第三十一夜 開戦前
さて、侵略者には六つの軍団がある。
「あれ? 侵略者の軍団は五つではなかったっけ?」
そう思った人もいるだろう。実際、そう覚えていても無理はない。何しろ、侵略者という集団は何かと複雑なのだ。
だが、安心してほしい。今回はなるべく簡単に説明しよう。
まず、《轟速》の侵略者には二つの軍団が存在する。
一つは、侵略者軍総大将である《zeroの侵略 ブラックアウト》本人が率いる本隊。そしてもう一つが、《禁断の轟速 レッドゾーンX》を大将とする別働隊だ。
「別働隊」と聞けば、本隊よりも規模の小さい、あるいは戦力で劣る部隊を想像するかもしれない。しかし、そんなことはない。別働隊といっても、その戦力は本隊と同程度。単純に分けて考えられるようなものではないのだ。
そもそも、本隊は他の侵略者たちの司令部という役割も担っている。もちろん、あくまで形の上での話ではあるが、それでも指揮系統の中心であることに変わりはない。さらに、前線で戦うだけでなく、後方を支える戦力としての役割も持っている。
つまり、同じ《轟速》の侵略者であっても、その性質は大きく異なるというわけだ。
……うん、やっぱり複雑だね。
まあ、細かいことはひとまず置いておこう。
ここでは、《轟速》の侵略者について説明していくよ。
《轟速》の侵略者。
その軍団が誕生するきっかけとなったのは、《禁断》の技術の解明だった。
《禁断》とは、彼らのご先祖が伝記を残し始めるよりも前から存在していたものだ。
遥か昔に生み出され、時の流れの中に取り残された技術。現在の文明では再現できず、その原理すら理解できない、いわゆるロストテクノロジーというやつである。
もちろん、彼らも最初からその技術を理解していたわけではない。
何も分からないうちは、ただそこに存在する不可解な力を前に、苦々しい思いをするしかなかった。自分たちの知識では解き明かせない。自分たちの技術では再現できない。それなのに、確かにそこには、今の文明を遥かに超越した何かが存在している。
その事実は、彼らにとって認めがたいものであっただろう。
しかし、やがて彼らはその技術の一端を理解し、そこから学ぶことができるようになった。
理解できない未知の遺産は、いつしか文明を発展させるための手本となったのだ。
彼らはそれを神々の文明として畏れ、そして崇めた。苦々しいものだけどね。
技術を解き明かし、仕組みを理解し、再現できるものを増やしていく。その積み重ねによって、彼らの文明は発展を遂げてきたのである。
……さて、ここで一つ疑問が浮かぶだろう。
「なんで《禁断》なんていう禍々しい名称で呼ばれているのか?」
うん、もっともな疑問だね。
理由は二つあるのだが、今回は一つだけ教えてあげよう。
ズバリ、不思議なことに、《禁断》の技術には、彼らでも読むことのできる文字で伝記が残されているのだ。
しかも、その伝記はどれも必ず、自らを《禁断》と名乗っている。
……親切なことにね。アハハ。
いやあ、これほど分かりやすい手掛かりが残されているなんて、本当にありがたい話だ。何しろ、普通なら解読に何年もかかるような古代の遺産だというのに、名前だけはしっかり分かるのだから。
まあ、どうしてそんなことになっているのかは、また別のお話ということで。
さて、話を戻そう。
《轟速》の侵略者とは、そんな親切(笑)な《禁断》の技術を軍事転用することで生まれた軍団なのだ。
もちろん、技術を軍事に利用すること自体は、何も彼らに限った話ではない。ほかの軍団も、多かれ少なかれ同じことをしている。
だからこそ、他の軍団との差別化を図るためなのか、彼らは《轟速》を名乗っているようだ。
……もっとも、わざわざ名前を変えたところで、やっていることの本質が大きく変わるわけでもないのだけれど。
そして、その力は恐ろしい。
侵略者の六つの軍団の中で、彼らが一番強いかと聞かれれば、そこは意見が分かれるところだろう。
しかし、一番ではなかったとしても、その次ぐらいには強い軍団なのではないかな?
