第1話『Gランク』
レグナリア王国、交易都市エルノア。
街道を行き交う荷馬車の列が、朝から南門の前に伸びていた。
積み荷の検査を待つ商人たちが声を張り上げ、荷車の隙間を縫うように人が歩いていく。街の内側からは露店の呼び声や馬のいななきが聞こえ、ときおり焼きたてのパンの香りが風に乗って流れてきた。
そんな賑やかな門前で、一人の青年が実に楽しそうに笑っていた。
「よし。今日から俺も冒険者だ!」
背中には旅用の荷物。腰には使い込まれたようにも新品のようにも見える、何の変哲もない剣。
青年の名はダス。
少なくとも、今日からはそう名乗ることになっている。
「まだ登録してないよ」
隣を歩く女性が、柔らかい声で訂正した。
長い髪を揺らしながら人の流れを眺めている彼女は、リュネ。見た目は二十代前半ほどの、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「細かいな。気持ちはもう冒険者なんだよ」
「昨日からずっとそう言ってるものね」
「昨日どころか、三日前からだぞ」
「知ってる。何回も聞いたから」
リュネが小さく笑う。
その足元を、犬ほどの大きさをした白い飛竜が歩いていた。
四肢と翼を備えた小柄な身体に、白い鱗。長い尾を器用に動かし、人混みの中でも誰かにぶつかることなく進んでいる。
ヴァルという名の龍である。
もちろん、ここにいる人々はそんなことを知らない。
傍目には珍しい小型飛竜系の魔獣を連れた、若い男女二人組にしか見えないだろう。
「それにしても、すごい人だな」
ダスは門をくぐりながら周囲を見回した。
交易都市というだけあって、街路には様々な種族の人々が行き交っている。荷を背負った獣人の商人、杖を携えた魔術師、重そうな鎧を着た冒険者らしき一団。
通りの両側には商店が並び、軒先に吊るされた商品が風に揺れていた。
目新しいものを見つけるたび、ダスの視線がそちらへ向く。
「見ろよ、リュネ。あの店、武器が山ほどある」
「あるね」
「あとで見ようぜ」
「登録が先じゃなかった?」
「そうだった」
少し歩いたところで、今度は香ばしい匂いに足を止めた。
「……あの串焼き、うまそうだな」
「食べる?」
「いや、まず登録だ」
「えらい」
「だろ?」
三歩ほど進んでから、ダスは振り返った。
「でも帰りに買おう」
「うん」
ヴァルが二人を見上げた。
その視線には、先ほどから何度同じやり取りを聞かされているのかという、実に大人びた呆れがあった。
もっとも、当のダスは気にしていない。
彼にとって、今日という日は特別だった。
これまで世界の様々な場所を訪れ、数え切れないほどのものを見てきた。
だが、冒険者ギルドへ登録し、その制度の中で仕事を受け、報酬を稼ぎ、実績を積み重ねる。
そうした経験は、また別の話である。
どれほど強大な存在であろうと、冒険者として最初から積み上げた経験が生まれるわけではない。
だからこそ、面白そうだった。
自分が決めた条件を守り、その中でどこまで楽しめるか。
それが、今回の遊びである。
ただし、遊びだからといって適当に済ませるつもりはなかった。
「さて、ギルドはどっちだ?」
「さっき案内板に書いてあったよ」
「見逃した」
「だと思った」
リュネが笑いながら進行方向を示す。
その隣を歩くダスは、相変わらず楽しそうだった。
*
冒険者ギルド、エルノア支部。
大通りに面した建物は、ダスが想像していた以上に大きかった。
入口をくぐると、広い受付空間の向こうに複数の窓口が並んでいる。壁際には依頼書が貼り出された掲示板があり、その前では冒険者たちが腕を組んだり、仲間同士で相談したりしていた。
奥には飲食のできる場所もあるらしく、朝だというのに酒の匂いが漂ってくる。
「おお……」
ダスが感心したように声を漏らす。
剣や槍を携えた者、魔術師らしい装束の者、旅装のまま書類を抱えている者。
誰もが自分の仕事を持ち、忙しそうに動いていた。
「いいな、ここ」
「賑やかだね」
「冒険者って感じがする」
「冒険者ギルドだからね」
「そういうことじゃなくてさ」
ダスは笑いながら掲示板を指した。
「あれ全部、誰かがやってほしい仕事なんだろ?」
「そうだね」
「で、受けたい奴が自分で選んで、仕事して、報酬もらって帰る。いやぁ、いい仕組みだよな」
