5、ユーリとアルザギール
この部屋に住んでいた期間はそれ程長くは無い。
小さな部屋だ。
置いてあるのは着替えくらい。
まともに使ったのはクローゼットとベッドだけ。それ以外の最初からあった机などには殆ど触ってすらいない。
最近は出掛ける事が多かったので、机の上や窓枠に埃がうっすらと積もっている。
掃除をするべきだろうか?
立つ鳥後を濁さずとは言うけれど、そんな事をする意味があるのかどうか……。
愛着のない部屋を掃除するのは時間の無駄ではないか……。
そもそもこれまで、ここで暮らしている。という気持ちになった事はあまり無い。
生活をしている。とは思った。
生きている、と。
暮らす。というのはそういうものではなく、そこに馴染むというか、そこが自らの一部になるというか……上手く言葉に出来ないが、心が安らぐ場所になってからこそ使える表現だと僕は思う。
そういう意味では、ここは心が安らぐ場所では無かった。
僕は常に疎外感を感じていた。
ここは僕のいた世界ではない。だからなのか、僕は異物であると感じていた。
どこまで行っても皆と同じにはなれない。
たとえ吸血であっても、皆から実力を認められていても、僕は違っているという感覚があった。
けれど、そんな僕でも違和感なく立つ事が出来た場所がある。
この世界で唯一落ち着けた僕の居場所。
僕の心が安らぐ場所は、アルザギール様のお傍にしかない。
そこにしかなかった。
これから、そこに向かう。
そこに行く前は、いつもかなり緊張する。
黒いスラックスに白いシャツ。シャツの上には黒いベスト。それと白い手袋に黒い革靴。
この服装のどこかに不備はないか、それが毎回とても気になってしまう。
スラックスの裾はほつれてないか。シャツに皺はないか。靴に傷はないか。髪はしっかりとセット出来ているか……。
気にしだせばきりがないが、アルザギール様から戴いた服装一式なので、色々と気を遣わずにはいられない。
今は自室なので、不備を見付けたら他の服と交換すればいいだけだ。気負う必要は無いのかもしれないが、それでも、ついついチェックしてしまう。
「不備は無い……かな?」
服装の点検は終わった。
一応、問題は無さそうだ。
問題があるとすれば……服装ではなく、この手紙だ。
「これ……どうしたものかな……」
ステラさんから送られてきた手紙。
あれからアルザギール様と共に各地を周り、吸血鬼がいなくなり、世界に日の光が戻るという事を話して回った。それがとても忙しく結局シンスカリに行く事は出来なかったので、復興が進んでいるという近況を知る事が出来たのは有難かった。
まあ、ミナレットの話なんかはちょっと盛られ過ぎているというか……いやかなり盛られていて原型を留めていない感じになっていると思うが……。
クラレット・ララ・ルピナシウスというのはきっとミナレットとは別の方向に、金銭面とかそういうのに関して恐ろしい才能を持つ者なのだろう。
直感だが、そう思う。
変わった人が多い家系なのだろう。たぶん。
世の中にはいろんな人がいるものだ。
折角異なる世界に来たわけだし、ステラさんみたいに、色々な人達や、場所を見て回るべきだったのかな……などと後悔する事は無い。
僕の居場所はアルザギール様のお傍だ。
他に無い。
どれだけの人に会っても、どこに行っても、心がときめく事は無い。
心が安らぐ事は無い。
僕が共にあるべきはアルザギール様であり。
僕が共にいるべきはアルザギール様のお傍だからである。
他の事など、どうでもいいのだ。
この世界に生きる様々な者達の事とか、かつての大戦の事なんて、どうでもいい。
こんな心持ちだからどこにいても違和感を拭えなかったのだろうけれど、僕は満足だ。
これでいい。
そう思える。
この世界を楽しむ事はステラさんに任せる。
心温まり手に汗握る冒険は、僕の物語ではない。
……それはそれとして、手紙をどうするか。
「うーん……これを持って行ってもなぁ……」
ポケットに入れて持ち出す事も出来るが、そんな事をする意味があるのかどうか。
これは肌身離さず身に付けていたいお守りの類ではない。
持ち歩く必然性を感じない。
それに僕が死ねばそこに置き去りにされるわけだし、そうなると手紙が外に出てしまい、僕に届かなかったのでは? と思われてしまうかもしれない。
そんな勘違いをさせてしまっては少し可哀想だ。
「机の引き出しにでも入れておくか……」
机の上に置いていくより、引き出しに入れておいた方がいいような気がした。
何となく。
隠すわけでもないし、保存するわけでもない。
本当に、何となくだ。
丁寧に手紙を畳んで、古風な封筒の中に戻す。
封は切れているので、もしステラさんがこれを見付けても僕が一度読んだ事は伝わるはず。
彼女も安心するだろう。
「……」
もし、彼女がこれを見付けたら……。
その可能性に気がつくと、返信を書いておいた方がいいのか? とちょっとばかり悩んだ。
どう始める……?
