番外編 明美のやり過ぎ?4
1か月後
九州航空発動機の工場に三菱と中島、川崎の各企業の工場から集められた数十人の見学者がいた。
工場の案内をされて、全員が戸惑うことばかりだった。
なぜなら、工場内は明るく、材料に製品はしっかり整理整頓されており、工作機械も均等に置かれ、
通路は広く取られてて、清掃が行き届いており、汚れ一つない明るい工場内だった。
見学に来る前に大掃除して、体面を整えたような感じではなく、日頃から清掃にしている綺麗さだった。
工作機械も、見たことのない形をしている物が多く、最新型の機械ということが一目見るだけで解った。
それよりも驚いたのが、働いている工員は、女性が多く男性の数が少ない事だった。
その女工さんに質問すると、淀みなく答えか帰ってくる。少し専門的な質問でも即答した上で、質問者が理解できない専門的な回答して来ることも。
一通りの見学を終え、会議室に集合した見学者たちに質疑応答の場が与えられた。
工作機械の質問に関しては、国内の数社に協力してもらって作った工作機械であることが紹介され
そのメーカの案内書を手渡された。
質問の中での最大の関心ごとは、従業員のことだった。
「女性が多く作業されていましたが、あれであの精度の製品が出来るのですか。」
「出来ますよ。もしかして、女性は出来ないと思いでしょうか?」
渡部社長が返答すると、白髪混じりの初老の男性が不満そうに
「そうじゃないけどよぉ、俺たち職人からしたら、なんで女なんだ?男はいないのかよと思ってな。」
「いますよ。我が社の優れた職人は試作工場に行ってるので、この量産工場にはあまりいないのですよ。」
その言葉で、
「おいおい、俺達は、会社からあんた所の職人技を見てこいと言われてきたんだ。女子供の仕事を見ても価値なんかねぇだろうよ。お前のところの職人に会わせろ!」
と声を荒げたが、渡辺は
「何を言ってるのですか?あなた方は、我が社の発動機を作れなかったのでしょ?彼女達は作れるのですよ。このことがどうゆう事か解りませんか?」
「俺達は女子供以下ってことか!」
馬鹿にされたと感じた男性は立ち上がったが
「お座り下さい。そこまでとは言いませんが、我が社ではあなた方にお渡しした同じ図面で、ここに居る女性ならば問題なく作れるのですよ。」
「舐めてんのか!工作機械が良いだけじゃないか!」
「じゃ、工場見学せずに、新しい機械を入れてもらって、作ったらいいじゃないですか?どうなんです?」
「それが出来りゃ苦労はしない。」
「でもどうして、こんなに女性を雇っているのですか?男性を雇った方が製品を作るうえで、工場的にはいいのでは?」
背広を着た1人が聞くと
「あの彼女達は、夫や親が炭鉱夫だったのですよ。炭鉱事故で大黒柱が亡くなったり、大怪我で働けなくなったので、働きに出た女性達なのですよ。我が社は、その女性達に仕事を与えたにすぎないのです。
多少は教育もしましたがね。皆さんまじめに働いてくれて、我が社としては大助かりなのです。」
危険と隣り合わせの炭鉱で働く鉱員の妻や娘を、九州航空発動機が雇い入れたのは、7年前からだった。
一家の大黒柱を失った母子家庭の劣悪な家庭環境を、明美が見て、ついでに工場の社員を集めるのに、
これからの世界情勢を考えて、召集令状1枚で兵隊に取られてしまう危険性のある熟練男性社員のことを考えて、女性の雇用に力を入れた結果だった。
その為に、大阪に作った高等職業訓練校の九州分校を作り、一度入学させてから就職させる方法を取ったのである。
授業内容は大阪校に準じており、機械加工技術以外に、高等中学校並みの学術と、このご時世に
外国語も勉強させた為に、地元警察や軍部からは敵性教育をしているとの誹りを受けたが、明美が
「彼を知り己を知れば百戦殆うからずって言葉知ってる?精神論で勝てる相手とは違うんだぞ。相手のことも知らずに勝てるなんて、寝言は寝てから言え!!1回世界を見て来い!このボケ!」
などと言って、公安警察や憲兵隊のお世話になるが、なぜか連行されてもすぐに釈放されて帰って来る
警察内や軍部では、上司に詰め寄り
「なぜ逮捕しちゃいかんのです!」
と言う刑事や将校が居たが、明確な答えを上司がするわけもなく、苦々しく
「上からの指示だ」
と言うしかなかった。
これらの騒動で、明美は平丘雷鳥と友人となるが、雷鳥は
