其の二十: 佐伯仕法
二宮下総守は、娘の晴れ姿を見てとめどなく涙を流す。
誰にも心を開くことがなかった娘が、今は恥じらいながらも花婿と目を合わせて笑い合っている。笑顔を失った最愛の娘に蘇る笑顔を見る、これほどの幸福が人生の中にあるのだろうか。
娘お紺の縁談、そして輿入れまでは、あっという間だった。
話は、二宮下総守と弘中小太郎の出会いの時まで遡る。
二宮家の所領である安芸佐伯郡の平良一帯は、速谷大社の鳥居前町として栄えたが、時代の流れとともに交通の主流が海運へと移っていく中で、次第に賑わいの翳りが見え始めていた。また二宮家中も親大内派と親尼子派が激しく対立しており、結束に難がある。
領内経営の諸問題に頭を抱えていた当主下総守は、郡山城で意気投合した弘中小太郎の才を見込んで助言を依頼してみると、小太郎は快諾して直後の山口帰還の途上で佐伯に寄ってくれた。
ほんの少し見てもらえるだけでもありがたいと思っていたが、それでは問題の本質は分からないと、小太郎は泊まりがけで調査に取り組んだ。領内や評定を二日かけて視察した後、すぐに経営改革案をまとめ提出。領内の産業構造をどう変革すべきか、家中諸臣の意識をどう改革すべきか。その的確な指摘と実現性の高い提案に下総守は唸る。
「当主の私が本来、ここまでの仕法をやるべきだったのだ……」
隆包の着目点と分析の手腕を見て、自分の経営者としての意識は甘すぎたのだと、下総守は猛省した。
下総守が屋敷で小太郎と仕法についての打ち合わせ中。応接間の外が騒がしくなった。
「まさか、こんな時に……」
聞き覚えのある奇声を聞き、下総守は顔面蒼白になる。
下総守は所領経営の他に、身内にもいくつか問題を抱えていた。
その一つが、二十一歳となる長男の善哉丸。先ほどの奇声の主だ。
善哉丸は幼少期から知的障害があると診断されていた。常に大きな独り言を喋り続けて動き回り、身体が大きくなっても幼稚な振る舞いのままだ。とても歴史ある二宮家を託せる後継者とはなり得ず、十五歳の時に禅寺に預けて出家させた。
そこで了善という法名を得たが、善哉丸は日々の務めを放り出して書庫に籠ったり読経中に騒いだりして、寺も困り果てていた。隙を見ては寺を抜け出して実家に舞い戻り、「僕は武家なんでしょー、戦さに出たいよー」と喚き散らす。その度に下総守は善哉丸を禅寺に連れ戻し、家臣や女中らにも善哉丸を相手にさせないようにして、家中での存在の抹消に務めた。
また十八歳の長女・お紺も、悩みの種だった。幼い頃から心を閉ざし、誰とも話さない少女であった。父母に対しても目を合わせることはなく、その言葉に少し頷く程度で、まるで命を持たない置き人形。部屋に籠りきりで窓の外を眺めるばかり。人の気配があれば窓を閉め切り、決して人に姿を見せようともしない。年頃になったがいまだに縁談は難しい。さらに善哉丸が寺から逃げてくるたびにお紺の部屋に飛び入って騒ぐので、引き離し追い返すのも毎回骨が折れた。
正室が亡くなり迎えた後妻との間に五年前、次男の万哉丸が生まれた。出家させた善哉丸に代わって早くも世嗣と定めた。誰もが善哉丸の変人ぶりを知っているだけに、その後継指名には家中全員の納得が得られた。しかし万哉丸は今まだ五歳と若い上に、かなり病弱な体質で病床に臥すことも多く、今後がとても心配である。
二宮下総守は経営不振に加えて、そんな家族の問題も抱え疲れ切っていた。そんな折の、善哉丸の奇声である。
「善哉丸、また寺を抜け出しおったかっ……!」
下総守がため息をついて立ちあがろうとした瞬間、善哉丸は難解な呪文のような言葉を喚き散らしながら、下総守と隆包の面会の場に勢いよく飛び込んできて室内をうろうろする。
下総守は小太郎に失礼があってはならないと、善哉丸をすぐにつまみ出そうとしたが、小太郎が全く動じず一言発したのを見て、動きが止まる。
「『黄帝内経』の一節ですか」
「えっ、分かるの!? 」
小太郎の問いを聞いた善哉丸は、暴れる足を止めて膝をつき、擦り寄って小太郎の顔を覗き込んだ。
下総守は唖然とする。誰の言うことも聞かないあの善哉丸が、初対面の人間と面と向かって話をしているからだ。
「うんうん、鍼経のとこだよ! キミ、詳しいのー!?」
「いや、少しだけ」
「ほんとー? なんで分かったのー?」
