の精神状態で構築された『物語の結末』を、物理的な次元から根底から否定し、認識を完全に無化するものであった。

 この最後の見開きページに、ブルーブラックの暗く重たいインクの沈殿は存在しない。血を吐くような懺悔の言葉を書き連ねた真鍮の万年筆の傷跡も、両腕を奪われた少女ステラの姿も。すべての罪を浄化するはずであった圧倒的な夜明けの光の顔料も、ただの一片の粉末すら定着してはいなかった。

 狂気の坩堝の中で完成したと信じ込まれていた『真実の絵本』の結末の風景は、現実の物質としてのこの紙の表面には最初からただの一ミリも描かれてはいなかったのである。


 純白の背景の上に存在しているのは、極めて細く、硬質な黒鉛の芯によって削り出された、単色の緻密な線の集積だけであった。

 顔料の氾濫もインクの吐露も完全に排されたその画面は、極度に冷徹な客観性を保っている。感情の爆発や祈りのような筆致は一切見られない。眼前に存在する物理的な対象の光と影の分布を、網膜に結像するそのままの数学的な精度で正確に平面上へと写し取ろうとする冷徹な第三者の視点だけがある。

 極細のハッチングの無数の重なりと黒鉛の濃淡の完璧なコントロールによって構成されているのは、暗黒の森でも古い図書室でもない。今まさにこの絵本が置かれている空間そのもの、すなわち無機質で冷え切った『現実の病室』の風景であった。

 幾何学的な直線を引かれた壁のタイル。窓から差し込む光が床に落とす四角い影。現在の現実の病室からは完全に撤去されているはずの、点滴のスタンドと心電図のモニターのシルエット。それらは精密な静物画を構成する不可欠な要素として配置され、主観的な感情の歪みは一切介入していない。


 その精密に構築された病室の風景の中心。シワ一つなく整えられたベッドの上に、一人の人間の姿が横たわっている。

 画面の手前、ちょうど今この絵本が置かれているサイドテーブルの横の空間から、ベッドを見下ろすような明確な客観的視点から描かれたその人物は。

 他でもない、月城詩織の姿であった。

 極限の激痛に顔面を歪ませ、絶望の涙を流し、神経を絶たれて痙攣を繰り返す凄惨な姿ではない。画面の中の彼女は清潔なシーツに身を包み、ただひどく穏やかな、一切の苦悶を持たない表情を浮かべて極めて静かな眠りに落ちている。

 閉じた瞼を覆う長い睫毛の柔らかな影。規則的な呼吸に合わせて胸部が上下している時間的推移の気配。何よりも、シーツの外へと投げ出されている身体は、暗い泥の森で奪われたはずの両腕を、滑らかな皮膚と完全な骨格の構造を保ったまま五体満足の状態でそこに存在させている。首の骨が折れた不自然な角度もなく、拘束帯の姿も存在しない。

 そこにあるのは、理不尽な悲劇を背負った被害者でも、罪に発狂した哀れな加害者でもない。ただの、無機質な病室のベッドの上で静かな眠りについている、等身大の十七歳の少女の完璧なまでに美しい静物スケッチだった。


 この一枚の精巧な黒鉛のスケッチが提示する視覚的真実は、膨大な文字数と精神の苦痛を伴って語られてきた『主観的現実』のすべてを無化し、構造を完全に裏返してしまう暴力的な矛盾を孕んでいる。

 彼女は本当に、嫉妬心から親友を惨殺し狂い死んだのか。それとも、交通事故も、這いずる絶望の森も、夜明けの光に包まれた和解も。すべてはこのベッドの上で穏やかに眠り続ける脳髄が再生していた、長い夢の出来事に過ぎなかったのか。

 絵本の中に描かれた病室の光の角度は、今まさに現実の窓から差し込んでいる光の角度と恐ろしいほどの精度で一致している。しかし、現実のベッドの上には月城詩織の肉体は影も形も存在せず、シーツは一度も人が寝たことがないかのように冷たく平滑に整えられている。

 どちらが真実であり、どちらが虚構であるのか。客観的な視界は、矛盾に対するいかなる解答も提示することはない。


 再び、病室の気圧が急激に変化した。

 先ほどよりもはるかに強い、突風と呼ぶべき冷たい空気の塊が窓の隙間から暴力的に侵入し、サイドテーブルの上の絵本を強打する。

 静止していた最後の見開きページが、風圧によって大きく持ち上げられた。厚みのある紙の束が一気に左から右へと覆い被さるように倒れ込み、バタンという極めて重く鈍い音を立てて、絵本はそのすべてのページを完全に閉ざした。

 視界は、閉じられた絵本の表面へと移動する。

 手漉き紙の繊維が絡み合う、無垢で生成りの分厚い表紙。その中央の余白に、優雅な筆跡によってインクを用いた一行の文字が記されている。


『CAST:月城 詩織』


 詩織は本当に実在した人間だったのか。罪に狂って死んだのか。それとも最初から、親友である『彼女』が描いた物語の中の哀れな配役に過ぎなかったのか。

 真実を証明する者は、この世界にもはや誰一人として存在しない。一切の解答は示されず、ただその一文だけが、インクの染みという物理的な事実として冷徹に横たわっている。


 視界は、サイドテーブルの上の絵本からゆっくりと離れ、冷たい風が絶え間なく吹き込んでくる開いた窓の向こう側へと、滑るように水平移動を開始した。

 窓枠を越え、外部の空間へと視点が押し出される。

 しかし、そこに広がっている風景は、病院の中庭の植え込みでも、見知らぬ街の無機質なコンクリートの景色でもなかった。

 視界を埋め尽くしているのは、かつて詩織と彼女が歩いていた古い学校の校庭である。

 雨上がりを思わせる、水分をたっぷりと吸い込んだ黒い土の地面。校舎と校舎を繋ぐ、薄暗くて無人の渡り廊下。ここが病室なのか、学校なのかという空間の連続性が完全に破綻した、絶対的な矛盾を孕む風景がただ物理的な事実としてそこにある。


 遠くのスピーカーから、放課後の終わりを告げる機械的なチャイムの音が響き渡る。

 湿った空気を震わせ、無機質な和音が無人の校庭へと放たれた。


 そして──。

 

 渡り廊下の冷たいコンクリートに、その最初の残響が反射したのだった。

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