「明美は素晴らしい女性であるが、友人を選ぶべきである。さよりという守銭奴とは、速攻に縁を切って欲しいものである。」
と言葉を常々口にしてたと言う
見学に来た職人達が、どうしても女性のことを侮っているので、九州航空発動機会社の工場内で、
見学した希望者を工作機械に触らせ、実際に部品一品を作らせて、女性工員との技術の差を見せつけた。
質疑応答の時、女性を侮っていた何人かの職人気質の男性は、さすがに、同じ工作機械、同じ材料で作った物で比較されて、打ちのめされた様子だった。
渡部社長は工場見学者達に対し
「これでお解りかな?女性が劣っていると決め付けないでもらいたい。あなた方も優れた職人なのですから、腕を磨いて彼女達を追い抜いて頂きたい。」
と、言葉で締めた。
各企業に戻った見学者達は、ある者は更なる技術の向上を目指して研究し、またある者は、設備投資を会社に訴え、さらに別の者は、工場見学に行けなかった社員に己の持つ技術の伝授を始めた。
各企業は、自社設備の老朽化を目の当たりにして、急遽設備投資に力を入れて、旧式な工作機械を順次入れ替えていくことにした。
そのため真っ先に悲鳴をあげたのは、九州航空発動機会社に紹介された各工作機械メーカーだった。
九州航空発動機会社と同じ工作機械を早急に頼む、と大小様々な企業からの短納期による注文書が大量に舞い込み納期調整に走り回った。
しかし、納期内に全ての企業に、工作機械を納める事は出来ないので、工作精度は変わらないが、自動送り機能や
回転数変速機の簡略化等機能を減らす事により、納期の短縮化を実現した。
この事が量産工場の製造過程に変革をもたらした。
今までは、1つの加工品は全ての工程を1人の職人が受け持ってしていたが、工作機械の刃物台が小型化したことで、
単能機に近い仕様となり、生産性を上げる為に1台の工作機械は、1ないし2つまでの工程までとし、
工作機械の数を揃え、数人で工程管理することによって、製品の作成をすることになった為、
素人工でも安定した精度の部品を大量に作れる体制になってきた。
それにより、大戦末期の召集令状による徴兵で男性社員が出兵する事により、職人不足で学徒動員、女子の臨時工員時でも、生産性を落とさず精度の維持が出来ることになった。
今までの職人には、全ての機能が付いた工作機械をあてがい、試作品作成や高度技術が必要な製品作成に従事させ、技術の向上と後進の育成に務めさせた。
この工作機械の運用方法の違いから戦後、少品種大量生産の東日本、多品種少量生産の西日本と言う感じの住み分けに成って行くことになる。
3ヶ月後、三菱の愛知工場で新型の発動機が完成した。
栄型発動機をベースに、圧縮率を上げ、排気タービン式過給機により過給圧も上げ、軸の最高回転数まで上げる事により
出力を倍近く上げる事に成功した、栄33型と名付けられた新型発動機だった。
同時期中島でも、全ての改修が終わった誉23型発動機の生産が始まった。
この2機種の発動機に共通しているのは、どちらも気化器の代わりに、燃料噴射器が搭載され吸気量感知器による異常燃焼防止機能が付いた発動機だった。
この結果、三菱は契約により九州航空発動機会社より、更に高性能な発動機の図面を入手することが出来た。
しかし、その発動機の量産には、生産背景に技術的な問題もさることながら、戦況が変化したため順調にはいかなかった。
まず生産背景の変化は、栄33型の発動機の性能が極めて良く、いろいろな機種に使用されたのである。
基本的に、零戦の機体に発動機を交換しただけの戦闘機『陣風』もその一つで、零戦の機体の生産工程を見直し、
手間のかかる沈頭鋲の使用を止め、鋼板溶接による生産工程に変更。
機体の重量は増加したが、これまでの工程の半分で作ることが出来るようになった。
遠くから見れば、零戦21型そっくりな機体だが、栄33型発動機の高出力のおかげで速度、上昇力、
防弾板増強による生存性向上等、全ての上で零戦21型を上回っており、アメリカからは新型の零戦と認識されていた。
烈風も誉型発動機の性能が安定して、本来の性能が十分発揮されていた。
その中三菱が譲り受けた、九州航空発動機製の高性能発動機は、2000馬力の高出力な為に、軍からの要求が高くなり、機体設計を一からやり直しになった。
その為、新型機体の開発が遅れることに。
