第40話:聖母の抱擁と勇者の涙。世界で一番温かい「ただいま」
隠れ里『聖母の箱庭』を、冬の足音を孕んだ冷たい夜気が包み込んでいた。
外の静寂とは対照的に、里の居間では囲炉裏の火がパチパチと爆ぜ、橙色の柔らかな光が壁を揺らしている。サツキは、セシルに解きほぐしてもらった肩を軽く回しながら、膝の上にシロを乗せ、穏やかな声でお伽話を語っていた。
それは、どこにでもあるような「迷子の子供がお家に帰る」だけの、素朴な物語。
アリア、ルナ、セシルの三人は、それぞれの特等席でママの声に耳を傾けていた。だが、ふとサツキが語り終えたとき、アリアが膝を抱え、小さな声で独り言のように漏らした。
「……ねぇ、ママ。もし……もし魔王がまた現れて、この平和が終わっちゃったら……。……私、また『勇者』に戻らなきゃいけないのかな」
その声は、震えていた。
世界を救った最強の剣士。何万という魔物を一薙ぎにし、絶望の淵から人類を救い上げた英雄。その肩が、今はひどく小さく見えた。
「アリアちゃん……?」
「……怖かったんだ、ずっと。ママに出会う前の私は、ただの戦う機械だった。どこに行っても『勇者様』って呼ばれて、期待されて、……でも、誰も私の名前を呼んでくれなかった。私がどこに帰ればいいか、誰も教えてくれなかったんだ」
アリアの瞳に、大粒の涙が溜まる。彼女は聖剣を握りしめ、死線を潜り抜けてきた。だが、その強さの裏側には、底知れない孤独が口を開けて待っていたのだ。
「ママに『おかえり』って言われるまで、私は自分の居場所なんてどこにもないと思ってた。……でも、ここが幸せすぎて、時々怖くなるの。いつか、ママが私を『勇者』としてしか見てくれなくなったら……。また、あの寒い戦場に一人で行かなきゃいけないのかなって……」
アリアの言葉に、ルナが静かにサツキの裾を握りしめた。セシルもまた、祈るように胸元で手を組んでいる。彼女たちもまた、それぞれの孤独を抱え、サツキという名の「実家」に救い上げられた魂だった。
(きゅう、きゅうっ! ……まったく、お姉ちゃん。勇者なんて肩書き、この里じゃ「脱ぎっぱなしの靴下」以下の価値しかないって、まだ分からないのかい? ……そんなに不安なら、僕がずっと隣にいてあげるよ)
シロがサツキの膝からアリアの膝へと飛び移り、あざとくも優しく、濡れた鼻先をアリアの頬に寄せた。
サツキは、ゆっくりと腰を浮かせ、アリアの前に跪いた。そして、震えるアリアの手を、自分の両手で包み込むように握りしめた。
「アリアちゃん。……真っ直ぐ、ママの目を見て?」
「……っ、ママ……」
「あなたが世界を救ったのは、確かに凄いことだわ。でもね、ママにとっては、あなたが毎日ご飯を『美味しい』って食べてくれること、脱ぎっぱなしの靴下を私に叱られること……そんな当たり前の毎日を、あなたと一緒に過ごせることが、何よりも、世界を救うことよりずっとずっと大切なのよ」
サツキの手は温かく、少しだけ家事の跡が残っている「お母さんの手」だった。
「あなたが誰であろうと、何ができなくなろうと、ママはあなたを愛しているわ。魔王が来ても、神様が来ても、ママは絶対にあなたを離さない。……アリアちゃんは、ママの大事な、大事な娘なんだから」
その、全肯定に満ちた言葉。
アリアの心の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「ママぁあああああ!! 大好きだよぉおおお!! ごめんね、靴下脱ぎっぱなしにしてごめんねぇええ!! ママの子供でいさせてぇえええ!!」
アリアは、人目を憚らず声を上げて泣きじゃくり、サツキの胸に飛び込んだ。ルナも堪えきれずに反対側の腰に縋り付き、セシルが後ろからサツキを包み込むように抱きしめる。
「……ママ……。……私、……人間、……じゃない、……と思ってた。……ママが、……私を、……愛してくれたから、……私、……今、……ここに、……いる……。……う、……うわぁあああん!」
「お母様……! 貴女こそが、私の真の救済ですわぁあああ!!」
里の外には、いつの間にか初雪が降り始めていた。
静かに降り積もる白銀の世界の中、隠れ里の一軒家だけが、不自然なほどの愛と熱気に包まれている。
サツキは、泣きじゃくる三人と一匹を、その大きな、底なしの慈愛で丸ごと抱きしめ返した。
「よしよし。……みんな、頑張ったわね。もう大丈夫よ。……ずっと、ずっと一緒にいましょうね」
外郭を守る騎士団やガリたちは、里から溢れ出す「全肯定の魔力波動」に、思わずその場に跪き、涙を流して感謝を捧げていた。
最強の英雄たちが、ただの「子供」に戻れる場所。
サツキという太陽が、全ての孤独を溶かしていく。
(きゅう……。まったく、お姉ちゃんたちは泣き虫だなぁ。……でも、ママ。今夜は僕も、ちょっとだけ甘えさせてもらおうかな)
シロがサツキと娘たちの抱擁の中に、スポリと自分の体を埋めた。
囲炉裏の火が、幸せな家族の形を赤々と照らし出す。
「……さあ、みんな。泣き疲れたらお腹が空いちゃうわ。夜食に温かいお汁粉でも作りましょうか?」
「「「「食べるぅうう!!」」」」
涙を拭き、鼻をすすりながら、娘たちが一斉に笑顔を見せる。
隠れ里『聖母の箱庭』に響くのは、満たされた心と、明日への希望。
最高に温かな「おかえりなさい」の余韻と共に、愛の光の中で閉じられるのであった。




