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『誰も逃げない。危険ない。大丈夫ですから村で会います。あなた逃げらない』


 泥つきの画面に表示された奇妙なメッセージを目にした私は、自分が村人から逃げつつ中村と合流しようとしていたことと、いきなり何者かに頭部を殴られたらしいことを急激に思い出し、こうしてはおれないと落ち着かない気分になってきた。


 送られてきた『あなた逃げらない』の誤字が気になるが、考えるのも返信するのも今はあとだ。


 まずは中村の位置を確認しようとしてアプリを開くと赤丸がなくなっている。地図を縮小して広域に変えても私の居場所を示す青丸しか表示されない。中村のスマホの充電が尽きたのだろうか。


 突如として激しい痛みを頭に感じ、左側の前頭部へ右手を当ててみると濡れた感触があり、もしやと思って画面の明かりで手のひらを照らすと赤黒い液体がべっとりとついていた。


 殴られたときに頭皮が裂けたか、昏倒した拍子に地面にでも打ちつけて怪我をしたのだろう。頭皮は血管が多くて大量に血が出やすいと聞いたことがある。少々ぼうっとするが意識はあるし、頭蓋骨が割れたり脳内で出血していたりなどの大事には至っていないはずだ。


 浴衣で手のひらを拭い正面の物体に掴まって立ち上がった私は、ずいぶんと頑丈だがこいつは何なのだとライトを点け、さっきまで自分が乗せられていたとおぼしき場所を上から照らしてみた。


 すると、光の中に井形に組まれた薪が現れ、中心部に大量の植物が盛られているのが見えた。集落に入る手前にあった焚き火と同じようだが燃やされた形跡がない。火をつけ忘れたのではなく明日のためのものなのだろう。


 積み上がった井桁いげたを改めていると、薪同士の接合部がしっかりと噛み合うようにはまっており、ちょっとやそっとでは崩れない構造となっているのを見つけた。これは即席で作れるものではない。


 薪に右腕を乗せてふらつく身体を支えながら、うまく酸素が取り込めていないかのような息苦しさを感じ、私は呼吸を整えようとするあいだ井桁の隙間から覗く植物を見るとはなしに眺めていた。


 そのうち、ふとおかしなことに気がついた。


 たしか、気を失う直前まで手にスマホを持っていたはずである。画面に泥がついているのは襲われたときに落としたからだろう。


 ではどうしてバッグの中に入っていたのか。私を襲った何者かが親切心で拾ってくれたとは思えない。考えてみればバッグが私のそばに置かれていたことだって変である。そもそも、なぜこんなところへ私を運んできたのだ。


 そんなことを考えながら井桁の内側に積まれた大量の雑草へと光を当てていた私は、草葉の合間あいまに植物とは違った質感の何かを見つけて顔を近づけ、まさかと思いつつも組まれた薪の隙間に右手を突っ込んでそいつを引っ張り出してみた。


 はじめは着火剤代わりの襤褸ぼろきれかとも思ったのだが違う。洗濯してもらおうと女将に渡したはずの私のネルシャツである。デザイン云々(うんぬん)はもとより、左半分が泥で覆われていることからも間違いない。


 私は右手にある泥のついた自分の衣服を見つめているうちに、これまでに味わったことのない、何か得体の知れない感情がふつふつと湧き上がってくるのを感じた。


 服を捨てられた怒りなどという安っぽいものではない。


 人の持つ根源的な悪の部分を垣間かいま見てしまったことへの嫌悪感と、こんな所業をする女将の心情の不気味さとが身体の内側に満ち、彼女のほがらかな声とは真逆ともいえる陰湿な行動に鳥肌が立つような思い、とでもいえばいいのだろうか。


 嫌な予感がして再び雑草の中へと左手を入れた私は、軽く掻きまわしただけでジーパンと帽子、さらには登山靴までをも見つけて目を見開いた。


 一体何なのだ、これは。まるで私が流行はややまいにでもかかっており、汚染された所有物を焼却して消毒でもしようとしているかのようではないか。


 いきどおりを感じながらシャツとジーパンをデイパックへと詰め込み、靴へ履き替えようと地面に腰を下ろすとすでにスリッパの感触はなく、代わりに焼けるような痛みが足の裏側から伝わってきた。ライトで照らすと黒く汚れた全体のそこかしこに血が滲んでいる。どうやら皮膚が剥けてしまっているらしい。


 手当てをする道具などあるわけもないので、軽く手で汚れを払っただけで裸足よりはマシだと痛みに耐えて無理やり靴下を履いたあと、私は小声で呻きながらそろそろと登山靴に足を通していった。ついさっきまでは何ともなかった足裏の痛みが強い主張をしはじめている。


「おい、なんがひがっでねぇが?」


 左の靴紐を結び終えたところで男の声を聴いた私は、迂闊うかつにもライトを点けっぱなしにしていた己の愚かさに舌打ちをして立ち上がり、痛みに顔をゆがめるも右の靴が脱げないことを祈りながら正面の闇へと向かって駆け出した。


「おい! 逃げんぢゃねぇ!」


「早ぐ追えッ! 向ごうにゃ知らせとっがら」


 私は男たちの怒号を背中に受け、追跡の対象が自分であるという事実に足がもつれそうになるのをこらえつつ、ここが正念場だと胸のうちで己に言い聞かせて死に物狂いで両足を動かした。


 一歩を踏み出すたび針が突き刺さるような鋭い痛みが足の裏全体に響く。皮膚が剥けているだけでなく小さな砂利や木片が刺さっているのかもしれない。


 背後に迫った男が今にも肩を掴んでくるのではないかという妄想が首筋の辺りに居座り、振り返っても見えはしないとわかっているにも関わらず、それでも私は反射的に一瞬だけ首を捻って追っ手の存在を確認しようとした。


 何かが見えるはずもなく、そこには進行方向に広がっているのと同じ暗闇があっただけで、実際に誰かが追ってきているのかどうかも判然としなかった。だからといって走るのをやめるわけにはいかない。


 視界の下のほうでちらちらと動いている何かが気になり、見つめていた正面からわずかに視線を下げた私は、肩の激痛でうまく腕を振れない左手に、ライトが点いたままのスマホが握られていることに気がついた。


 斜め前方へライトを向けると舗装された道路の一部が照らし出され、光の輪が大きく動いてせっかくの活路を見失わないよう、私は脇を締めて左腕を身体の側面へと密着させた。走りづらくはあるが踏み出す先に足場があることを確認できるのは心強い。

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