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 中村の身体が重いせいで手こずりはしたものの、それでもどうにか腰骨の位置からハーフパンツをずらすことに成功した私は、覚悟を決めて患部となっている辺りの布地をめくってみた。


 灰色の地味なボクサーブリーフに血はにじんでいるが、さっきまであったはずの突起物が消えている。単に布地のしわが寄ってそう見えただけだったのだろうか。


「なんですか? なにしてんですか!」


 不安がる中村を尻目に、下着も下ろさなければならないのかと思っていると、赤く染まったポケットの裏地がおかしな形に膨らんでいることに気がついた。どうやらポケットに何かが入っているだけで突起は骨ではなかったらしい。


「下着、ちょっとだけ下ろしますよ」


 中村が聴こえていないのをわかっていながらも、念のため声を掛けてからボクサーブリーフの右側部分を裏返してみた。露わになった焼けた褐色の肌に怪我や内出血のようなものは見当たらない。それどころか血の跡さえもほとんど消えかかったようになっている。


「やめてくださいよぉ!」


 私だって好きでやっているのではない。異常がないことがわかればただちにやめてやる。こう言ってはなんだが、今だけは中村が身体を動かせなくて助かった。耳の聴こえない筋肉達磨(だるま)の薬物中毒者に暴れられたら私の手には負えない。


 とりあえず、右の太腿周辺を中村が負傷していないことがわかり、下着を戻してハーフパンツの裏地へと目をやった私は、先ほど大怪我と勘違いさせてくれた紛らわしい物体は一体なんなのだと苛立ち、好奇心も手伝って膨らんだ右側のポケットへと手を突っ込んでやった。


 はじめにふわっとした物が指先に触れ、押し進めた先に濡れた毛髪のような手触りを感じ、さらには小指の腹に硬く滑らかな質感の物体が当たった。ふわふわした部分を指先でつまんでみると、硬いような柔らかいような奇妙な感触がある。


 キーホルダーだろうかと思い、ポケットから力任せに引っ張り出した己の手を見た私は、そこに握られているのが切断された雉の頭部だと理解するなり息を呑み、中村の了承を得ることなど構わず近くの藪へ向かってそいつを投げ捨てた。


「なんであんなものポケットに入れてんですか!」


 私は手に残った雉の血液と気味の悪い感触とに顔をしかめつつ、何も聴こえていない同僚を感情のままに怒鳴りつけた。


 すると突然、中村が大きな声で笑いだした。奴からすれば私はただ口をパクパクと動かしているだけの滑稽な人形のように見えるのだろう。鼓膜が破れているかもしれないというのに暢気のんきなものだ。


 まだ薬物の影響下にはあるようだが、これだけ大声で叫んだり笑ったりができるのならば、おそらく脳に致命的なダメージはないように思える。


 手のひらの血液を渋々ジーパンの太腿で拭い、ポケットからスマホを取り出してメモ帳アプリを開いた私は、『おそらく鼓膜が破れてます』と文字を打って中村の目の前へかざした。


「誰のですか!」


 すかさず中村を指差すと「なんでですか!」と続けて訊いてきたが、その疑問の答えを知りたいのは私も同じである。私は疑問の原因をただす前に『どこか痛くないですか?』と打ってスマホを中村に見せてみた。


「耳がちょっと痛いです!」


 鼓膜が破れてもその程度のものなのだろうか。耳の怪我は命に関わるものでもないし、本人が気にならないのであれば後回しにするとしても、差し当たっての問題は中村が自力で身体を動かせないことである。


 今度は『何が起きたんですか?』と本題を打って画面を見せると、少しのあいだ考え込むように静かにしていた中村だったが、私がスマホを手元に引いたのと同時に「サルですよ!」と唐突に声を上げた。


 猿に襲われた、と解釈していいのだろうか。猿の仕業しわざにしては中村の肌にも衣服にも引っかき傷のようなものはない。この中村のことだ、実際には猿ではなく、猿っぽい動きをする男や猿顔の人物に襲われたということもありうる。


「サルに刺されたんですよぉ!」


 鋭い爪や牙を猿が持っているのはわかる。しかし、だからといって刺すという表現には違和感がある。猿は刺すのではなく引っ掻いたり噛みついたりする動物のはずだ。


「そのあと身体が動かなくなったんですよぉ!」


 毒を注入して獲物を麻痺させる能力を持った猿などいるものか。やはり猿っぽい何か他の動物と見間違えたのだろう。まさか近くの住人が麻酔銃で狙撃してきたわけでもあるまいし、そもそも毒を使って狩りをする動物というのも聞いたことがない。


「それで何も聴こえなくなったんですよぉ!」


 奇妙なのはそれだけではない。犯人が中村を麻痺させておいて命までは取らず、鼓膜だけを破って逃走しているという点である。金銭目的かもしれないがハーフパンツの左ポケットの膨らみからすると、少なくともスマホは二台とも盗まれてはいないようだ。


 そこで私はふと、眼球だけを失った憐れなウサギとそれを抱いていた少年のことを思い出した。肉体の一部だけを破壊するというやり口が、ウサギを襲った『メホジリ』なる生き物と似ていないだろうか。


 私がさらに『まったく聴こえませんか?』と打って中村に画面を向けてみたところ、「ガサガサします!」と健康そのものとしか思えない威勢のいい声が返ってきた。医学的な知識など私にはほぼ皆無に等しいが、それでもきっと中村の命に別状はないだろう。


 訊くまでもないと思いつつ、『からだ動かせませんか?』と打った文字を見せると中村は素早く何度かまばたきをし、「まぶたと口は動きます!」とわかりきったことを答えた。


「おお?」


 中村は何かに気づいたかのようにそう言い、今度は「おお!」と驚いたような調子の声を上げて「指がぁ! あぁ!」と獣にも似た咆哮ほうこうを発した。


 見ると中村の左手の指先がわずかに震えている。不随になったのではなく一時的な麻痺のようだ。これなら時間が経てばまた動けるようになるかもしれない。

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