彼は掲示板の前へ行きかけたが、途中で足を止めた。
「……先に登録か」
リュネが声を立てずに笑っている。
「何だよ」
「ううん。今日はちゃんと順番を守ってるなと思って」
「俺だって順番くらい守るぞ」
「うん。知ってる」
そう返す彼女の目は、少しばかり楽しそうだった。
二人は新規登録の窓口へ向かった。
受付に座っていたのは、茶色い髪を後ろでまとめた女性だった。書類へ目を通していた彼女は、二人が近づくと顔を上げる。
「こんにちは。冒険者ギルド、エルノア支部へようこそ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「冒険者登録したいんだけど」
「新規登録ですね。お二人ともですか?」
「ああ」
「はい」
「かしこまりました。私は受付担当のミーナです。では、まずこちらに必要事項をご記入ください」
差し出された書類を、ダスは興味深そうに受け取った。
「へえ。名前、年齢、種族、希望職業……」
しばらく眺めてから、さらさらと記入していく。
名前、ダス。
年齢、二十二歳。
種族、人間種。
希望職業、剣士。
隣ではリュネも記入を終えていた。
名前、リュネ。
年齢、二十三歳。
種族、人間種。
希望職業、魔術師。
ミーナが書類を受け取り、二人の記載内容を確認する。
「ダスさんは剣士、リュネさんは魔術師ですね。そちらの飛竜は……」
「ヴァル。俺の従魔だ」
足元を指され、ヴァルが静かに顔を上げた。
「小型飛竜系でしょうか。珍しいですね」
「だろ? 結構かわいいんだよ、こいつ」
ダスが得意げにヴァルの頭へ手を伸ばす。
ヴァルは軽く身を引いた。
「おい、何で避けるんだよ」
もう一度伸ばした手も避けられた。
ミーナが困ったように笑う。
「……あまり触られるのが好きではない子でしょうか?」
「いや、普段はもうちょっと仲いいんだけどな」
リュネが横から口を挟んだ。
「さっきから、ずっとかわいいって言われてるから」
「褒めてるだろ?」
「褒められ方にも好みがあるんじゃない?」
ヴァルは黙ったまま、当然だと言いたげに尾を動かした。
受付のミーナは、ずいぶん賢い従魔なのだろうと感心していた。
まさか目の前の小さな飛竜が、人語を理解するどころか、二人と普通に会話できる成熟した龍だとは思いもしない。
今回は、そういう約束なのである。
ミーナは従魔としての同行について必要な確認を済ませると、改めて二人へ向き直った。
「それでは、登録に関する説明をさせていただきますね」
冒険者ギルドは、仕事を紹介するだけの場所ではない。
依頼の受注と達成確認、報酬の受け渡し、素材の査定、危険地域の情報提供など、冒険者の活動を支える様々な業務を行っている。
冒険者ランクは、Gから始まり、F、E、D、C、B、A、S、SS、SSSと続く。
原則として、登録したばかりの冒険者は最低ランクのGから活動を始める。
ミーナがそう説明したところで、ダスの顔がぱっと明るくなった。
「Gか!」
「はい。新規登録の方は、基本的にGランクからとなります」
「いいねえ!」
「……はい?」
「一番下ってことだろ? 最高じゃん」
ミーナの手が止まった。
新規登録者が最低ランクに不満を示すことは珍しくない。
早く上へ行きたい。強い魔物を倒したい。大きな仕事を受けたい。
そうした理由で、昇格について質問されることも多い。
しかし、最低ランクと聞いてここまで嬉しそうにする人間は、なかなかいない。
「あ、ありがとうございます……?」
「いや、礼を言うのは俺の方だって。ちゃんと一番下から始められるんだな」
「ええ、もちろんです」
「よし!」
ダスは小さく拳を握った。
リュネが隣で微笑んでいる。
「よかったね」
「おう。これで堂々と新人冒険者だ」
「まだ登録証をもらってないよ」
「……そうだった」
ミーナは少し不思議そうに二人を見比べたが、やがて微笑んだ。
随分と愉快な新人たちらしい。
登録手続きが完了し、ほどなく二人へ冒険者証が渡された。
ダスは受け取るなり、その表面をじっと見つめた。
記載された名前と登録情報。
そして、はっきりと示された一文字。
《G》。
「……おお」
その声には、先ほどまでとは違う感慨があった。
「リュネ、見ろ」
「うん」
「Gだ」
「見えるよ」