少なくとも、侮っていい相手ではない。
そんな彼らが、今回、火文明へと侵略しに来ていた。
大地を焦がす炎。立ち込める煙。戦場を駆け抜ける兵士たちの怒号。そして、その先に待ち受けるものを知らぬまま、日常を送る人々。
これから始まるのは、そんな世界を舞台にした物語である。
さてさて。新喜劇の始まり、始まり〜。
「楽しそうで何よりですよ、エヴァー様」
落ち着いた声が、弾むような語りを遮った。
「まあね!」
エヴァーは悪びれる様子もなく、むしろ楽しげに声を弾ませた。まるで、これから始まる戦争が自分にとって最高の娯楽であるとでもいうように。
「迸る鮮血、血湧く憎悪、固く結ばれる友情、逆境を覆す勇気、そして圧倒的な個! いやぁ、これだから戦争はやめられないぜ!」
両手を広げ、芝居がかった身振りで語る。その姿には、戦争を前にした緊張感など微塵もない。
むしろ、これから起こる出来事を思い浮かべて、今にも踊り出しそうなほどだった。
そんなエヴァーに向けられた視線は、どこまでも冷静だった。
「せめてキャラは統一しましょうよ」
「いいじゃないか、細かいことは!」
「よくありません」
エヴァーの楽しげな笑い声が響く。
その一方で、世界は確実に戦争へと向かっていた。
◇
結局、俺とアガピは馬車に揺られながら、数日かけてペラセへと戻ってきた。
車輪が道の凹凸を拾うたび、馬車の車体ががたがたと揺れる。窓の外には見慣れた景色が流れ、遠くに見えていた建物も、少しずつ見覚えのある姿へと変わっていった。
ようやく帰ってきた。
そう思うと、自然と肩の力が抜ける。
……まあ、帰ってきたからといって、のんびり休めるわけではないのだが。
支部に到着すると、すでに何人もの決闘者たちが落ち着かない様子で集まっていた。
支部長たちを除くAランクの決闘者が、揃って外出していたのだ。普段の様子を知っている者なら、何かがおかしいと薄々感じていたのだろう。
俺たちの姿を見つけるや否や、彼らは一斉に騒ぎ始めた。
「戻ってきたぞ!」
「おい、何があったんだ!?」
「侵略者が来るって本当なのか!?」
次々と飛んでくる声に、周囲の空気がざわめく。
どうやら、俺たちは一番乗りで帰ってきたらしい。最速で戻ってきたおかげか、ほかのAランクたちはまだ到着していないようだった。
ひとまず、事情を説明する必要がある。
俺とアガピは支部長に話を通すことにした。
……ところで、あの人の名前なんだっけ。
いや、別に忘れたくて忘れたわけじゃないんだ。顔も覚えているし、話したことだってある。ただ、こういうときに限って名前が出てこない。主に支部長としか呼んでないのが原因なのだ。
人間の記憶というのは、まったく不便なものだ。
そんなことを考えながら案内された部屋に入ると、支部長は俺たちを見るなり手を上げた。
「おお、戻ったか! 早く座れ」
部屋の中には応接用のソファが置かれていた。机の上には書類が何枚も積み重なり、端のほうには、急いで書き込まれたらしい報告書が乱雑に置かれている。
支部長自身も、いつも以上に険しい顔をしていた。
「それにしても、物騒なことになったものだな」
俺とアガピは勧められるままソファに腰を下ろした。
座面が体重を受け止め、ようやく馬車の揺れから解放されたことを実感する。とはいえ、ゆっくり休んでいる暇はなさそうだった。
「ここもイアシに近いですし、初戦はあそこの予定らしいので、早く避難しないとですね」
