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帰るまでが任務です(仮)  作者: ねむり亀
第2章
72/144

番外編 明美のやり過ぎ?5

戦争って、終わらし方が難しいです。

その為アップが遅れてしまいました。すいませんm(__)m


今回の方法は、ちょっと強引ですし、国が変わってしまった(^^;

そこのことは許してくださいね。フェクションですし(^^;

中国大陸、青島(チンタオ)に上陸した戦車は、30両、支援車両を含め50両で、アメリカの戦車隊に対抗するために配備された。


 あとウラジオストックに5両の戦車が陸揚げされ、ハルピンに配備された。

これは不可侵条約を締結したとは言え、不可解な動きを見せるソビエト軍に対して牽制の意味で、

一部の有識者の反対を押し切って、満州国内に送られた。



 徐々に日本に対して、アメリカの包囲網が構築されつつあるとき、アメリカ東海岸のチャールストンで反戦運動が始まった。


これは、ヨーロッパ戦線が終息し、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ等ヨーロッパ諸国が、

戦後復興を始めているときに、アメリカからヨーロッパ戦線に出征した、アメリカ大西洋艦隊をはじめ、欧州支援アメリカ陸軍の全ての部隊がそのまま、東邦派遣部隊としてアジアに転戦したことに、夫や息子の帰りを待つ家族によって、抗議運動として始まった。


理由は、

我がアメリカ国民は、ヨーロッパの平和の為に出征したのであって、ヨーロッパ戦線が終息したのならば、部隊は速やかに本国に帰還するべきである。

改めて東洋に出兵するならば、再度志願兵を募るべきである。


 この運動は、戦争特需で国内の経済は潤っていたが、長引く戦争で国内に厭戦感情がアメリカ庶民の間に広がっていたのも原因で、瞬く間にアメリカ全土へと広がって行った。


 そこに、現在進行している戦争はアメリカ軍だけで、ヨーロッパ連合軍がほとんど参戦していないことが、ニューヨークタイムズにより報道されると、運動は加速し各地でデモが行われるようになった。


 この戦争の是非を問う集会も各地で行われ、中国戦線にて負傷し、治療の為に帰国した帰還兵を招いての集会も行われた。


 そこで話された帰還兵の話は、遠く未開の地で高熱が出る原因不明の病気に劣悪な医療環境、補給路が伸びきって兵站が滞り満足に食事が出来ないなど、兵士は将校も含め誰もが、早くアメリカに帰りたいと願っていると、かなり誇張されて語られていた。


 実際前線では、航空部隊はともかく陸軍の歩兵部隊は、疲れが目立ちだしていた。


 祖国から遠く離れまだ文化の近かったヨーロッパとは違い、文化のまったく違うアジアでの戦いは、

高温多湿なアジアの気候もあって、ヨーロッパ戦線と思って参戦してきたのに、いつのまにか泥だらけの蒸し暑いアジア戦線に投入されて、いつ終わるかわからない戦いに駆り出され、兵士達に精神的な疲労が蓄積して、厭戦感情が生まれて来ていた。


 ここに来て、アメリカ軍が日本軍に勝った後の中国を誰が支配するかで、蒋介石率いる中国国民軍と毛沢東率いる革命軍との足の引きずりあいが顕著になり、アメリカ軍内部にも混乱が起こりだしてきていた。

 追い打ちをかけるように、数は少ないが日本軍の新型戦闘機や新型戦車などの兵器が前線に投入され、アメリカ軍の被害が増大した。

これは、国民軍と革命軍が、戦後の覇権を争うのに戦力の出し惜しみをし、なおかつ命惜しさに兵士が前線から居なくなるという事態になり、絶えず矢面に立たされたアメリカ陸軍の被害が増大する状態になった為だった。


このために、中国国民の為になぜ我々が死ななければならないのか?と疑問を持ち始めたアメリカ軍の下級兵士の士気が落ち、

作戦行動も、中国軍の行動が当てにならないために、破たんが起き始めていた。


 これは陸軍だけではなく海軍も問題視されだしてきた事だった。

それは、東シナ海に海軍を派遣したい為、アメリカ軍としては是非とも欲しい拠点の一つに上海があった。

 上海には港があり、日本を攻撃するだけではなく、戦後アジア諸国に対してアメリカの支配力が増す為、戦後復興で国内の整備に追われているヨーロッパ諸国がアジアに覇権を示す前に、アメリカがアジア諸国を押さえるのに重要な地区だった。