「一番下だぞ」
「そうだね」
「すごくない?」
「ふふっ。そんなに嬉しい?」
「嬉しいに決まってるだろ」
ダスは登録証を手の中でひっくり返し、もう一度《G》の文字を眺めた。
偽物の称号ではない。
誰かから譲り受けた地位でもない。
自分で登録し、正式に認められた冒険者としての最初の一歩だった。
「これからFになって、Eになって、Dになって……いや、楽しみだな」
「上がるの?」
「そりゃ上がるだろ。ずっとGでも面白そうだけど」
「もう迷ってる」
「だって、なったばっかりだしな」
笑いながら冒険者証をしまうダスを、ミーナは微笑ましく見守っていた。
「お二人とも、まずは無理のない依頼から始めてくださいね」
「もちろん。ちゃんとGランクの仕事するよ」
「それが一番です。冒険者のお仕事には危険もありますから」
その言葉を聞いたダスは、軽く頷いた。
どれほど些細な依頼であろうと、危険がないとは限らない。
それは彼もよく知っている。
ただ、今回は知っているというだけでは意味がなかった。
自分で調べ、自分で判断し、自分で経験する。
そうして得たものを、冒険者ダスとして積み重ねていく。
「じゃ、早速依頼を探してくる」
「はい。分からないことがあれば、いつでも聞いてください」
「ありがとな、ミーナ」
二人が窓口を離れると、ヴァルも後を追った。
*
「おい、兄ちゃん」
掲示板へ向かう途中、低い声がかかった。
振り返ると、がっしりした体格の男が立っていた。
年季の入った装備を身につけ、腰には剣を提げている。無駄に威圧するような態度ではないが、立ち姿からして相当に実戦経験を積んでいることがうかがえた。
「見ない顔だな。新入りか?」
「おう。さっき登録したばっかり」
「そうか。俺はガルドだ。ここの支部で仕事してる」
「ダスだ。よろしく」
「そっちの嬢ちゃんは?」
「リュネです。よろしくお願いします」
「おう」
ガルドは頷くと、ダスの腰の剣と、手にしたばかりの冒険者証へ目を向けた。
「Gか。最初から欲張るなよ。依頼書の報酬だけ見て選ぶと、ろくなことにならん」
「なるほど。経験者の忠告ってやつだな」
「忠告というか、実際そういう馬鹿が多いんだよ」
「へえ。ちなみにガルドは何ランク?」
「Aだ」
「おお、A!」
ダスが目を輝かせた。
「すげえな!」
「……お前、反応が素直だな」
「だってAだろ? Gから数えたら随分先じゃん」
ガルドは一瞬呆れたような顔をして、それから笑った。
「まあ、そうだな。長くやってりゃ、いろいろある」
「どのくらいやってんの?」
「長いよ。お前らがこれから覚えるようなことは、大体ひと通り失敗してきた」
「いいな、それ」
「何がだ?」
「失敗した分だけ、話があるってことだろ。面白そうじゃん」
予想外の返答だったのか、ガルドは少し目を丸くした。
それから、今度は声を出して笑った。
「ははっ! 変わった新人だな、お前」
「よく言われる」
「そうだろうな」
ひとしきり笑った後、ガルドの視線が足元へ落ちた。
ヴァルである。
「……ん?」
ガルドはわずかに眉を寄せた。
小型飛竜系の魔獣。
そう見える。
だが、何かが引っかかった。
冒険者を長く続けていると、理屈より先に身体が反応することがある。
不用意に近づいてはいけない相手。
見かけよりも危険な生物。
そうしたものを、経験の積み重ねから直感的に察する瞬間だ。
目の前の小さな飛竜を見たとき、ほんの一瞬、その感覚があった。
「おい、ダス」
「ん?」
「こいつ、何て種族だ?」
「小型飛竜系だな」
「……そうか」
ガルドは少し屈んだ。
ヴァルも顔を上げる。
二者の視線が合った。
ガルドは、何とも言えない気分になった。
普通、魔獣は人間に対して何らかの反応を見せる。
警戒するなり、興味を持つなり、無視するなり。
この飛竜にも反応はある。
ただ、妙に落ち着いていた。
こちらを観察しているような目つきが、少し気になる。
「……随分賢そうだな」
「賢いぞ。なあ、ヴァル」
ダスがしゃがんだ。
ヴァルは嫌な予感がしたように、わずかに目を細める。
「お手」
差し出された手。
ヴァルは動かなかった。
「……お手」
動かない。
「ヴァル?」
今度は、はっきりと不機嫌そうな顔になった。
リュネが口元を押さえている。
「ダス、嫌がってるよ」