次に戦況の変化とは、初戦の日本海軍奇襲により基地機能を消失したハワイ真珠湾軍港を、復旧復興するためにアメリカ本土より向かわせた輸送船団が、日本の潜水艦からの魚雷攻撃を執拗に半年間も受けたために、物資の搬入に時間がかかり、
基地の回復や燃料タンクの再建に手間取り、太平洋の制海権の奪回に手こずっていたアメリカが、
それならばと物量に物を言わせ、ヨーロッパでの戦いが終息したのを機会に、ヨーロッパからスエズ運河を使いインド洋に進出、イギリスのインド駐留軍を伴って、インドから南西諸島方面に攻撃を開始した。
それと同時期に、ベトナムに荷揚げして、陸路にて中華民国に進出を果たす。
蔣中正の率いる中国国民軍との連携し、日本陸軍と壮絶な戦闘の末、重慶を完全占拠することに成功すると、さらに戦略爆撃機を中心とした航空部隊を大量に送り込み、南京にまで進攻し、日本陸軍を北京まで追い返し、南京近郊に広大な戦略爆撃機の航空基地を建設。
日本本土攻撃の為に、高度1万メートルを越える高高度を高速飛行できるB29重爆撃機と、護衛としてP38重戦闘機の合わせて100機を越える編隊を、連日日本上空に送り込んだのであった。
当初日本側は、主力の戦闘機と言えば海軍の零戦や陸軍の隼等、高高度戦闘に耐えうる戦闘機が少なかった上に、
広域レーダー警戒システムも無く、爆撃機が日本本土に近づいてきてから迎撃に向かうため、洋上で迎撃しきれず
長崎、佐世保から瀬戸内の主な軍港に工業地に始まり、中部地方からついに関東地方にかけて空襲を受けたために、
空襲に備え重要生産工場を、東北地方に工場ごと疎開させると言う事情があり、新型の発動機量産にこぎ着けたのは、停戦条約締結半年前だった。
それでも、日本海軍は栄33型発動機を搭載した高高度艦上戦闘機『陣風』に、高高度重武装双発局地戦闘機『閃電』の開発を成功させた事により、空襲の被害を押さえることに成功
日本陸軍も『隼』の武装強化改修を取り止め、高高度戦闘できる重武装四式戦闘機『疾風』及び三式戦闘機『飛燕』の量産を命じた。
それ以外に、洋上にて警戒網を敷き早期発見迎撃させる為、南方諸島に出動していた軽空母『隼鷹』、『飛鷹』を日本海に呼び戻し、
訓練空母『鳳翔』を大型航空機の運用が出来るように改修することに。
それにより、日本上空に飛来するアメリカ軍に対して迎撃体制が整い、空襲被害は減少させる事に成功した。
ただし、日本側も大事な搭乗員を多数失い、搭乗員の育成が急務だった。
そんな戦局が変わり行く中、明美は福岡が空襲されて、九州航空発動機会社にも数発爆弾が落とされたが、
幸い滑走路に大穴が一つ出来たぐらいで、工場に大きな被害は出なかったものの、開発中の自分専用機が
破壊される危険性があったことが許せず、関係会社に協力を呼び掛け、高角砲の砲弾の開発研究をさせ、
1ヶ月という短期間で真空管に代わる半導体で出来た近接信管を搭載した砲弾の開発に成功させた。
その新型砲弾を打ち出す新型長尺10センチ高角砲は、高度9000mの有効射程距離を誇り、銀河社寄贈という名目の元、10門 砲弾2000発が陸軍の正規採用前に、長崎から福岡を中心に配備された。
新型高射砲の初陣での威力は凄まじく、7000mの高高度では、日本の戦闘機が碌に戦闘機動が
出来ないのを知って、我が物顔で悠々と飛行していたB29が次々玄界灘に墜ちて行った。
その戦果を見て日本陸軍は、正式に採用を決め量産を命じ、砲が出来次第次々と各拠点に設営していった。
日中爆撃の被害が増えてくると、アメリカ戦略爆撃隊は夜間爆撃に変更してきた。
レーダーによる対空警戒が貧弱な日本では、夜間灯火規制をして市街地に爆撃を受けないようにするしかなかった。
この頃配備された『陣風』『閃電』の奮戦も、空しく夜間用に用意されていたアメリカ戦略爆撃隊は、機載レーダー連動型銃座及び夜間戦闘機『P-61 Black Widow』にて、日本の迎撃機に対応していた。
明美は次に夜間爆撃に対応する為に、福岡にある皿倉山山頂に大型対空警戒レーダーを設置。
これには、軍部が
「敵に電波を逆探知され、敵機を本土に誘導することになる。」
と、強硬に夜間の使用を認めなかったが、明美は
「来たら高射砲で叩き落とせばいいだけのこと。ましてや、敵機はレーダーに向かって来るのなら、飛んで火に入る夏の虫状態じゃない。」
と反論。