俺がそう告げると、支部長は重々しくうなずいた。
「ああ、それはすでに伝達されている。もっと早くしてくれと言いたいところだが、こればかりは致し方ないだろう」
「私たちを妨害してくる存在が現れないとも限りませんしね。それに、同時に知らせるとパニックが起きて、集合できなくなるかもしれません」
アガピは一度言葉を切り、考えを整理するように視線を落とした。
「正直、効率が悪い感じはしますが……妥当な判断だったのではないでしょうか」
「なるほど……」
俺は思わず感心した。
言われてみれば、確かにそうだ。
ただ早く知らせればいいというものでもない。情報を伝える順番や、誰にどの段階で知らせるかによって、その後の動きは大きく変わる。
侵略者が攻めてくるという情報が広まれば、当然、人々は動揺する。決闘者たちが一斉に動き出せば、避難誘導や連絡にも支障が出るだろう。
それに、こちらの動きを妨害しようとする敵がいる可能性だってある。
そう考えると、確かに一理ある。
……まったく気づかなかった。
妨害、なるほどな。
そういえば、アウトレイジも最近はあまり情報を聞かない。何をしているのか分からないというのも、それはそれで不気味な話だ。
「まあ、そういうことだ」
支部長は机の上に置かれた書類を一枚手に取り、内容を確認してから俺たちに向き直った。
「俺たち協会員は、あいつらをまとめてイアシの方へ避難させることにする。もちろん、ここにいる連中だけじゃない。はずれの村なんかも一つずつ回らなきゃならん」
支部長の指先が、机の上の地図を叩いた。
そこには、ペラセ周辺の地形と集落が書き込まれている。街道から離れた場所にも、いくつもの小さな村が点在していた。
それらすべての住民を避難させるとなれば、確かに時間がかかる。
馬車を用意し、移動手段のない人々を集め、道中の安全を確保する。さらに、取り残された者がいないか確認しなければならない。
戦争が始まる前から、すでに戦いは始まっているようなものだった。
「とにかく、かなり時間がないんだ。Bランクのやつを何人か連れていくんだろう? 疲れているところ申し訳ないが、早く選んでくれ」
「分かりました」
俺たちはうなずき、部屋を後にした。
扉を閉める直前、室内を振り返る。
支部長はもう別の書類に目を通していた。報告を聞き終えたばかりだというのに、休む間もなく次の仕事へ取りかかっている。
その姿を見て、俺はようやく実感した。
……本当に、忙しいんだな。
いや、忙しいなんて言葉では足りない。
廊下を歩いていると、慌ただしく行き交う職員たちの姿が目に入った。書類を抱えて走る者、誰かを呼び止めて指示を出す者、壁際に立って地図を広げている者。
普段なら気だるげな雰囲気を漂わせているオモーフィアでさえ、今は早死にしそうな勢いで書類を片付けていた。
机に向かい、紙をめくり、署名をし、次の書類へ。
その動きに一切の無駄がない。いや、無駄を省かなければ間に合わないのだろう。
……あいつ、あんなに働けたんだな。
失礼な感想だとは思うが、普段を知っているだけに驚きは隠せなかった。
さて、それはともかく。
誰を連れていくか、だ。
Bランクとはいえ、決闘者を戦争に連れていくのである。実力はもちろん、本人の意思や適性も考えなければならない。
俺たちに協力してくれる人間を選ぶ以上、なるべく負担の少ない相手がいい。
しかし、考えれば考えるほど決められなくなってきた。