「いやいや、ここは頼むって。ちょっとだけ」
ダスがもう一度手を差し出す。
ヴァルはしばらくそれを見つめていた。
やがて、深々と溜息でもつきそうな表情のまま、前脚を持ち上げる。
ぽすっ。
ダスの手のひらに、小さな前脚が乗った。
「ほら!」
ダスが得意げに笑う。
ガルドは思わず吹き出した。
「何だ、ちゃんと懐いてるじゃねえか!」
「だろ?」
「賢いな、お前」
ガルドがヴァルへ笑いかける。
ヴァルは黙って前脚を引っ込めた。
そしてダスの靴を、尾の先で軽く叩いた。
「いてっ。何だよ」
痛いはずもない程度の一撃だったが、ダスは大げさに足を引いた。
リュネがとうとう声を出して笑った。
ガルドも肩を揺らしている。
先ほど感じた奇妙な違和感は、すっかり笑いの中へ紛れてしまった。
「まあ、従魔がいるのは心強いだろうが、無理はさせんなよ」
「おう」
「そっちもな。新人のうちは無茶するな」
「分かった。ありがとな、ガルド」
「困ったことがあったら聞け。じゃあな」
ガルドは片手を上げ、別の冒険者に声をかけながら歩いていった。
その背中を見送ってから、ダスはヴァルを見下ろす。
「助かったぞ、ヴァル」
ヴァルは返事をしない。
代わりに、今度は少し強めにダスの足を尾で叩いた。
「いてっ」
「怒ってるね」
「そんなに嫌だったか?」
ヴァルはそっぽを向いた。
ダスは少し考え、それから悪びれずに笑った。
「じゃあ、あとでうまいもん食おうぜ」
ヴァルの耳に相当する部分が、わずかに動く。
リュネはそれを見て、くすりと笑った。
「ちゃんと本人の好きなものにしてあげてね」
「もちろん」
ヴァルは二人を見比べ、ひとまずそれで許すことにしたらしい。
*
依頼掲示板の前は混雑していた。
ダスは人の肩越しに貼り出された依頼書を眺める。
「おお、いっぱいあるな」
採取、運搬、清掃、捜索、護衛、討伐。
仕事内容も報酬も様々だ。
中には、受注できるランクが指定されている依頼もある。
ダスは興味深そうに一枚ずつ読んでいった。
「これ面白そうだな」
「どれ?」
「魔物討伐」
リュネが依頼書を覗く。
「受注条件、Cランク以上って書いてあるよ」
「……本当だ」
「残念だったね」
「くそっ。Gの壁が厚い」
「登録したばかりだもの」
ダスは笑いながら別の依頼へ視線を移した。
そのとき、横から声がかかった。
「ねえ、もしかして新人さん?」
振り返ると、短槍を背負った若い女性が立っていた。
活発そうな雰囲気で、慣れた様子で依頼書を眺めている。
「おう。さっき登録した」
「やっぱり。さっきガルドさんと話してたでしょ?」
「話してたな。知り合い?」
「うん。私はフィナ。Eランクだよ」
「ダスだ。よろしく」
「リュネです」
「よろしくね!」
フィナは二人の冒険者証を見ると、嬉しそうに笑った。
「Gランクかあ。最初は大変だと思うけど、頑張ってね」
「おう。ちなみに、おすすめの依頼ってある?」
「うーん。初めてなら採取かな。討伐より危険が少ないし、周りを見る練習にもなるよ」
「採取か」
「そう。ちゃんと種類を見分けないといけないし、帰り道も覚えないといけないし。簡単そうで、意外と覚えることが多いんだよ」
ダスは感心したように頷いた。
「なるほどな。採取って、ただ草を取ってくるだけじゃないんだな」
「そうそう。そこを甘く見る新人が多いんだよ」
フィナは掲示板から一枚の依頼書を示した。
「これなんかどう?」
《銀縁草の採取》。
指定された薬草を採集し、ギルドへ納品する依頼だった。
必要数は三十本。
報酬も、初めての仕事としては悪くない。
「銀縁草……」
ダスが依頼書を眺める。
「銀色の草か?」
「全部銀色ってわけじゃないよ。葉の縁が銀っぽく見えるの」
「へえ」
「似た草もあるから、ちゃんと確認してね。分からなかったら無理に取らない方がいいよ」
「了解」
「あと、採取中も周りは見ておいてね。危険の少ない場所でも、魔物が絶対に来ないわけじゃないから」
「おう。気をつける」
フィナは満足そうに頷いた。
ダスは依頼書をもう一度読み、それからリュネを見る。
「どうする?」
「いいと思うよ」
「じゃ、これにしようぜ」
「うん」
ダスは依頼書を掲示板から取り、嬉しそうに笑った。
「初仕事が薬草採取かあ」
「不満?」