しかし、小型空母の隼鷹、飛鷹の2隻を中心に構成された、東シナ海防空艦隊がかろうじてではあるが

上海上空の制空権を日本が握っていたため、航空機支援が出来ず、中国軍との作戦行動の連携が思うように取れないアメリカ軍は、単独で上海攻略を行ったが困難を極めていた。


この艦隊を排除する為に、アメリカ東洋派遣艦隊が拠点としているシンガポールから出撃するが、装備を改修した日本の巡洋艦に阻まれ、インド洋上の海戦のようには長距離レーダー射撃による、

一方的な攻撃が相手からもされるようになり、少なくない損傷が艦隊に出るようになり、シンガポールから北上できないでいた。


おかげでと言うか、日本の中国駐留軍は少ない兵でも上海を守り抜いていた。


この為、アメリカは中国戦線において膠着し泥沼化の様子になって行った



 日本もこの時期、兵士の不足による深刻な問題が起きていた。


 特に不足しているのは攻撃機などの搭乗兵に水兵だった。


 鉄砲さえ撃てれば頭数に数えられる歩兵と違い、水兵はインド洋にて主力艦隊の3分の1が壊滅するという事態に陥って、操艦要員が激減してしまっており、新造艦を動かすには絶対数が足りない事態に成りつつあった。

さらに搭乗兵は飛行機の発着訓練をしなければ、戦闘機どころか練習機の複葉機さえ飛ばすことが出来ない。


 初戦連勝してきた猛者が、日増しに激しくなる対空砲火を前に、次々と海に散ったため、国内に残る雛ともいえない若鷲を投入せざる得ない状況だった。


 これは、海軍だけの問題ではなく陸軍も抱える問題だった。

中国に進出したアメリカ軍との重慶攻防戦から始まり、南京上空戦を精鋭の隼戦闘隊をもって対抗したが、高高度戦闘を仕掛ける物量作戦に屈した陸軍航空隊は、

疾風に飛燕、新型の五式戦にて、北京上空の制空権をかけた空中戦が、毎日のように繰り返されていた。

そのため、航空兵の増強が急務だった。


 この為日本政府は、海軍と陸軍の航空隊を一つにして、新たに空軍を創設することにした。

これは、教官となる熟練飛行士の不足による教練不足を解消するために、陸海軍別々で教えるよりも一つに纏めた方が、教官の数が少なくて済み、尚且つ使用機材も一元化でき、費用的にも安くなるということに基づいた苦肉の策だった。


 教習機の選定には一悶着あったが、三菱の新型発動機を搭載した、新型戦闘爆撃機『蒼天』が完成したため

この機体を空軍機とし、教習機も蒼天の複座機を作りそれで教習することに。


 この戦闘爆撃機『蒼天』は、4年前、明美と拓哉が空母飛龍に降り立った機体をベースに、九九式参号20㎜機関銃2丁を装備し、航空魚雷1本、又は800キロ爆弾1発、もしくは500キロ爆弾2発 または250キロ爆弾4発 又は60キロ爆弾10発装備出来る機体で

