別人
いくら歩いても聴こえてくるのは蛙や虫の喧しい音ばかりで、ときおり雉鳩の低い鳴き声が響いてはくるものの、人の怒声がしたり誰かが追ってきたりする気配はまだない。
もしこれが中村の妄想や私の思い込みだったとして、存在しない追っ手から逃げるためにこうして傷や泥に塗れているのだとしたら、これほど病的で滑稽なこともないだろう。中村を狂人と称したが、傍から見れば今の私もさして変わらないに違いない。
しばらく道なりに歩いていると三叉路に行きあたり、私は足を止めてライトを消し、中村の居場所を確認するためにアプリを開いた。
画面上の赤丸はまだ動いている。位置から推測するに、中村は左手の横道ではなく、これまで歩いてきた道のかなり先にいるようだ。ずっと東へまっすぐ直進していると思っていたのだが、進行方向へスマホを翳すと方位磁石はほとんど南を指した。
中村は本当に集落へ向かっているのだろうかと画面を見つめていた私は、奴からのメールが届くなり反射的に開いて素早くメッセージへ目を走らせた。
『冗談言いました。誰も捕まってない。人身売買は冗談です。警察官は村の人。殺されるない。なんで? あなた殺すとこ見たか? あなた村にいるかいないか教えてください』
何なのだ、このメールは。明らかに異常である。もしや中村は私の言葉どおり自分の送ったメールを見返し、今になってそれらが冗談だったとでも言っているのだろうか。そうであれば、いちいちどれが冗談か書かなくとも最初の一言だけで事足りる。
仮に中村が几帳面な性格なのだとして、はじめの三つの文と『殺されるない』はまだ理解できるにしても、後半の『警察官は村の人』『なんで?』『あなた殺すとこ見たか?』とはどういう意味だ。
他に警察官がいないのであれば、これはマツナカ巡査のことを指しているに違いない。しかし、彼が村の人だから何だというのだ。私が知っても何の得もしないし、それくらい言われなくとも想像がつく。
だが逆に、次の『なんで?』はまるで見当がつかない。前の文の『殺されるない』にかかっているのか、それとも後ろの『あなた殺すとこ見たか?』に関係があるのか、もしくは独立したまったく別の問い掛けなのか。知りたいことがあるのなら、もう少し相手にわかるように書くべきである。
三つめの文に至ってはどこから出た発想なのかさえも不明だ。殺すとこといえば、たしかに雉の屠殺現場には居合わせたが、それは中村も一緒のときで奴も隣で見ていたのだから、わざわざ私に訊かなくとも知れたことではないか。
それから、さっきも私が村にいるかを気にしていたが、そちらへ向かうから動くなというメッセージをだいぶ前に送ってもいるし、今さらそんなことを訊いて何になるというのだ。二つ前に届いたメールから中村の様子が何やらおかしい。
私は中村から届いた過去のメッセージをざっと遡り、『何かから逃げるんじゃなかったんですか?』『村のどこへ向かってるか知りませんが、助けに来いと言っておいて動かないでもらえますか?』『誰かが殺されるとこなんて見てませんよ』と三件のメールを立て続けに送った。
ふざけているのでなければ、酩酊からようやく正常に戻りつつある中村は自身の置かれている状況が理解できておらず、己の意思と行動とに乖離が起きてしまっている状態にあるのかもしれない。
再び歩き出そうとしてライトを点けようとすると通知があり、『何から逃げる? なんで動いてるのわかる? あなた村にいないのですか? なぜ答えない? 教えてください』というメッセージを見た私は、背筋を冷たいものが滑り落ちるような感覚に身を震わせた。
返信の速さもそうだが、この違和感は何だ。これではまるで、誰か他の人間が中村になりすましてメールを打っているようではないか。
そもそも、私を急き立ててこんな状況に陥らせた原因ともいえる、『逃げないと殺される』などという物騒なメールを送ってきたのは中村である。それが私に『何から逃げる?』と訊ねてくるのは妙だ。
『どこですか?』『ヤバイです』『何かいる』『助けて』『中村です助けてください』『イタズラないですここヤバイ』『せまいとこ』『声がでない』『村はヤバイです』『にげないところされる』『助けて』『逃げないと殺される』『警察と村はぐるです』
私は中村からの一連のメールに再び目を通し、いくつかのメッセージを読み返しているうちに、具体的に何から逃げるとはどこにも書かれていないことに気がついた。だからといって、中村自身が言い出したことを私に訊く真意がわからない。薬物の影響で記憶が混乱しているのだろうか。
はじめの文から十二分に変だが、次に続く『なんで動いてるのわかる?』は中村流の冗談なのか。スマホの捜索アプリを使って居場所を特定すると中村に伝えたわけではない。それでも私がそうすると察したから奴も登録IDとパスワードを教えてくれたのだろう。この質問はさすがに人を馬鹿にしている。
先ほどから私が村にいるかどうかを執拗に訊ねてくるのも煩わしい。『なぜ答えない?』と言われても、自分が村の中にいるのか外にいるのかよくわからないのだから答えようがない。
わかっているのは、ここが集落内か集落付近の道ということだけである。ネットが使えるうちは集落内であるとも考えられるが、山の中でも電波が入るらしいことを考慮するとそれも確実とは言いがたい。
『何から逃げるって知りませんよ。自分が言ったんじゃないですか。詮索するつもりはありませんが、薬物のような危険なものの使用は身体のためにやめたほうがいいですよ』
実際に中村の健康を気遣って作った文ではなく、これが薬物の影響による妄言なのか否か、問い質してはっきりさせてやろうという気持ちの婉曲である。たとえ耳が聴こえていなくとも、返答次第では会ったときに一喝せねばなるまい。
メールの送信ボタンを押し、まったく困った男だとうんざりしながらスマホの画面から顔を上げた私は、眼前で何かが動いたような気がして目を細め、光の残像を生き物と見間違えたかと思うなり、突如として脳天に強烈な衝撃を感じて意識が途絶えた。





