第11話『夜の窓辺に君の描いた色彩を』(4)
私は、もはや物理的な質量を持たない透明な幽霊となって、古い板張りの床を滑るように彼女の背中へと歩み寄った。
気配を感じ取ったのか、あるいはこの精神世界において魂の重力が彼女の意識に触れたのか。インクの出ない鉄筆を握りしめ、真っ白な手漉き紙を力任せに抉り続けていた右手が、ふいにピタリと動きを止めた。
悲鳴を上げていた紙の繊維の摩擦音が止み、冷え切った図書室に再び重たく息苦しい静寂が舞い戻る。
彼女は、硬く結ばれていた細い肩をわずかに震わせると、古い木製の椅子を軋ませながら、ゆっくりとこちらへと振り返った。
二人の視線が、埃の舞う薄暗い空気の中で真っ直ぐに交錯する。
罪の重さに耐えきれず目を背けそうになる本能を必死に押さえ込んだ。ここで目を逸らせば、永遠に彼女の真実に触れる資格を失い、本当の意味で救いようのない汚物の塊へと成り下がってしまう。
射抜くような瞳は、私が長い間恐れ、逃避の幻影で上塗りして隠蔽しようとしていたものとは全く異なる色を湛えていた。
あの雨の降る渡り廊下で私を見下ろした冷徹な侮蔑の眼差しではない。はちみつ色の図書室で、無条件に肯定して包み込んでくれていたあの嘘くさい慈愛の微笑みでもない。
赤く腫れ上がった目元には明らかな疲労と途方もない悲しみが色濃く沈殿している。そして瞳の奥には、私の放つ呪いのような執着と暗い悪意に対する、隠しようのない『怯え』がかすかに揺らめいていた。
それは、私の醜さを前にして傷つき、どうすればいいのか分からずに途方に暮れている、ただの不器用で孤独な十七歳の少女の、ありのままの表情だった。
「詩織」
血の気を失った薄い唇が微かに動き、私の名前を呼んだ。
声帯を震わせた物理的な音声ではない。この深淵において、魂の震えが直接意識の核に触れ、言語としての意味を結んだのだ。
ひどく悲しげで今にも消え入りそうな震える響きを聞いた瞬間、心の奥底に分厚い壁を築いて封じ込めていた真っ黒なヘドロが、ついに決壊の時を迎えた。
私は取り繕うことを完全にやめた。自分が被害者であるという自己欺瞞も、物語の創造主であるという自己陶酔も、すべてを図書室の冷たい床に叩きつけて粉砕した。
そして腹の底に溜まり切っていた、この世界のどんな汚物よりも不浄で醜悪な『本性』を、一滴残らず目の前に吐き出し始めたのだ。
「私は、あなたのことが憎かったの」
声なき声が、薄暗い図書室の空気を震わせた。それは懺悔というよりも、自らの腹を切り裂いて腐った内臓を晒し出すような凄惨な自己解剖の始まりだった。
「その底なしの才能が、どんな暗闇の中にあっても美しい光を描き出してしまう両手が、どうしようもなく妬ましくて、恐ろしかった。素晴らしい色彩を紡ぎ出せば出すほど、横にいる私は自分の凡庸さと空っぽな中身を残酷に突きつけられて、息ができないほどの劣等感に首を絞められていたの」
彼女は泥のような言葉から目を逸らすことなく、悲しそうに瞬きをして告白を正面から受け止めている。
私は、魂が業火に焼かれるような激痛を感じながらも、言葉の刃を自分自身に深く突き立て続けた。
「一緒に世界で一番美しい絵本を創ろうだなんて、全部嘘よ。対等な友達になんてなりたくなかった。ただあなたという眩しい光を私だけのものにして、薄暗い泥沼の中に永遠に閉じ込めておきたかっただけなの。広い空へ羽ばたいていくのが許せなくて、ブルーブラックのインクで光を片っ端から汚染して、私という重石をくくりつけて泥の底に引きずり込みたかった」
涙が透明な顔面を無尽蔵に濡らしていく。
「私が描いていた血の海も、両腕をもがれた少女も、全部あなたに対する呪いだった。私なしでは生きられないように美しい翼をへし折って、足元で這いずり回らせて、惨めな私を見上げて欲しかったの。才能に寄生して命を吸い尽くそうとしていた、ただの卑劣な怪物だったのよ」
告白を終え、魂はもはや形を保つことすら困難なほどに疲弊し、足元に崩れ落ちそうになっていた。
これが私だ。
才能を憎み、孤独を埋めるための生贄として消費しようとしていた殺人鬼の正体。
さあ、軽蔑してくれ。罵倒して、突き飛ばして、この精神の図書室から永遠に追放してくれ。それが受けるべき当然の報いなのだから。
しかし。
醜悪な本性のすべてを直視したはずの彼女は、突き放すことも絶対零度の侮蔑の眼差しを向けることもしなかった。
椅子からゆっくりと立ち上がると、震える足取りで目の前まで歩み寄り、透明な魂を真っ直ぐに見つめ返した。
赤く腫れた瞳から大粒の涙が、冷たい床に向かって静かにこぼれ落ちた。
