二十九話:人の治める地へ。
吾輩は、冬将軍である。
果てしない旅に出た吾輩達。
ついに、針葉樹林の奥に潜む凶悪な人殺しと対峙する。
筋肉質な細身の男に、華狐と呼ばれたキツネのもののけの二人。
それから、男と華狐は同化してもののふと成り、正三位無官大夫・黒瀬 寒十郎と名乗りを上げた。
激闘の末、吾輩の繰り出した宸世最強の技が見事に決まり、勝負は付いた。
魂の無い雪像となっていた雪音の身体は、著しく減った吾輩の“気の力”を補給する物資となって消える。故に、三日三晩を徹して雪音の新たな身体を作るのだった。
だがしかし、新たな身体を手に入れた雪音は不満を漏らした。相変わらず、胸が無かったからだ。雪音の姿形は、吾輩が最も理想とする女子の外見が反映される。すなわち、すべて吾輩のせいである。
胸など柔らかいだけの飾りだと失言した吾輩に、突如として怒り出した雪音が、特別な口付けを迫ってくる。お互いの魂を入れ替える特別な接吻【キス】だ。それを行えば、吾輩の魂は雪音の身体に入り、つまりは女子になってしまうのだ。
何とか宥めようと試みるが、取り留めのない女子の会話に付いて行けず、吾輩の堪忍袋の緒が切れそうになる。結局は、飽きたの一言で雪音の怒りが勝手に治まった。
まぁ、あれだ。触らぬ神に何とやら……、である。
明かり採りの為に開けた雪の天井から差し込んでくる朝日が、とてもまぶしい。
お互いが無言のまま、いたずらに時が過ぎてゆく。
吾輩からは何も言えない。下手に口を開けば、またもや雪音を怒らしてしまいそうだ。
「服を、着ましょうか……?」
「あ……、ああ、そうだな。そうしよう……」
ぎこちない夫婦の会話を交わした後、我らは着衣に取り掛かろうとするのだが、そういえばここは、盛り上がった積雪をくり抜いただけの寝床だ。最低限、座れる高さと足を伸ばせる広さがあれば良かろうと想定して造ったモノなので、立ち上がれるだけの空間【スペース】が無い。よって、服を着るのも一苦労だと思われる。
「……結界を張りなおすので、穴を空けて欲しいのです」
雪音が流れるように指を動かすと、穴の中に漂っていた結界の気配が、消える。
今まで、遮音と姿消しの結界が張ってあったのだ。
読んで字の如く、音を外へ漏らさない効果と、あられもない我らの姿を見えなくする為の結界である。
無論、吾輩はこのような特殊結界を張る事ができないので、雪音の身体に一定以上の“気の力”が貯まるまでは、無結界で作業をしていた。誰かが近くを通りがからないかと、気が気でなかったが、さすがにこんな森の奥まで立ち入る物好きな輩はいなかったようだ。
そういう訳で、雪音の新たな身体に“気の力”を注ぎ込む作業は、無事に終わらせる事ができた。今後、旅籠【宿屋】で寝泊りする時も、雪音の結界術に頼り切りになるだろう。
「うむ……、ゆくぞ……」
この穴の出入口は塞いでいるので、強引に開けるしかない。吾輩は両腕をズブッと突き入れて、外界へつながる穴を広げてゆく。
「そろそろ、いいのです……」
座って通れるぐらいの穴をこじ開け、吾輩は場所を譲った。
そのまま外へ飛び出した雪音は、両手の指を光らせながら踊り始める。当然ながら真っ裸だ。
だが、瞬時に結界の“気配”を感じたので、吾輩以外の誰にも見られる事はないだろう。
こうして吾輩も、狭苦しい穴の中から解放された。当然ながら裸のままだが、これなら余裕で服を着れるというものだ。
「お兄さま、着せて欲しいのですっ」
踊るようにして結界を張り終えた雪音が、派手な紅い着物を持ちながら抱き着いてきたそんな時、かすかな金属音と共に、何かが雪の上に落ちる音がした。
「あ……っ」
「なぬ……っ」
そう――、
すっかり忘れておったのだが、隠れ里の奥に位置する祠に奉納されていた黄金の小判を、雪音は鷲掴みにしては袖の中へ落としていたのである。それも五回ほど。
「やれやれ……、そうであったな……」
金子は心苦しくも結局、もらってしまったのだが、はてさて。とりあえず、数えてみようか。
吾輩は、紅い着物の袖に手を突っ込んで、念入りにまさぐった。そうすると、出てくる出てくる。
こやつめ。結構、掴んでいたのだな……。
「ひとぉーつ、ふたぁーつ、みっつ……」
何やら、うれしそうな声で小判を数え出す、真っ裸の雪音。
それにしても、望む物ならそのほとんどが手に入る立場にあった我ら。金銭に対する執着なぞ、これまで微塵も無かったはずだが、こやつは何故に……。
「ずっとずぅーっと、憧れていたのですよっ。金子を使って、好きな物を買うって言うんですかっ」
ふむ、金銭そのものではなく、それを使ったやり取り、つまりは売買の行動に興味があった訳か。そういえば、女子は誰しも買い物好き……と、かつて聞いた事があったな。