「大内家が明国より取り寄せた書籍の中に見た覚えがあるのです。私も唐土の古典を原語で誦んじる方は、初めて目にしました」
「ボクもこれを分かった人には初めて会ったかなー。みんなからはねー、いつも、うるさい黙っててって怒られちゃうんだー」
「いや、素晴らしい発音です。私もぜひ一度教わりたい」
「えー、どうしよっかなー、教えちゃおうかなー」
いつもは周囲への迷惑を考えずただ独りで喚いているだけの善哉丸が、弘中小太郎と会話を成立させている。二宮下総守は信じられず硬直する。
『黄帝内経』とは中国前漢時代の医学大全である。「素問」と「鍼経」の前後編から成り、「素問」が基礎理論集であるのに比べ「鍼経」は実践的な技術医学書だ。訳本ですら一般的ではなく原語本を目にする機会は極めて稀である。日明貿易を担う大内家に仕える小太郎はかろうじて見た記憶があったが、下総守には何のことかも分からない。
呆然と見ていた下総守はハッと我に返ると、彼が長男の善哉丸であることを小太郎に告げる。
「そうでしたか。二宮どの、話の途中ですが、少し善哉丸どのをお借りして、御庭を歩いてもよろしいですか」
「え、ええ。ど、どうぞ……」
小太郎の思わぬ言葉に、下総守は反射的に庭を指し示した。小太郎は一礼すると善哉丸を誘って御殿の庭へ下りる。善哉丸はニコニコしながら小太郎と並んで庭を散策した。
下総守はその様子を縁側から眺めていたが、目が釘付けになったままであった。善哉丸はいつものようにベラベラと喚いてはいるが、いつもの独り言ではなく、小太郎にまとわりついて言葉を交わしている。信じられない。
しばらくして、小太郎と善哉丸が広間に戻ってきた。下総守の前に座り直した小太郎に、善哉丸は嬉しそうにまだ横で何かを話し続けている。
その時、襖が開いた。下総守はまた驚いて目を見開く。
そこには、茶を乗せた盆を持つ長女お紺の姿があった。その後ろで、女中たちがあわあわとうろたえながら心配そうに見ている。
「お紺……、おまえ……」
下総守は絶句している。お紺が人前に出る姿など、目にするのは何年ぶりのことであろうか。
お紺は静かに小太郎の前に膝を進めると、湯気の立つ湯呑みを差し出して置き、伏せ目がちに口を開いた。
「粗茶ですが……、よろしければ……、どうぞ」
「かたじけない。頂戴します」
小太郎は小さく頭を下げると、湯呑みを手にした。横の善哉丸もお紺に向けて手を差し出してお茶をねだる。お紺は笑ってうなずくと、兄にも湯呑みを渡した。善哉丸は一瞬で飲み干して言う。
「お紺ありがとー。小太郎どのー、彼女はボクの妹でねー、お紺って言うんだよー。優しいんだよー」
「お紺どのですか。私は弘中の小太郎です。お父上やお兄上には大変お世話になっております」
かしこまって名乗る小太郎に、お紺は顔を赤らめながら目を合わせて一礼する。善哉丸の止まらない話に、小太郎もお紺も笑っている。
下総守は固唾を呑んだ。何が起こっているのか分からず混乱する。誰にも相手にされず独りで騒ぎ続けてきた長男善哉丸。誰にも心を開かず自ら外に出ることのなかった長女お紺。父親の自分でさえ今まで心を通わすことができなかった二人の子が、笑顔で会話を成立させている。
この弘中小太郎という人物は、そこまで特別な魅力を持ち合わせている異才なのか。……いや、違う。そうではない。
二宮下総守の両眼に涙が潤む。
下総守はいったん大きく呼吸を整えると、意を決して娘に言葉を投げた。
「……お紺っ」
「はい、お父様」
お紺が父に返事をした。それだけでも驚くべきことだが、下総守は怯むのを堪えて愛娘に問い始めた。
「……お紺。お紺よ……。こちらは周防岩国のご領主、弘中小太郎どのだ。今わしがおまえに、この弘中どのに嫁いでほしいと頼むならば、お紺、おまえは弘中家に嫁ぐ気はあるか」
「はい。ございます」
お紺は父の目を見て、即答した。下総守の目に涙が溜まっていく。
「それは、我が家をすぐに出たいからか。この父から逃れたいからか」
「いえ。お相手が小太郎さまだからです」
お紺は明言した。
溜まりに溜まった下総守の涙が、どっと頬を流れ落ちる。お紺が会話を交わしてくれたこと、いや目を合わせてくれたことですら、下総守のここ十年の記憶の中では初めてのことだったからだ。
お紺の心の内を初めて聴けて、父は心の震えが止まらなかった。
<つづく>




