第1章 根岸伸夫
「二度と来るんじゃないぞ!」
そうどやされて、融資先の店を出てから。
私は空虚な気持ちを抱えながら、何件目かの酒場を巡っていた。
アルコールでぼやけた頭の中に、あの怒鳴り声だけは鮮明に聞こえ続ける。
「行かないですよ…」
そう、声に出して反芻してみる。
あの店には、もう行くことはない。
そもそも、来月を待たずして、あの店は潰れるだろう。
店の運転資金を、貸していたカネを、口座凍結という形で奪い取ってきたのだから。
ウチで借りられないのであれば、もっと金利の高い融資先で借りるか、店を畳むしかないだろう。
返せる当てがあるなら良いのだが、当初の繁盛ぶりに胡坐を掻いて、その上に努力や工夫を重ねることを怠ったツケが、現状の経営状況として跳ね返ってきている。
何度も指摘し、助言したのだが。
結局、こうなってしまった。
信用金庫にとって、融資先の経営状況は大事。
店との信頼も大切だが、潰れそうな店に貸した金を取り戻せないという結果を避ける方が、もっと大事。
業界からの信用に、私自身の信用に繋がるのだ。
だから、間違ったことはしていない。
していないのではあるが。
この空虚さは、胸の痛みは、どうしても慣れることは出来ない。
飲食店経営が難しいという事は、肌身に染みて理解している。
そんな業界の中で、意欲と自信に溢れて、自分自身の店を持って、お客様たちに美味しい料理を提供したいと願う経営者たちに、出来うる限りのサポートを提供したい。
かつては、私もそうした熱い思いを持っていた。
持っていた、はずだった。
しかし、22年という勤務期間は、そうした熱い思いを少しずつすり減らし、ただの惰性で動いている金貸し屋に仕立て上げるには十分すぎる年月だった。
理性を麻痺させ、ただ動くためだけのガソリンの様に飲んでいたチューハイにも飽きて。
私はフラフラと夜の繁華街から、ちょっとした住宅街に、当てもなく歩を進めていた。
秋分を過ぎてから、日の入りが刻一刻と早くなった。
すっかり暗くなった道の向こうに、どこか懐かしさを感じる店の灯りが灯っている。
私は、吸い込まれるように、その店に入っていった。
~ ・ ~
「…いらっしゃい」
誰もいない店内。
私という客に、なぜか驚いているような店主。
その瞳に、こちらを値踏みするような気配を感じた。
睨み返すと、目を逸らされた。
なんだか、気の弱そうな店主だな。
そういう経営者もいる。むしろそういう性格の方が、辛抱や粘りが利くというモノだ。
清掃の行き届いていなさそうなカウンターに座り、メニューを探したが、見当たらない。
ああ、壁に書いてあるのか。
醤油、味噌、塩。
三種類のみ。価格はどれも、五百円。
価格は良心的だが、肝心なのは中身の方だ。
「醤油ラーメンを、頂けますか?」
「へい」
モタモタと動き出す、店主。
ぼんやりとその様子を眺めながら、その合間に店内を観察する。
改装された様子は、全く見受けられない。
壁紙も、ボロボロだな。椅子も照明も当初のまま交換されていそうにはない。
カウンターが、少し油でギトギトするのは、単に古いからではない。丁寧な清拭を怠っているからなのだろう。営業後に洗剤を使って、その日に溜まった油をそぎ落としていない証拠だ。
雑に扱われた調味料。あまり使われた形跡もない。賞味期限、大丈夫なのだろうか?
箸もかなり傷んでいるな。割り箸を使うのが普通だが、経費を節約したいのであろう。しかし、それならそれで、傷んだ箸は取り除いて交換しなくてはいけないだろう。
店主の手元に目をやると、なんだか手つきが危なっかしい。
まだ、結構若そうには見える。といっても、40代半ばといった所か?
しかし、その仕草は何か老人じみているようにさえ感じる。
やることは分かっている。しかし、身体が付いて行っていない感じだ。
目つきが時折真剣になるが、長続きしない。
アルコールの回った頭でも、その辺はよく分かる。
これは、店を間違えたか?
「へい、お待ち」
出てきた醤油ラーメン。
ドンブリのフチがはっきり見える、色の薄いスープ。
ナルト、メンマ、チャーシュー、ネギ。ごく普通の、安っぽい具材。
そして、何の変哲もない、黄色い中華麺。
れんげを手に取り、スープの味を見る。
…不味い。味が薄っぺらい。変な脂が浮いている。妙な塩辛さを感じる。
聞いたことのないようなメーカーが大安売りで提供する袋麺の味、だろうか。
いや、アッチの方が、まだ旨いと思う、スープの味だ。
しかし、麺は、さすがにラーメン店の方が上なのだろう。
啜って、みた。
…明らかに、茹で過ぎだ。伸びきってしまっている。
舌にねっとりとまとわりついてくる不快感。
べたべたして、上手く啜れない。
いや、世の中には柔らかく煮込まれてクタッとした感じの麺が好きだという客も大勢いる。否定はしない。
だが、この麺はそういう範疇ではない。悪意や敵意を詰め込んで、何が何でも不味くしてやろうというマイナスの意気込みすら感じる麺だ。
よく、こんなものでカネが取れるな。
よく、こんなもので商売を続けられるな。
「なんですか、お客さん?」
そう、聞こえた、気がした。
顔を上げると、店主がこちらを睨んでいる、ような気がした。
そして、すぐに顔を逸らされてしまった。
一体、何のつもりなんだ?