「これだけ在るんですからっ、いろいろ買えるんですよっ、ふふふっ」
ほぅ……。
雪音の前に小判がずらりと並んでいる。数えながら、吾輩にも見えやすいように並べていたのだろう。その数、ざっと四十枚ほど。
遥か昔の、その昔。あれはざっと、二百五十年以上は前になるか。
当時、貨幣の単位はバラバラで、文に分や両、あと重さによる貫なども使われていた。価値もその時々で変動し、しかも、所変われば両替相場も大きく異なった。故に、そんな複雑にして面倒過ぎる金銭取引に庶民は付いて行けず、もっぱら物々交換が主流であった。
そこで、七大君の一人であり、朝廷最高位の官職である関白・太政大臣に就任した萩 孝明は、貨幣の単位を“文”に統一し、誰でも分かり易い売買を目指した制度を整える。そうして、宸世の経済を大発展させる事に成功したのだ。
さて、それに基づいた我らの所持金を算出してみようか。黄金の小判一枚につき一万文【10万円】であるからして、正確に数えてみたら三十九枚が並んでいた。すなわち、三十九万文【390万円】になるのだ。
「やれやれ……」
隠れ里から結構な額を持ってきていたのだな。新たな着物を揃えても、まだまだ充分過ぎるほどの余裕があるだろう。
「さぁーさぁーっ、早く衣を着て行きましょうっ」
派手な紅い着物を手に取った雪音が、自分で着るのかと思いきや……。
「早く着せて欲しいのですよぉ……」
上目遣いで、もじもじしながら、吾輩の左腕に抱き着いてきた。
「うむ……、だが断るっ」
女子の着物は、見た目より奥が深い。心得の無い吾輩のような者が下手に着せると、どことなく不格好になってしまう。
「ふええぇ、どうしてなのです? お兄さまに着せて欲しいのですよぉ……」
愛らしい瞳をいくら潤ませても、駄目なものは駄目だ。
「いいですよぉ……、分かったのですよぉ……、自分で着ますから……」
雪音はしょんぼりしながら、着物に手を通し始めた。
うむ、それで良い。
着付けに関しては、吾輩より雪音の方がずっと上手いからな。
では、吾輩も身支度に取り掛かるとしようか……。
* * *
凶悪な人殺しが潜んでいた針葉樹林を抜け、再び見晴らしの良い、真っ白い平地に出た我ら。
そのまま南へ思われる方角をひたすら進み、やがて川が見えてきた。
北汰分川――。
人の住める地とそうでない地の、境界として認識されている川だ。
そして、これより南は、人の手が及んだ土地。
朝廷の律令制度によって、鎮西【地方】寒路国【県】と定められている。
さて……。
川を渡ってしまえば、北汰分の街はすぐである。
その川幅はだいたい二町【約210メートル】ほど。
なれど、川の水は凍ってはおらず、流れは結構きつそうだ。
そこで、吾輩の採るべき手段は二つ。
強引に凍結させて進むか、それとも跳び越えるか。なお、凍結させる方が消耗は激しい。
「そんなの、悩むまでもないのです」
真正面に立った雪音が、その両手を吾輩の首に回してきた。
うむ……、これは抱っこをオネダリしているのだな。
「良かろう」
吾輩は雪音の膝に左手を差し入れ、持ち上げる。俗に言う、お姫様抱っこである。
「やさしく、して欲しいの……、きゃあああああああぁぁぁ」
それから、寒波を下へ放つ事で爆発的な推進力を得た吾輩は、あっという間に跳び上がった。直前に雪音が何か言っていたようだが、悲鳴しか聞こえていない。
「ひゃああああああああああああぁぁぁ」
嗚呼……、これは雪音が望んだ事なので、いくら悲鳴を上げられても、まったく知った事ではないぞ。
それにしても……。
遥か向こうまで雪に覆われ、真っ白であるな。
右手の方は山々が連なり、麓は霧の海に覆われている。白い霧から突き出た山頂が、まるで島に見えてしまう。
その山々を越えた向こうは、鎮西【地方】凍海国【県】という、律令制度上ではまた違った土地になる。
次に……、これから向かう北汰分の街を、上から見てみようか。
街と言っても、それほど大きくはなさそうだ。
正式には、北汰分宿と呼称されるような宿場町である。
南北と東に、丁字の大通りが走っており、真ん中が広場になっているようだ。
その広場の西側に大きな建物があり、おそらく代官所であろうか。
「うっきゃああああああああああああぁぁぁ、ぶつかるううううううぅぅぅ」
おっと、そろそろ着地に備えねばなるまいな。
吾輩は再び、寒波を下へ放って、その威力で落下速度を相殺した。
雪煙が舞い上がった中での着地は、見事に成功。
我らはついに、人の治める地に、足を踏み入れるのだった。
――第一部・完
【 】内は現代語訳と省略用語、“ ”内は強調単語、重要固有名詞であるもののけともののふの表記は、ひらがなと混じっても読めるようにする為、( )内は口に出さないセリフ、つまり心の声です。