「あいつは実力があるけど、別の仕事を任せた方がよさそうだし……こいつはこいつで、今回の任務には向いていないか……」
結局、あの後、各人が一人ずつ連れていくことにしたのだがその一人がなかなか選べない。
適性や事情を考慮しながら選ぶにしても、今の状況で完璧な人選などできるはずもない。ならば、ひとまず各人の判断に任せるのが早いからそうすることにしたのだが。
悩んでいると、こちらへ近づいてくる足音が聞こえた。
「イェネロスさん!」
顔を上げると、ゴニアが立っていた。
普段よりも表情が引き締まっている。こちらに向かってくる足取りにも迷いがなく、俺の前で立ち止まると、まっすぐに目を見つめてきた。
「僕を連れて行ってください!」
その声は、思っていた以上に大きかった。
周囲にいた決闘者たちも、何事かとこちらを振り返る。
ゴニアは少しもひるまなかった。拳を握りしめ、俺の返事を待っている。
……すごい剣幕だな。
しかし、ゴニアか。
確かに実力はある。戦闘だけでなく、基本的に何でもこなせる器用さもある。今回のように、何が起きるか分からない状況では、そういう人間は頼りになる。
適任かもしれない。
「別にいいけど、どうして?」
俺が尋ねると、ゴニアは一瞬だけ口をつぐんだ。
言葉を探しているようだった。
それから、迷いを振り切るように顔を上げる。
「そうしないといけない気がするんです。それに、僕はみなさんにお世話になってますし……恩返しがしたくって」
その言葉を聞いて、俺は少し考えた。
恩返し、か。
気持ちは分からないでもない。世話になった人たちの力になりたい。何かを返したい。そう思うこと自体は、決して悪いことではないだろう。
だが、今回の任務は戦争だ。
帰ってこられる保証などない。
「恩返しなら、別の方法があるでしょ?」
横からアガピが口を挟んだ。
彼女はゴニアを見つめたまま、淡々と言葉を続ける。
「それが主体なら、やめておいたほうがいいと思うけど」
「……!」
ゴニアの表情がわずかに揺れた。
アガピは厳しいことを言っている。しかし、その声には突き放すような冷たさだけではなく、相手を案じる気持ちも含まれているように感じられた。
「いや、ゴニアの実力は本物だ。決して足を引っ張ることはないと思うぞ」
俺はそう言って、ゴニアを擁護した。
実力があるのは事実だ。無理に戦わせるつもりはないが、本人が望み、能力も備わっているなら、選択肢に入れること自体はおかしくないだろう。
しかし、アガピはすぐに首を横に振った。
「そういう話じゃないでしょ?」
声が少しだけ強くなる。
「これは戦争なのよ? 曖昧な理由で戦うべきじゃないわ。後悔するよ、絶対」
その言葉には説得力があった。
戦場で何が起こるかは分からない。
自分の力を過信していたから。覚悟が足りなかったから。あるいは、何かを守りたいという気持ちだけでは乗り越えられない現実に直面したから。
理由はどうあれ、一度戦場に立ってしまえば、取り返しのつかないことだって起こるだろう。
ゴニアが何を思い、何を考えてここまで来たのか。
俺には、まだ分からない。
だからこそ、アガピの言い分も理解できた。
……正直に言えば、俺だってゴニアを戦わせたくはない。
それでも。
「俺は、ゴニアの意見を尊重するべきだと思う」
俺はゴニアの目を見て言った。
「お前も一人前なんだ」
言い終えた瞬間、心の中で小さくガッツポーズをした。
……おお、今の俺、結構いいこと言ったんじゃないか?