どういうつもりで、こんなにも不味いラーメンを客に提供できるんだ?
「なんですか、なんてもんじゃないな」
私は、いつの間にか立ち上がっていた。
「まるで、なってないな、このラーメンは!」
そういうと、店主が私を睨み返してくる。
「これなら、安売りの袋めんの方がまだマシだぞ。こんなラーメンで、よくカネが取れるもんだな!」
少し強めの声で言ってみたが、店主の反応は鈍い。
調理中の、あのモタモタした反応そのものだ。
これは、何を言っても無駄だ。
そう思い直して、腰を降ろしかけた時。
「八つ当たりですか?」
そう、聞こえた、気がした。
いや、気のせいじゃない。確かに聞こえた。
「なんだと…?」
酔った頭を上げ、再び、私は立ち上がる。
「飲みすぎですよ。舌が、バカになってるんじゃ無いんですか?」
バ、バカ、だと…?
この、信用金庫融資担当者の私に向かって、バカ、だと?
こんな、どうしようもなくマズいラーメンしか作れない店主の癖に…
いや、冷静になれ。
そんな事、言われる筋なぞ、全く無い。
無いのだが、ここは冷静に、論理的に、納得するような仕方で説明してやらねばなるまい。
相手はシロウトで、しかも愚か者なのだ。
こちらが激高して、どうする。
私は、静かに腰を下ろし直した。
醒め始めて、一層不味くなっているに違いない醤油ラーメンの前で。
「いいですかご亭主。ラーメンというモノは、麺とスープと具材のハーモニーを奏でさせるものなのです。その指揮者があなただ。
なのに、このラーメンはどれもこれも、てんでなっていない。不協和音どころか、どのパートもラーメンを名乗れる域に達していない。
そもそもですね…」
自然に、私の声が熱を帯びる。
私は飲食店融資担当ではあるが、特にラーメンが大好きなのだ。
なのに、こんなラーメン屋が生き延びてしまっているからこそ、ラーメンなんて簡単に作れてしまうのだと勘違いする輩が増えてしまうのだ。
こんな伸びきった、味もそっけもないラーメン屋が、淘汰されもせずに経営を続けてしまうのは、断固として間違っているのだ。
今からでも遅くはない。
真剣な態度でラーメンと向き合う覚悟を決めるか。
それとも、こんな客一人入らないラーメン屋など、畳んでしまう方が、世の中のためになるというもので…
ガラガラと、入口のさび付いた引き戸が開いた。
警備員姿の、若い男。
雨風に長時間晒されたような、湿気を帯びた顔が、怪訝そうな顔で私を睨んだ。
しかし、すぐに視線をそらされ、店主に、呟くように告げた。
「いつもの」
そのまま、慣れたように奥のカウンターに座り込みながら、雨合羽を脱ぎ始めた。
常連、か?
こんな店に、常連、だと?
頭がおかしいんじゃないか?
いや、舌がおかしいんだな。
店主が私を無視して、調理に取り掛かろうとしている。
ちょっと待て、私の話が先だろう。
まあいい、一応は客なんだ。
私の話を聞きながら、調理に取り掛かればいいだろう。
「そもそも、麺の茹で方からして、まるでなっていないんですよ。スープの特性を考えた事ってあるんですか? 長く茹でればいいというものじゃない。わかりませんかね。すっかり伸びきって、マズいことこの上ないんですよ」
店主の手が止まった。
思い当たる節があるらしい。
私の話を真剣に聞き始めている。
うむ、良い傾向だな。
「スープも、キチンと出汁を取っているんですか? どう考えても、薄っぺらい、味噌にお湯を足しただけにしか思えない。まさか、味噌から出汁が出るから、他にはイラナイとか、思ってるんじゃありませんよね。調味スープとメインスープは全くの別物ですよ。店の命と言ってもいい。そういう渾身の、プロとしての味を追求なさっているんですか?」
うん、あの若者も、私の話に聞き入っているな。
そう、ラーメンというものは、調理人の感性と努力を結晶させた、美しいハーモニストであるべきなのですよ。分かって貰えるでしょうかね?
「曲がりなりにも造り上げた麺とスープに、なんでこんなに安易な具材を載せるのですか。もっと材料を吟味して、ラーメンの味に合わせる名脇役のような、旨さがにじみ出てくる素材を選ぶべきではありませんか?」
店内が静まり返ったな。
ふふん、私の演説のすばらしさに、恐れをなしたようだ。
ああ、なんていい気分なんだ。
私は、この高揚感のままに、さらに語り続ける。
「それを、それを! こんな不味いラーメン、よく出す気になれるな。お前さんの舌は、紛い物か?
