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北欧おやつ時間〜夢のケーキと午後三時のフィーカ〜  作者: 地野千塩


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ムンキと午後三時のフィーカ(4)

 その夜。明日香は全く眠れなかった。母に言われた正論が今でも耳元で響くような感覚がする。


 自室のベッドサイドのランプだけつけ、動画サイトを視聴し続けた。主に好きな仕事につく方法、やりたい事を見つける方法、転職を繰り返す原因と対策方法、過保護な親に育てれた子供が自立する方法など。副業や起業といった動画も現実逃避的に見てしまう。


 こうした動画は山程ある。心理カウンセラー、キャリアドバイザー、スピリチュアルカウンセラーなど世の中にはこうした相談業も多いらしい。


 部屋にはスマートフォンから動画の音声が響く。この辺りは静かな住宅街なので、風の音ぐらいしか響いてこない。


 しかし、動画を見れば見るほど薄暗い気持ちになってきた。中には母のように正論を捲し立てる発信者や不安を煽るような発信をする人もいる。というか、そう言った人の方が多い。


 人間は元々、不安や危機に注目しやすい生き物らしい。不安や危機を煽るようなサムネイル、タイトル、発言をするとコンテンツが伸びるという発信も見てしまった。既存のメディアも似たような手法で視聴率や閲覧回数を稼いでいるらしい。


 そんな手の内を明かされても動画視聴がやめられない。もしかしたら、この中に答えがある気がして、藁をも掴む思いで再生ボタンを押してしまう。


 長い動画は倍速で見てる。故にほとんど頭に入ってこないが、何か「やってる感」は得られる。動画視聴は精神安定剤代わりだったのかもしれない。


 午前四時近くになり、ようやく眠くなってきた。


「はぁ……」


 こんな夜を過ごしてしまった事にため息しかでないが、どうにか無理矢理寝た。今日は午前中からスキマバイトでスーパーの品出しがあったから。


 もっとも、ろくに寝られなかったので、朝は目の下のクマに驚き、必死にメイクで隠した。朝食をとる気分は全くなく、急いで身支度を整えると、近所のスーパーに向かう。


 地域密着型の激安スーパーという事もあり、スキマバイト要員も十人近くいた。バックヤードでエプロンと軍手をつけ、事務所でスキマバイトアプリでチェックインすると、さっそく仕事が始まる。


 チーズや牛乳、ハムなどのチルド食品をひたすら品出しする作業だった。段ボールから出し、並べる。単純な作業に見えるが、消費期限のチェックや棚の見栄えも気をつけながら丁寧かつ迅速に出していく。


「スキマバイトさん! こっちにも応援!」


 あらかた品出しが終わると、野菜や果物などの品出しも。指示はざっくりとしもので、明日香のミスも多い。


 開店時間が過ぎると、お客様も続々と入店。品出しの明日香も、客からの問い合わせが多く、バタバタと動き回り、あっという間に昼過ぎになり、今日の分の業務が終了した。


「おつかれさまでした」

「スキマバイトさん、おつかれさま」


 現場のパートさんやバイトに挨拶すると、エプロンを専用のランドリーバスケットに入れ、帰る事にした。いつの間にか段ボールやカートに足をぶつけたらしく、じんじん痛い。


 帰り道、どっと疲れていた。確かにスキマバイトで四時間の労働。ざっくりとした指示に従うだけだったが、肉体の疲労が積もっている。やはり昨夜、ほとんど眠れなかった事が肉体的にも悪影響があったらしい。


 家に帰ると、足が重い。どっと肩の荷も感じる。労働の後の開放感などはなく、ただただ疲れていた。


 母が仕事で出掛けているのは幸いだった。今、ここで母の顔を見たら、無駄に怒りが湧いてきそう。


「あ、昨日のお土産のシナモンロールも食べられてる……」


 台所に行き、その事に気づくと、明日香は怒るより脱落した。今日のスキマバイトが終わったら食べようかと思っていたから。


 とはいえ、食べられたのはシナモンロールだけで、ドーナツは残っていた。確かあのカフェの店長は、フィンランド風のムンキというドーナツだと言っていた。スパイスの濃厚な匂いが、明日香の鼻をくすぐってきた。


 ふと、店長の言葉を思い出す。北欧風のコーヒーブレイクタイム・フィーカのこと。


「ただ単に食べるだけじゃもったいない? コーヒー淹れようか」


 明日香はヤカンでお湯を沸かし、インスタントコーヒーを作った。ムンキもちゃんと皿の上に盛り付け、全部準備を整えた。


 インスタントといえど、食卓にコーヒーの香りが広がる。スキマバイトでの疲労を癒すような香りだ。明日香もついつい目を細めてしまう。


「い、いただきます……」


 朝ごはんも昼ごはんも食べていない。正直、食欲は全くないが、このムンキとコーヒーだけは飲み込めそう。


 まずは一口コーヒーを飲み、ゆっくりとムンキを齧る。


 想像以上に濃厚で甘い。食感はもちもち。日本にあるドーナツと見た目は少し似ているが、ぽってりと丸い。味は全く違う。表面の砂糖も噛み締め、ゆっくりゆっくり食べていく。


 テレビもつけていない。もちろん、スマートフォンで動画も見ていない。おかげで窓の外の風の音、木々の擦れる音、小鳥の鳴き声、子供の笑う声などが鮮やかに耳に残るほど。こんな日本の郊外でも、いろいろな音があるらしい。


 しばらく舌と耳にだけ集中していた。五感のどこかを集中すると、うるさい思考が止まってきた。昨日の母の声も、もう聞こえない。どこかへ消えてしまった。


「あれ? 私、今まで何を考えていたんだ?」


 ムンキもコーヒーを完食してしまった時、何かが元に戻されるというか、素面に戻った感覚がした。


 同時に何か悟りのような発見もした。今まではインプットし過ぎていた事。母の言葉や世間体ばかり気にし、無理矢理仕事も探していたんじゃないかと気づく。何かをしたい訳ではなく、無理矢理というか、義務感。きっと内定が貰えないのは、そんな明日香の気持ちを面接官も見抜いていたからかもしれない。どんなスキルや経験があっても、義務感なんかでやる気がない人と一緒に働きたくないだろう。面接官の立場に立って想像すると、今まで見えてこなかった景色に気づく。


 はっとする感覚。目から鱗が落ちる。こんな気づきは、働いている時間や動画を見ている時には分からなかった。ぼーっとコーヒーとムンキを食べたら、悟った。身体も心もゆるめ、ぐちゃぐちゃに混乱していた何かを手放したから出来た。


「あ、そうか。何もしない時間って大事なんだ。フィーカって大事……」


 明日香の小さな声が食卓に響いていた。

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