「いや、全然」
少しも迷うことなく、そう答えた。
「むしろいいじゃん。最初から大物討伐しても、何かもったいないだろ」
「もったいない?」
「だって、せっかくGから始めるんだぞ。Gでできること、ちゃんとやってみたいじゃん」
フィナが目を瞬かせた。
「……変わってるね、ダスって」
「そうか?」
「普通は早く上へ行きたいって言う人が多いから」
「俺も上には行きたいよ。でも、今はGだからな」
ダスは自分の冒険者証を取り出した。
《G》。
その一文字を眺める顔は、何とも楽しそうだった。
「まずはGを楽しもうぜ」
フィナは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「うん。何か、いいね。それ」
リュネも楽しそうに頷いた。
ヴァルだけは、また始まったと言いたげな顔をしている。
依頼の受注手続きを終える頃には、ダスはすっかり上機嫌だった。
ミーナから採取上の注意を改めて聞き、出発前に必要なものを確かめる。
今日は登録や準備で、思っていた以上に時間を使ってしまった。
採取へ行くのは翌朝からにすることにした。
「じゃあ、明日は銀縁草三十本だな」
「ちゃんと見分けられるかな?」
「まあ、やってみれば分かるだろ」
「似た草もあるんだって」
「間違えたら覚えるさ」
「三十本全部間違えないでね」
「それはそれで才能じゃない?」
二人は笑い合いながら、ギルドを後にした。
外へ出ると、通りにはまだ多くの人々が行き交っていた。
さっきまでと同じ賑やかなエルノアの街並み。
けれど、ダスにとっては少しだけ違って見えた。
懐には冒険者証。
明日には、自分で選んだ最初の仕事が待っている。
「なあ、リュネ」
「なに?」
「俺、今すごく楽しいわ」
「知ってるよ」
「まだ何もしてないのにな」
「登録したよ。依頼も受けた」
「ああ、そうか」
ダスは笑った。
「もう始まってるんだな」
リュネはその横顔を見て、柔らかく微笑む。
「うん。始まったね」
足元ではヴァルが静かに歩いている。
三人はそのまま市場の方へ向かった。
「よし、じゃあ記念にうまいもん食おうぜ!」
「まだ報酬もらってないよ」
「登録記念だよ、登録記念」
「お金、使いすぎないでね」
「分かってるって。……あ、あの串焼き屋!」
ダスが嬉しそうに指を差す。
リュネが笑い、ヴァルもそちらへ視線を向けた。
これから長い時間をかけて積み重ねることになる、冒険者としての日々。
その最初の一日は、まだ一体の魔物も倒していなかった。
報酬だって、一枚の硬貨も稼いでいない。
それでもダスにとっては、十分すぎるほど楽しい一日だった。
*
同じ頃。
エルノアの東方に広がる森林地帯で、小さな異変が確認されていた。
最初に目撃されたのは、数匹の小型魔物だった。
通常の活動範囲から外れ、西へ向かって移動している。
それだけなら珍しいことではない。
餌を求めることもあれば、より強い魔物から逃げることもある。環境が変われば、生息域を移す個体だっている。
だが、続いて別種の魔物までが同じ方向へ移動し始めた。
互いに争う様子もなく、かといって群れを作っているわけでもない。
ただ、どの魔物も西へ向かっていた。
森林の巡回に出ていた者たちは、その様子を不審に思った。
原因は分からない。
付近で大型魔物が活動を始めた可能性もあれば、環境に何らかの変化が起きている可能性もある。
少なくとも、今ある情報だけで判断できることではなかった。
目撃内容は記録され、エルノア支部へ報告された。
ギルド側では、東方を活動区域とする冒険者から追加の情報を集め始める。
その報告が何を意味するのか、まだ誰にも分からない。
そして街の西寄りの市場では、そんなことなど知らない二人と一体が、串焼きを何本買うかで揉めていた。
「三本でよくない?」
「いや、ヴァルが結構食うだろ」
「ダスも食べたいんでしょう?」
「……まあな」
ダスは少し考えたあと、店主へ笑いかけた。
「すみませーん! 追加で三本!」
リュネが吹き出した。
ヴァルは、ようやくまともに食べられそうだとばかりに尾を揺らした。
こうして、ダスたちの冒険者生活が始まった。
世界のあちこちに、彼らの知らない出来事は山ほどある。
だが今は、明日の薬草採取が何よりも楽しみだった。