しかもだ、その指揮者である店主、あんただ、あんたなんだよ!
手際も悪ければ、愛想の一つもない。これでよく商売になるもんだ」
声を荒げ、強い口調で糾弾してやる。
さっき、偉そうな事を言っていたからな。
なんですか、お客さん?
八つ当たりですか?
飲みすぎですよ。舌が、バカになってるんじゃ無いんですか?
この、この私になんたる暴言!
故に、根底から、論理的に、徹底的に、完膚なきまでに叩きのめすまで。
どうだ、ぐうの音も出まい。
反論というものがあるなら、聞いてやろうじゃないですか!
店内は、相変わらず、静まり返っている。当然だな。
「こんな犬も食わないようなものに、金を出して食いに来るような奴の気が知れないぜ」
とどめを刺したはず。
はずだと、思った。
「…悪かったな」
私の造り出した静寂さに、小石が一つ、投げ込まれてしまった。
たったその一言で、店内の静寂さを、その若い男がもたらしたことにされてしまった。
その一言で、私のこの美しい演説が、全て台無しにされ、否定され、根底から覆されてしまったのだ。
な、な、何たることだ!
「なんだ、お前。もういっぺん言ってみろ」
私は、思わず立ち上がっていた。
酔った口がそう言わせたのか。
酔った頭がそう言わせてるのか。
急に立ち上がったので、少しよろけてしまったが、大丈夫だ、全く問題はない。
だって、私は、この私は、全くもって間違ってなどいないのだから、な!
その若い男は、ただ座ったまま、私を睨みつけたままだった。
まるで、このうす暗くて、活気が無くて、裏寂れたこの店の、最後の矜持を守り続ける番人であるかのようだった。
なんだ、コイツ…
「お客さん、そこまでにしましょうよ、ね」
あ?
店主が何の用だ。
お前ごときが口出ししていいようなもんじゃない。
そんな事も分からんのか?
「うるせえっ、このくそ生意気なプータローに一発食らわせてやらなきゃ…」
私の挑発に、ようやく乗ってきた若い男。
椅子を倒して、立ち上がって来た。
やるのか、望む所だ!
「お客さん、ここの勘定はもういいですから、ね、ね…」
なんだウルサイな、お前はどっか行ってろ!
「放せ、このくそ親父!だいたい、こんな不味いラーメンに最初っから金出す気なんてねえよ!」
背中にしがみついてくる店主を振り払い、大学時代に齧った事のあるボクシングの構えを取る。
「おい、勘定払うつもりないって、どういう事だよ。お前、食い逃げするつもりだったのか?」
若い男が叫んできた。
な、何を言い出すんだ、コイツ!
「けっ、こんな腐ったラーメンに金を払う馬鹿なんて、貴様位のもんだ。どうせ、ろくなもの食ってないから、舌が貧乏くさくなったんだろ」
「何っ!」
「お前みたいな奴がいるから、こんなラーメン屋が生き残っちまうんだろうが」
コイツには、一発イイのを入れてやらないと、収まらない。
私は拳を構え、一気に攻めかかって…
「お客さん、止めてくださいよ!」
店の店主が、まるでレフェリーの様に、私とヤツの間に背中を割り入れてくる。
そのまま、若い男の突進も止めてしまった。
妙に、その姿が様になっている。
まるで、喧嘩慣れでもしているみたいだ。
こんな、場末のラーメン屋の店主が、か?
若い男が何か言いかけたが。
店主が、ボクシング経験者の私から見てもほれぼれするようなショートフックを、若い男に放った。
何個かカウンターの椅子をばらまきながら、盛大にひっくり返った若い男に目もくれずに。
「さ、さ。これでいいでしょう。店の中で、お客さんの騒ぎは、困るんですよ」
「あ、ああ…」
「御勘定は頂きませんから、どうぞお引き取り下さい。お願いします」
「わ、判った…」
私は、こうして、店から追い出された。
醒め切った、ただただマズいだけの醤油ラーメンを、残したままで。
~ ・ ~
すっかり夜も更けた住宅街を、トボトボと歩く、私。
あの店は。
あの店主は。
何だったんだろう?
そして、あの店の常連らしい、若い男。
よりにもよって、あの味のラーメンの、常連だと?
分からん、全く、分からん、
あんな店に、一体、何があるというのか?
私もこの業界に長くいるが、ああいう店は時折見かける。
そういえば、どの店もなぜか潰れずに、長く生き残っているのだ。
そんなもの、理屈に合わない。あってたまるものか。
…妙に、気になる。
うん、あの常連らしい若い男がいなさそうな時に、あの店にもう一度行ってみよう。
そうすれば、何かが分かるかもしれない。
来々軒のラーメンに隠された、ナニカに。
(終わり)