自分の意思で戦うと決めた人間を、こちらの都合だけで否定するべきではない。もちろん、危険を理解していることが前提だが、それでも本人の選択を尊重することには意味がある。
うん、悪くない。
そう思っていたのだが。
「イェネロスさんって、結構クサいこと言うよね」
「分かる。たまに妙に格好つけるよな」
周囲から、そんな声が聞こえてきた。
……おい。
聞こえてるぞ。
顔が熱くなるのを感じながら、俺は何事もなかったかのように視線をそらした。
頼むから、今のは聞かなかったことにしてくれ。
一方、ゴニアは周囲の冷やかしなど気にしていないようだった。
彼はもう一度、俺たちを見た。
「僕は……とにかく行きたいんです!!」
今度の声には、先ほどよりも強い意志がこもっていた。
理由をうまく言葉にできないのかもしれない。
それでも、行きたい。
ここに残るのではなく、自分も戦う側に立ちたい。
少なくとも、その気持ちだけは本物なのだろう。
俺はアガピの方を向いた。
「だって」
「……はぁ」
アガピは小さく息を吐いた。
どうやら、納得したわけではないらしい。それでも、これ以上反対しても意味がないと判断したのだろう。
「私はそこまで言うなら、イェネロスについていくならいいけど。私は関係ないし」
「えっ?」
俺は思わず聞き返した。
「いや、ちょっと待て。そういう話になるのか?」
もともとそういうつもりだったけどそんな言い方をされると違和感がある。
「だって、あなたが尊重するべきだって言ったんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「なら、あなたが責任を持って連れていけばいいじゃない」
……正論だ。
いや、正論なのか?
そもそも、俺だって最初からゴニアを連れていくつもりで話していたわけではないのだが。
とはいえ、ここで言い返したところで、どうせ勝てない。
俺は小さく肩を落とした。
そのやり取りを聞いていたゴニアが、ふと首を傾げた。
「あれ、イェネロスとアガピさんは別行動なんですか?」
「知らなかったか?」
俺は一度、周囲の様子を確認した。
近くにいる連中は、それぞれ自分の仕事や準備に取りかかっている。少なくとも、今ここで話を聞かれて困るようなことはなさそうだった。
「実は、かくかくしかじか……」
「へー、今お二人は倦怠期なんですねぇ」
「違う違う!」
思わず即座に否定した。
「そういう話じゃないからな!?」
「かくかくしかじかじゃ分かんないですよ」
「後で教えてやるから!」
戦争が始まろうとしているというのに、何をやっているんだ、俺たちは。
◇
その後、俺たちはパーティメンバーと合流した。
今回一緒に行動することになったのは、俺とアガピ、ゴニアを含めて六人。
オタコウが以前話していた、若くて可愛らしい雰囲気の女の子。それから、カコゴが連れてきた、見るからにガタイの良い男。そして、俺たち三人だ。
顔合わせを済ませてしばらくすると、三人の新人たちはすっかり打ち解けたらしい。
互いに名前を確認したり、これまでの経験を話したり、これからの行動について相談したりしている。
最初は少しぎこちなかったものの、話しているうちに緊張もほぐれてきたようだ。
……こういうところは、若い連中らしいな。
いや、俺もそこまで年を取っているわけではないのだが。
そんなことを考えていると、オタコウがこちらへ勢いよく振り向いた。
「イェネロス氏!」
「なんだその呼び方」
「そんなことはどうでもいいのです!」
どうでもよくはないだろ。
オタコウは俺のツッコミを無視し、目を輝かせながら身を乗り出してきた。
「あの子は誰なのですか!」
「あの子?」
「ゴニアさんですよ! 先ほどからご一緒している、あの可愛らしい方です!」
「さっき言ったでしょ。ゴニア、俺の後輩」
「他意はないですかな!?」
……なんだこいつ。