運用も戦闘から雷撃に急降下爆撃まで対応させた万能機だった。

蒼天に搭載されている九九式参号20㎜機関銃は、銃身を長銃身にして射程距離を伸ばし、ベルト給弾式により、1丁当たり400発携行出来るようになっていた。


攻撃力、実用高度、速度も全てにおいて、従来機より向上し、アメリカ軍機と対等以上で戦える機体だった。

その様な高性能な機体を、既存の航空隊が欲しがらない訳もなく、仕方なく三菱と中島の生産工場は、

烈風と流星改の生産を打ち切り、全て生産ラインを蒼天に切り替えた。


これにより、多種多様な機体が有った部隊が減り、整備兵が思い違いによる整備不良を減らせることに。

同一機体の為、部品のやり取りも簡単に出来ることから、機体稼働率の向上に繋がっていった。


 日本の防空は、アメリカ軍機より高性能な機体を投入することによって、未熟なパイロットが戦線を維持出来ている状態だった。




その頃、九州航空発動機社の格納庫に、九州航空発動機製の機体が一部の古参社員だけに、御披露目されていた。

その機体は、先尾翼のエンテン型と言われる先進的な機体だった。


「やっと完成したわねぇ」

明美の心は、機体を見つめて感無量な気持ちに支配されていた。

それは、九州航空発動機社に長年勤めている社員全てに当てはまっていた。


「お嬢、テストフライトしますか?」

渡部社長が、聞くと満面の笑顔で

「当たり前じゃない!!」


九州航空発動機会社呼称『震電』が、格納庫より滑走路に引き出され、発動機に火が入った。

飛行服に着替えを済ました明美が、操縦席に座り計器チェックを開始

アイドリングが安定してきて発進可能に

地上要員が車輪止めを外し、機体から離れ発進可能の合図を送る。

明美は地上要員に合図を送ると、スロットを徐々に開けていき、発動機が唸りを上げて回転数が上がっていく。

車輪ブレーキを解放すると、機体は滑らかに滑走路を走りだし、速度を上げていく。

滑走路を半分を越えたところで、一度バウンドすると機体は、浮き上がりそのまま上昇していく。

地上にいる者、皆、帽子を振る者、手を振る者とそれぞれだったが、喜びを現していた。

主脚を出したまま、ゆっくり高度50m辺りを保ったまま、工場敷地内を二回ほど旋回すると

主脚を引き込み、良く晴れた青空を目指し、更なる高みへと上昇していく。


 30分後、滑走路に着陸し格納庫に帰って来た震電から降りた明美は、真っ先に渡部社長に飛びつき抱きしめた。

「ありがとう!!」

「*&#%@♪※*|∥‐/\@」

突然の事で、年甲斐もなく顔を真っ赤に染め上げ、あたふたする渡部社長。

周りから祝福の言葉と共に、冷やかしの言葉。

明美は、渡部社長から離れると、そこにいた社員一人ひとりに感謝の言葉と共に抱きしめた。


「みんな!ありがとう!!愛してる!!」


九州航空発動機社製『震電』

発動機 試作 K183型発動機 (強制空冷星形複列18気筒 排気タービン式過給器3基 )

離昇2800馬力

と言う、発動機を後ろに積んだ推進式飛行機だった。


 これだけの大出力を発生させるために、1気筒づつ燃料噴射装置が付けられて、今でいうマルチポイントインジェクション方式を採用しており、排気タービン式過給器も3基付けられており、今で言うトリプルターボと言える内容だった


 この大出力を余すことなく推力に変換するプロペラは、九州航空発動機が独自開発した定速6翅プロペラで、電動式可変ピッチプロペラを採用していた。


明美は、空襲の合間を縫って飛行を楽しんだ。


 その独特な形の機体が、度々九州の空を飛んでいて、迎撃に上がっていた戦闘機群を易々と振り切っていると、高性能な機体だということが軍にばれるのは、必然だったともいえる。


 ほどなくして、軍からの査察を受けることになった九州航空発動機社だが、用意周到に別の機体を見せて、明美専用機の隠蔽に成功した。


 軍の査察官に見せた機体は、姿かたちは全く同じものだが、搭載している発動機が別物だった。

それは、蒼天に使われている発動機だった。

 三菱や中島が現在生産をしているが、元々九州航空発動機社が開発した発動機でもあり、この工場にあっても不思議ではなく、元々2000馬力を発生していたので、誤魔化すのにはちょうどいい発動機だったのである。

 しかしプロペラは定速6翅プロペラではなく、九州航空発動機が独自開発した、電動式可変ピッチプロペラの定速4翅プロペラを採用していた。

それでも速度は712km/hを叩き出した為、急遽武装した試作品を作成するように命令が下った。


武装は五式三十粍固定銃を2ないし4丁装備するというものだった。


 九州航空発動機社は、どうせ4丁積めって言わるるだろうと想定して、機首に4丁装備した機体を用意した。

 新設された空軍にて初の評価試験機となった『震電』だが、結果は航続距離の短さを問題されただけで、その他は優秀と言わしめた。

ただ、五式三十粍固定銃の携行弾数が、九九式参号20粍機関銃の400発に対し70発だったため、量産するにあたって、機首に五式三十粍固定銃2丁 九九式参号20粍機関銃2丁計4丁とするように改められた。


 日本空軍名称 迎撃専用機『震電』と名付けられ、すぐに量産の命令が出されたが、生産するのは九州航空発動機社1社だけが担当となった。

他社は『蒼天』の生産に追われており、空襲の被害もあって『震電』を生産できる余裕がなかったのである。


『震電』の量産が始まったのは、照和20年6月だった。


 この時期、アメリカでは反戦運動が活発化して、政府としても無視できるような状態ではなくなってきた。

 特に東海岸地区から中部地区までのデモが激しく、政府が真珠湾攻撃での屈辱を訴えても、東海岸地区の住民としては関係なかった。

なぜなら、東海岸地区から出征した兵士のほとんどが、ヨーロッパ戦線に参戦しており、ましてハワイ島に攻撃された時は、ほとんど大西洋艦隊や東海岸地区の陸軍兵士は参加してなかったので、


『我が国に銃を突きつけた、日本に対し報復をしなければならないが、ヨーロッパ戦線が終了したのならば速やかに兵(息子や夫)を帰還させよ。我が国は安らかな家族の幸せをも奪い取るのか?』