拝啓……ここからスタートすると硬すぎるか。
ユーリです、でいいか。
ステラさん。お手紙ありがとうございます。
状況が色々わかりました。助かりました。
ミナレットに関する話しは嘘です。
あいつは血も涙も無い殺人狂です。
でも、ロジェとの戦いで僕を助けてくれた事だけは事実です。
そこだけは彼女の妹さんに感謝を伝えてください。
それにしても、魔法を習っているなんて凄いですね。
少し憧れます。
僕も炎とか雷とか手から出してみたかったです。
そういうのに憧れる時期ってありませんか?
僕にはありました。
今となってはそれ以上の力を手に入れたので、どうでもいい事ですが……。
申し訳ありません。別に魔法を下に見ているわけではありません。
憧れを失ったというだけです。
普通の人間でありながら魔法を使えるステラさんは凄いと思います。
これからも頑張ってください。
この世界を僕の分まで楽しんでください。
……ここまで文面を考えたところで、気付いてしまった。
僕には魔法が使えないから、これを書いたところでステラさんは読めないだろう。という事に。
魔法を使えば異国の言語でも読めたりする可能性はないでもなさそうだが……。
やめておくか。
と言うか、書けない。
机の引き出しを開けてみたが、ペンなどなかった。
血で書けない事も無いが、そうすると見栄えがかなり悪くなってしまう気がするのでやめておく。
返事を書けないのはステラさんに対して少々申し訳なく思うが、これでは仕方がない。
僕は手紙を引き出しの中に置いて、ゆっくりと閉めた。
これでいい。
これで終わりだ。
この部屋でやるべき事は。
最後に一度だけ服装の点検をした。
不備は無かった。
「そろそろ、行こうかな」
深呼吸を、一つ。
「……よし」
覚悟は出来た。
いや、そんなものはとっくに出来ていた。
アルザギール様の為に戦うと決めてから。
アルザギール様が死に向かうと決意なされてから。
その時に、僕も死ぬ覚悟を済ませた。
後は、それを受け入れるだけだ。
アルザギール様と共に。
そうして、僕はドアを開けて、自室から出たところで——
「あら? もう行くのですか? ユーリ」
「えっ!? アルザギール様!?」
お屋敷にいると思っていたアルザギール様が、廊下に立っておられた。
「アルザギール様……ど、どうしてこのようなところに……?」
「思い出を振り返るわけではありませんが、最後なので、屋敷を見て回ろうと思ったのです。それで、ここにも寄りました」
「な、なるほど……そういう事でしたか……」
正直予想外の出来事である。
ぎくしゃくと変に頷いてしまっている。
しかし、本当に意外だ。
共回りはいない。
いつも側にいる隊長も、今はいない。
アルザギール様お一人である。
「どうしました? ユーリ」
「あ……いえ。アルザギール様がお一人で出歩かれているのは、珍しい事ですので……驚きました」
「最後ですから」
繰り返し強調される最後という言葉。
それが耳に入る度に、ああ、もうその時が来たのだな。来てしまったのだな。と否応なく思わされる。
視線が下る。
アルザギール様が歩くべきではない、くたびれた床が目に入る。
その先にある、麗しいつま先も。
清と濁が混在している光景。
と、その清らかなものが不意に遠ざかった。
軽やかに踵を返し、僕に小さなお背中をお見せになり、歩いていく。
とん。とん。とん。
僕達が歩く時は違って、床が、ぎしぎしと苦しい呻きを上げていない。
アルザギール様に踏まれる事に歓喜しているのである。
流石である。
流石はこの世界そのものであるアルザギール様である。
床さえも手懐けておられる。
などと心底感心していたところ、
「ユーリ? 何故立ち止まっているのですか?」
アルザギール様がこちらを振り向かれた。
「まだ部屋でやる事がありましたか? もしあるのでしたら、私は下で待っているので」
「いえ、何もありません。やるべき事など、何も。何もありません。すぐにそちらに参ります。お心遣いありがとうございます。アルザギール様」
即答した。
扉を閉めて、早歩きでアルザギール様の背後に控えた。
「どちらまで行かれますか?」
「日当たりの良さそうなところに」
「ご一緒させて頂きます」
「はい。よろしくお願いします」
心地良いやり取りであった。
いつもやっているのに、いつも新鮮に感じる。
心が落ち着いた。
とても。
これから死ぬというのに。
何も気にかける事はなくなった。
僕はアルザギール様のお傍で、アルザギール様と共に死ぬ。
これ以上に幸福な事があるだろうか?
いや、無い。
あるはずがない。
僕はそう思っている。
満足だ。
この世界で吸血鬼になって、戦って、戦って、戦って、戦って、戦って……辿り着いたところがここで良かった。
感謝します。アルザギール様。
僕を助けてくれた事に。
あなた様の全てに。
「行きましょう、ユーリ」
「はい。アルザギール様」
僕達は歩き始めた。
最後の時に向かって。