気持ち悪いなぁ。
いや、普段から気持ち悪いところはあるのだが、今日はいっそうひどい。
ゴニアを見る目が、なんというか、妙にねっとりしているのだ。
その視線には、純粋な好奇心というよりも、もっと別の、言葉にしにくい何かが混じっている。
気持ち悪さが、いつもの倍増しどころか、さらに傘増しされている。
お前、僧侶だろ。
神聖な雰囲気の一つや二つ出してみろよ。
せめて、もう少しこう……清らかさというものをだな。
ていうかゴニアは男なんだけど。まさかそういうケがあったとは。両刀か、周りにはいないな。
俺がそんなことを考えていると、不意に声がした。
「お兄さん達、ちょーっとお時間いいですかぁ?」
振り向く。
そこには、仮面をつけた一人の少女が立っていた。
顔の大部分は仮面に覆われており、表情を読み取ることはできない。身にまとった服装は商人らしいもので、手には商品を詰めた荷物を持っている。
声はとても朗らかだった。
語尾を柔らかく伸ばし、こちらの警戒心を解くような、愛想の良い話し方。
その場の空気にすっと溶け込むような声だった。
……おい、オタコウ。
少しは彼女を見習えよ。
俺は隣にいるオタコウを横目で見た。
……はっ。
いかん、いかん。
今は別のことを考えている場合ではなかった。
「……?」
視線を感じたのか、オタコウがこちらを向く。
目が合った。
オタコウは思わずため息をつき、首を横に振った。
言葉にはしなかったが、気持ちは伝わった。
――こいつはもう手遅れだ。
そんなところだろう。
上等だ。
やるか、こんにゃろう。
そんな、くだらない意地の張り合いをしていたときだった。
「あのぉ、いいですかぁ?」
先ほどまでの朗らかな声が、ふいに変わった。
いや、声そのものが大きく変わったわけではない。
ただ、そこに含まれる温度が、すっと消えたのだ。
冷たい。
まるで、冬の夜に氷水を背中へ流し込まれたかのような、底冷えする声だった。
俺とオタコウは、ほとんど同時に少女へ向き直った。
そして。
ブンブン、ブンブン。
二人そろって、勢いよく首を縦に振った。
「よかったでーす」
少女の声は、再び朗らかなものに戻っていた。
……切り替えが早すぎるだろ。
「私はしがない商人なのですが、ポーションなどの消耗品、買っていきませんかぁ? もちろん質は保証しますし、お安くしますよぉ?」
そう言って、少女は手にしていた荷物を開いた。
中には、いくつものポーションや携帯食料など、冒険や戦闘で使う消耗品がきれいに詰められていた。
瓶は割れないように丁寧に固定され、商品ごとに分けられている。急ごしらえの商売というより、最初からこうした売り方に慣れているようだった。
俺は並べられた商品を手に取り、値札を確認した。
「うわ、本当に安いな。赤字じゃないの?」
思わず声が出た。
品質に問題がないのなら、かなりお得な値段だ。戦争が始まろうとしている今、消耗品はいくらあっても困らない。
だからこそ、この価格はありがたい。
ありがたいのだが……安すぎないか?
「本当ですなぁ。なら拙者は、この携帯食料を……」
オタコウも値札を確認すると、さっそく商品を選び始めた。
さっきまでの気持ち悪さはどこへ行ったのか、今はすっかり普通の客である。
……いや、まあ、買い物をするのは自由だけどさ。
「ありがとうございまーす」
少女は手際よく代金を受け取り、商品を渡した。
それから、こちらへ顔を向ける。
仮面の奥にある目は見えない。
それなのに、なぜかこちらをじっと見つめられているような感覚があった。
「それに、大丈夫ですよー。イェネロスさん?」
「……なんで名前知ってるの?」
俺は思わず聞き返した。
初対面のはずだ。
少なくとも、俺にはこの少女に見覚えがない。声を聞いたことがあるかどうかも、いまひとつはっきりしなかった。
それなのに、どうして俺の名前を知っている?
