十、黒衣の君とふたたび
気がつくと、篠の部屋にいた。
いつの間にか倒れていて、久米が自分を抱き起こしている。左手にはフツミタマを握り締めたまま。
ぼんやりした頭を叩き起こしながら、改めて周囲を見渡す。
久米が心底ほっとしたような顔をしている。自分は息もしていなかったのかもしれない。本気で心配させたようだった。
傍らには白磁が座っている。神妙な面持ちだった。
「気が付かれましたか。何よりです」
「私は……どうなっていたんだい」
「フツミタマを抱き締めたまま倒れておられました。目を覚まされるまで、久米がずっと呼びかけていたのですよ。村の方は孫とミチ坊やに警護させておりますのでご安心を」
白磁が淡々と答える。
依頼者である篠の村には、幽霊が蔓延り、その中には村人に取り憑いて狂わせているのもいる。イワレヒコが春に咲くはずの花をとうに咲かせた樹の調査に行っている間、そうした幽霊たちを討つのは従者たちが引き受けてくれていた。
「そうか……」
「ともあれ、貴方が目を覚まされたのでしたら、もう安心でしょう。あいつも安堵することだ」
「……あいつ?」
私から聞いたことは内緒ですよ、と白磁は前置きする。
「貴方が倒れられたと聞いて、真っ先に駆け付けたのがハヤだったのですよ。久米が来てからは久米に丸投げしてさっさと退散しましたがね」
イワレヒコはその事実に、素直に驚いた。逆鱗に触れてしまった若君を見捨てず、誰よりも早くその危機に駆け付けたニギハヤヒのことを思うと、自分は本心とはいえ悪いことを吐きだしてしまったのだと、罪悪感に駆られた。
「ニギハヤヒ、が……」
イワレヒコの声が自然と沈む。それを元気づけるように、白磁は微笑んだ。
「あれは不器用なところがありますから。あれでも貴方のことを慕っているのだと思います。……さて、私は若の様子をハヤに伝えて来ますから、引き続き、『怪奇』の調査を頼みます」
白磁は立ち上がって部屋を出る。
出る間際、ああ、と振り向いた。
「繰り返しになりますが、くれぐれも、私から聞いたことはご内密に」
妖艶に微笑んで、今度こそ去って行った。
眼鏡をかけ直し上着をきゅっと引き締める。黒手袋をはめてフツミタマを数秒眺める。傍らには久米が控えてくれていた。
「久米」
「はい」
「心配かけたね」
「いえ。ご無事であればいいんです」
「はは、ありがとう。……私はいつも至らないね。ついてきてくれた皆々には苦労をかけてばかりだ。とりわけ君にはめいっぱいの苦労と面倒をかけてしまっている」
「こんなものは苦労にも面倒のうちにも入りません。……いきなり如何いたしました。倒れたショックで頭のどこかについている歯車でも狂いましたか」
「ひどい言い草だな!?」
久米が真面目な顔で冗談を言うとは思わなかった。いや冗談なのだろうか。久米は道臣が絡まない限り、いつでも引き結んだ表情をしている。もしかしたら大真面目に主君の頭を心配しているのかもしれない。それはそれでいやだ。
イワレヒコは聞こえよがしに咳払いする。従者の中では一番古いつき合い(それも東征の旅を始めるずっと前から)なのだ。ひょっとしたら妻の五十鈴と同じくらいに、彼の隣は安らぎを覚えてしまうかも知れない。
「さて、私はもう一度春の樹のところへ行く。引き続き、村の警護を頼むよ」
「お任せを」
「……久米」
「はい」
もう一度、頼んだよ、と言おうと思った。口を開いたその時。
「うぁっ!!」
もう一人の従者・道臣のうめきが聞こえた。
さっきまで緩んでいた表情を、イワレヒコも久米も引き締める。とりわけ久米はより険しくさせ、声のした方へまっすぐかけていく。その手には、黒曜の弓がすでに握られていた。
「ミチッ!」
イワレヒコは久米を追うようにして外へ出る。部屋の縁側から身を踊りだした。
「……!」