「知っていたわ」
魂から発せられたその言葉は、私を断罪する刃ではなく、深い慈愛と悲哀に満ちた包容の響きを持っていた。
「あなたが私に向ける言葉の裏側に、どれほど重くて暗い嫉妬が渦巻いているか。私を自分の泥の中に引きずり込もうとしていることくらい、最初から分かっていたの」
彼女の告白が、静かな波紋となって意識を揺らす。
「あなたの紡ぐ言葉はいつも血の匂いがして、救いがなくて、読んでいると本当に息が詰まった。どんなに明るい色を塗っても、あなたが次のページでそれを真っ黒に塗り潰してしまうたびに、私の輪郭までが泥に溶けて消えてしまうようで、恐ろしくて、何度も逃げ出したいと思ったわ」
その言葉は、雨の渡り廊下で突きつけられた残酷な拒絶と全く同じ内容だった。
しかし、あの時は氷のナイフのように切り裂いたその響きが、今は不思議なほどに温かく、最も痛む場所を優しく撫でるように染み込んでくる。
「だったら、どうして」と、声を震わせた。
「どうしてあんな雨の日まで、一緒にいてくれたの。どうして、私なんかを突き放して、自分だけ綺麗な場所へ逃げなかったの」
彼女は胸の前で両手をきつく握りしめ、まるで自分自身の最も弱い部分をさらけ出すように、嗚咽を漏らしながら首を横に振った。
「突き放せるはずがないじゃない。だって、あの恐ろしい言葉の奥底からは、あなたが一人で抱え込んでいるどうしようもない孤独と、誰かに助けてほしいという悲鳴が、痛いほどに聞こえていたんだもの」
瞳から溢れ出す涙が止まることなく頬を伝う。
「私は天才なんかじゃないわ。ただ絵を描くことしかできない、あなたと同じ不器用な子供よ。あなたのその暗闇を前にして、どうやって救えばいいのか分からなくて、無力さに何度も絶望した。でも、それでも一緒にこの星空を完成させたかったの」
彼女は一歩だけ近づき、輪郭にそっと触れようとするように震える右手を伸ばした。
「あなたの抱えるその真っ暗な絶望を、私の描く光で全部包み込んであげたかった。泥のような悲しみを、美しい色彩の海で洗い流してあげたかったの。二人が絵本を完成させることができれば、きっと自分自身の暗闇から抜け出せるって、そう信じていたのよ」
ああ。
魂の奥底で、最後の堅い殻が音を立てて砕け散った。
私を見下していたわけでも、才能のなさを哀れんでいたわけでもなかった。
ただ孤独に寄り添い、呪いのような執着をその身に受けながらも、自らの描く光で私を救済しようと不器用なほど真っ直ぐに、泥だらけになりながら足掻いてくれていただけだったのだ。
すれ違っていたのは、天才と凡人というヒエラルキーのせいではない。
互いが不器用に求め合いながらも、私は嫉妬と恐れから鎖で縛り付けようとし、彼女は痛みを引き受けようとして心をすり減らしていった。ただそれだけの、あまりにも純粋で悲惨な愛情の掛け違いだったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
もはや言葉にならない嗚咽を漏らしながら、目の前で崩れ落ちた。
「私があなたを追い詰めた。私が苦しめて、私が命を奪ったの。私なんて、生まれてこなければよかったのに」
すると、彼女は前に膝をつき、その細く美しい両腕で透明な魂の輪郭を力強く、そして限りなく優しく抱きしめた。
肉体を持たない精神の世界であるはずなのに、腕の確かな温もりが、冷え切った魂の核までをじんわりと溶かしていくのが分かった。
「もう自分を責めないで、詩織。私はあなたに出会えてよかった。一緒に過ごした図書室の時間は、人生で一番輝いていた宝物よ」
天才と寄生虫ではなく、加害者と被害者でもない。
不器用で互いの痛みに触れることを恐れてすれ違ってしまった、二人の等身大の十七歳の少女として。
この狂気の精神世界の中で初めて、一切の欺瞞も存在しない純粋な魂の領域で正面から向き合い、完全に重なり合ったのだ。
温かな腕の中で、内に溜まっていたすべての泥と罪悪感が、底なしの慈悲の光によって少しずつ浄化されていくのを感じていた。
しかし和解の瞬間が美しければ美しいほど、魂の奥底には決して消えることのない絶対的な悲劇の重圧がのしかかってくる。
なぜなら、この温かな涙も互いを許し合う言葉も、すべては私が創り出した脳髄の中だけの奇跡であり。
現実の世界において、私を抱きしめてくれているこの美しい少女の肉体はとうの昔に灰となり、この宇宙のどこを探しても二度と生きて戻ってくることはないという残酷な真実を、誰よりも完璧に理解していたからだ。