少女は、少しも慌てなかった。
むしろ、こちらが尋ねることを最初から予想していたかのように、落ち着いた口調で答える。
「企業秘密とさせていただくところですが、簡単な話です。この国のAランクの方は、全員覚えてますから」
「全員?」
「はい。お顔とお名前、それから、どんな方なのかも。商人ですからねぇ。人を覚えるのは大切なんですよぉ」
そう言って、少女は軽く首を傾げた。
「そんなことより、私はあなた方のような、将来出世しそうなお方々と顔をつなぐことが目的なので、儲けはそこまで気にしてないのです」
「なるほど……」
確かに、商人としては筋の通った話だ。
今すぐ利益を上げることよりも、将来有望な決闘者たちと知り合いになっておく。そのために利益を削ってでも商品を売るというわけか。
俺たちが今後どのような立場になるかは分からないが、Aランクの決闘者というだけでも、商人にとっては十分に価値のある相手なのだろう。
……いや、それにしたって安すぎる気もするけど。
「ただし、これより安くするのは無理ですよ?」
少女は、念を押すように付け加えた。
「そこまで無理をされても困るからね」
俺は苦笑しながら答えた。
「そうか。じゃあ、名前だけ教えてくれる?」
少女は、ほんの一瞬だけ黙った。
その間は短かった。
しかし、先ほどまで流暢に話していた彼女が、わずかとはいえ返答をためらったことが、妙に引っかかった。
やがて、少女は口を開いた。
「……シモスと言います。以後よしなに」
「シモス……」
俺はその名前を、頭の中で繰り返した。
どこかで聞いた気がする。
いや、気のせいだろうか。
名前だけなら、似たようなものを耳にしたことがあっても不思議ではない。そう思いながらも、記憶の奥に小さな引っかかりが残った。
しかし、思い出そうとしても、肝心のところがぼんやりとしている。
「それじゃあ、私はほかの方にもご挨拶してきますねぇ」
シモスはそう言うと、荷物を持ち直し、別の決闘者たちの方へ歩いていった。
その足取りは軽く、商売に慣れた人間らしい自然なものだった。
声をかけられた決闘者たちは、最初こそ少し警戒していたものの、商品を見せられるとすぐに興味を示し始めた。
……商売上手だな。
俺がそんなことを考えていると、隣から感心したような声が聞こえた。
「可愛い子でしたな!」
「顔見えてないじゃん」
思わず即座にツッコんだ。
いや、本当に。
仮面で顔が隠れているのに、どこを見て可愛いと判断したんだ。
すると、オタコウは至極真面目な顔で言った。
「いや、声だけでわかりました。彼女は美少女に違いない」
「お前のその自信、どこから来るんだよ……」
俺は呆れながら息を吐いた。
そのとき、ふと視線を感じた。
横を見ると、オタコウが連れてきている少女――ラスタが、こちらを不機嫌そうに見つめていた。
腕を組み、口元を少し尖らせている。
……ああ。
なるほど。
そういうことか。
俺は何も言わず、そっと視線をそらした。
面倒なことになりそうなので、気づかなかったことにしておこう。
そんなことを考えていた、そのときだった。
「おい姉ちゃん、俺たちと遊ばないかい?」
少し離れたところから、男の声が聞こえた。
振り返ると、数人の決闘者がシモスに話しかけていた。
声の調子からして、単なる買い物の誘いではないらしい。
そのうちの一人が、馴れ馴れしい様子でシモスとの距離を詰めている。
周囲の決闘者たちも、何事かとそちらへ視線を向け始めた。
シモスは、すぐには答えなかった。
商品を整理していた手が止まる。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「あ゛?」
……え?
今の、シモスの声か?
先ほどまでの、あの朗らかな声とはまるで違う。
喉の奥から絞り出すような、低く濁った声だった。
次の瞬間。
凄まじい殺気が、その場を覆った。
空気が凍りついたかのように、周囲のざわめきが止まる。
先ほどまで馴れ馴れしく話しかけていた男たちは、目に見えて動揺した。顔から血の気が引き、伸ばしかけていた手がぴたりと止まる。
まるで、目の前にいる相手が、ただの商人ではない何かに変わってしまったかのようだった。
男たちは、言葉を失ったまま後ずさる。
……情けない。
いや、気持ちは分からなくもないけどさ。
あれだけの殺気を浴びせられれば、普通はそうなるだろう。
シモスは何事もなかったかのように、再び商品へと視線を戻した。
「……まったく。お仕事の邪魔をしないでほしいですねぇ」
先ほどと同じ、朗らかな声だった。
その場にいた者たちは、しばらくの間、誰も口を開かなかった。