「夜間見えない高空の敵機をどうやって落とすんだ!」
「なんで肉眼で探さないといけないの?見えてるじゃない。レーダーで見つけたら、そのまま狙い撃ちしたら簡単に当たるから。」
「そんな事が出来るわけないだろう!」
「出来るわよ!海軍さんは出来て、陸軍は出来ないのは、おかしいでしょ!」
「出来ると言うなら、やってみろ!」
「よし!言質を取ったわよ!好きなようにやらせてもらいます」
と言って明美は自重と言う言葉を忘れ、浪速電気精密加工会社にて開発中のダイオードやトランジスターを多用した、日本初レーダー連動型防空網の構築をしたのであった。
指令部は博多に置き、メインの皿倉山レーダーサイト以外に、対馬島に同規模のレーダーサイトを設置
二点観測による測量精度を上げ、各高射砲座にレーダーから導き出した敵機の未来予想位置を送信
砲手は、そのデータに合わせて射撃する。
ただ、撃った砲手は何の手応えも無かったと言う。
しかし大方の予想を裏切り、夜間爆撃に飛来した敵機の約20%以上が、陸地にたどり着けず曝散した。
しかし残りの敵機は、侵入を許してしまったが、照明弾を高射砲で高度8000mまで打ち上げ、迎撃に上がった友軍機の支援を行った。
アメリカ機は、有視界戦闘されては、これ以上の進軍は危険と判断し、爆弾を海上投棄して引き上げた。
夜間のレーダー連動射撃の有効性が認められ、早期警戒網と迎撃網の構築が日本国内で急ピッチに進められた。2ヶ所のレーダーサイト以外に、長崎五島列島、魚釣島、沖縄本島、気象台の有る沖ノ鳥島、小笠原諸島の父島、硫黄島にもレーダーサイトを施工設置した。
これら全て有限会社銀河社寄贈と言う常識はずれな対応だった。
この戦果に、海軍も電探による組織的な索敵や攻撃に重きを置くことになった。
それまでは、精神論が根強く肉薄して敵艦を葬るのが一般的な教練としていたが、インド洋上の敵艦が電探による索敵と照準射撃をしている為か、艦隊戦ではこちらが肉薄する前に、敵弾が初弾から挟差するほど命中率も高く、損傷艦増加に伴い喪失艦も増加しており、早急な対応が迫られていた。
航空機による対艦戦も、敵艦の対空機銃の充実と近接信管の砲弾が標準化され、初期ほどの戦果があげれなく、技量の高い搭乗員が次々と散って行った。
搭乗員を失わないために、開戦初期の機体は全て更新され、防弾性を高めた攻撃機は『流星改』、戦闘機は『烈風』が空母に配備されていった。
海軍も遅れ馳せながら近接信管の砲弾を艦隊に導入して、対空兵装強化に努めた。
重巡洋艦以上の艦は、速やかに電探の改修及び対空強化改修され、シンガポール方面へ派遣され、遠征先の艦隊は、改装済艦隊が到着次第内地に戻り改装工事に着手していくことに。
アメリカも真珠湾の復興がほぼ済、西海岸にいた太平洋艦隊をハワイに移動させ、インド洋に派遣した東洋派遣艦隊と両面で、日本軍を追いやる作戦を立てて実行に移す準備が進められていた。
また、中国国内に進出を果たしたアメリカ陸軍による、北京、上海への総攻撃の準備が進められていった。
その中オーストラリアは、日本との不可侵協定により、連合軍に対してこの大戦には不参加を表明した。
中国国内の日本陸軍は、アメリカのM4戦車と対戦車戦を行うには、劣勢な九七式中戦車しか所有しておらず
早急に攻撃力の高い四式戦車の投入を求められた。
しかし、車載砲のトラブルが続き四式戦車の開発が遅れるなか、長尺10センチ高射砲を戦車砲に転用する案が浮上。
日本国内ではなく大陸を戦場とするならば車重の規制をしなくてもいいとこから、長尺10センチ高射砲を戦車砲に転用した重戦車の開発を始めた。
動力は三菱の開発した600馬力の排気タービン搭載12気筒V型ディーゼルエンジンを搭載し車重は43トンになった。
車載砲に転用した長尺10センチ高射砲の成績は良く、M4戦車に撃ち負けないように鋳物砲台を圧延鋼板の溶接のものに変更。被弾傾斜角も変更して被弾しても被害を減らせるようにした。
試験結果は、良好で唯一問題になったのは、車重の重さだった。
当時の日本には、その重さを運べる揚陸艦がなかった。
それを解消したのは、木津川造船所の開発していたカーフェリーだった。
大阪から九州間でトラック運送をしていた、なにわ汽船所有のカーフェリーを利用し、戦車を名古屋港からと大陸に向け出港していった。