息をのんだ。雪と血にまみれた道臣が、冷たい地面に倒れていた。その手には、赤黒く染まった短刀がしっかりと握られている。
篠が道臣をがむしゃらに抱きしめて、震えている。
血相を変えた久米が、篠を押しのけるように道臣を抱き起こす。ぐったりした道臣は、自力で立ち上がる気力も失われたようだった。
「ミチ、ミチ! おい、しっかりしろ! ミチ!!」
「うぅ、っく……。久米、ちゃん……」
「ミチ……」
久米が少しだけほっと胸をなで下ろす。
イワレヒコは村の庭全体をざっと見渡した。瞬時に、表情に冷酷さが戻る。
春の樹で見た幽霊たちだった。
老人もいれば子供もいる。男も女もいる。もののふのような格好の者もいれば、ぼろの着物を着こんだ者もいる。
共通点は、自分への敵意をびしびしと惜しみなく向けているというところだ。久米の即席の結界が、もう破られてしまったのだろう。
隠しもしない殺意をまき散らして、幽霊たちがゆっくりと、焦らすように此方へ近づいてくる。道臣にとどめを刺そうとしているんだろうか。
「い、イワレヒコ、さま……」
助けを求める篠の声が震えている。幽霊が動き出してしまったのだ。また平穏を脅かそうとしている。それを間近でみてしまった彼は、今にも泣きそうだ。
イワレヒコは冷静に、篠へ告げる。
「篠、よく聞きなさい。村の皆々は全員屋内に避難して、戸締りをしっかりするんだよ。決して外に出てはいけない。ここにいる久米がいいというまで、家の中に隠れていなさい」
「し、しかし」
「篠。村人の安全は君にかかっているんだ。急いで村の皆に伝えなさい。いいね?」
有無を言わさぬその口調に、篠の心が奮い立たされる。半分は涙声であった彼は、きびきびと言われたことを実行した。幽霊の間を勇敢にも駆け抜けて、「皆家に入れ―!!」と大声を張り上げた。
「若、ここは俺にお任せを。急いで樹へ」
「いけるのかい?」
足元で道臣を大事そうに抱きかかえている最古参の従者に、イワレヒコは問う。
「ヤタと白磁を呼びます。それで戦力は充分です。若は、もとを断ってください。さあ」
「……わかった。頼んだよ、久米」
イワレヒコは一瞬悲しげに微笑んで、フツミタマを片手に、春の樹へ駆けていく。
結界を破られた林は、イワレヒコが最初に見た時とは比べ物にならないほど、無数の幽霊が蔓延っていた。
視界には否応なく幽霊が入って来る。空中を浮遊してこちらを不気味に見下ろしているだけならばまだ可愛げがある。
だがそのほとんどは、イワレヒコの行く手を阻もうと彼にまとわりついたり、呪いの言葉を吐き捨てたりする。
敵意と憎悪がびしびしと肌にぶつかる。イワレヒコはそれらを無理やり切り捨てて、ひたすら根源へと走る。
断ち切った派手な着物を着た女はありったけの恨みを込めてイワレヒコを睨んだ。振り払ったぼろを着た子供の幽霊は絶望に目を見開いて倒れ伏した。前に立ちはだかった屈強そうな男は足蹴にして、そこへ無理やり道を開いた。
時間がない。幽霊に構っている余裕はない。自分が時間をかければかけるほど、村は危険な目に遭う。
不安が心に忍び寄って来る。急がなければ。だけれど焦ってはいけない。
息を切らして、イワレヒコは走る。樹へ。春の花を咲かせた樹の下へ。
その樹にたどり着いたころのイワレヒコは、完全に息が上がっていた。肩を上下させ、額から流れる汗を袖で拭う。体が火照って、上着を脱ぎたいほどだった。脱いだら風邪をひくだろうから思いとどまった。
しんしんと静かに降る雪の中、イワレヒコはナガスネヒコと対峙する。
ふわふわの癖っ毛に雪が積もり、幼げな顔が下卑た笑みに歪む。そのローブはまるで闇をまとったようで、病的に痩せている指先が、イワレヒコに向けられる。
「また会えたね、ワカミケヌ」
イワレヒコは、フツミタマを構えた。