と言った考えになってしまっていた。


 確かに政府も、これほどヨーロッパ戦線で戦った兵士たちを、長期間転戦させるつもりも無かった。

戦線がアジアに移ってしまい、連合軍としてヨーロッパ戦線を共に戦ったイギリス、フランスなどの国は、国内の戦後復興が最優先であり、東洋の僻地にまで自国の軍隊を派遣する理由が無かった。

アメリカが協力を呼びかけても、色よい返事は来なかった。


日本総攻撃の包囲網は出来つつあるが、

インド独立運動が勃発、イギリスインド駐在軍は、インド国内の暴動鎮圧に中国への派遣をやめ、インド国内の治安維持に努めることに。

イギリス陸軍がインドに移動したのを見てたかのように、ベトナムでも独立運動が勃発した。

それによりアメリカ軍のベトナム経由の補給物資が滞るようになり、空爆に必要な弾薬が不足するようになった。それに伴い中国国内での中国軍(国民軍、革命軍)同士の小競り合いが頻繁に起きるようになった。

アメリカ東洋派遣艦隊が、再三の上海攻略失敗による、損傷艦の修復の遅れと補給品の滞り、

オーストラリア及びニュージーランド2国が国内港に、日本を含めた各国の軍艦入港拒否を表明、

この事から、補給物資入手先と考えていたアメリカ太平洋艦隊の兵站補給基地の貧弱さの露呈、

(この時期日本海軍はまだ、小笠原諸島に一式陸攻を含む航空隊と、沖ノ鳥島に軽巡洋艦を主体とする水雷隊を最終防衛隊として配置していた)

ここに来て無視できない問題点が、顕著になりつつあった。


それと大統領選挙の時期が迫ってきたことも、政府が焦る一因だった。

このままの状態が続けば、次の選挙は間違いなく、敗れてしまうだろうことが濃厚になってきた。


 では、総攻撃に着手したら選挙に勝てるか?それも答えは『No』だった。

なぜなら、例え総攻撃で日本に勝利しても、アメリカ兵が18万人以上死亡する恐れがあると試算されたからである。

これでは、勝ったとしても国民からは賛同を得られず、選挙には敗退してしまうことが予想された。

最悪なのは、勝てなかった場合だった。その責任は誰がとるのか?与党内での紛糾が続いた。


 この期に、政権野党は反戦運動に賛同を始め、与党に対しネガティブキャンペーンを始めた。

アメリカは国内情勢が激しく揺れ動き、大統領選挙も絡んで決め手に欠ける判断しか取れずにいた。


 日本政府も徐々に迫るアメリカ軍の包囲網に、焦りを見せていた。

まだ、南洋航路は寸断されておらず、石油や鉱物資源は南方より日本に輸入されていたため、

物資不足による困窮には至っていなかったが、人的被害が多く、徴兵にて働き手を失った家族が貧困に喘いでいた。

 多くの工場では、婦女子による女子挺身隊で工業製品の生産を行うしかない処も出て来ていた。

男子大学生も学徒動員による勤労、兵役に就くことで、体制の維持を図ろうとしていた


その国難の時、東郷首相が公務中に脳溢血で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

慌てて、急遽首相に任命されたのが、外交官でもあった篠原喜一郎であった。


 敗戦濃厚な国の後始末を押し付けられた篠原首相だが、外交官としての経験を活かし、各方面からの情報を分析して、

今なら、大統領選も絡んでアメリカが、休戦の申し出を受ける可能性が有ることを察知して、休戦についての話し合いの場を設けてもらえるように、オーストラリアに仲介を依頼した。


 それと同時に篠原首相は、講和条約を結ぶにおいて、日本としてどこまで譲れるかを、専門家を招いて検討を始めた。

決して無条件で負けたとは、国民には思わせなく、アメリカに勝ちを譲った感じでの講和条件の模索が始まった


照和20年9月8日

第1回休戦条約締結に向けての会合が、オーストラリア、メルボルンにて行われた。


この会合は照和20年10月20日までに合計4回行われ、休戦条約に調印することが出来た。


その休戦条約に示された1番大きな内容は

アメリカ陸空軍は、中華民国国内より照和21年(1946年)1月1日までに撤収を完了する

日本陸空軍は、中華民国国内より照和21年(1946年)1月1日までに撤収を完了する

の2点だった。

この撤退完了の確認は、オーストラリアとスウェーデンの2国が見届けることとなった。


 この休戦条約は、日本国内では弱腰外交と揶揄され、一部の国民や軍人が暴走しそうになるが、政治家が身を張って抑え込んだ。

アメリカでは、勇気ある撤退として英雄的判断と評価され、大統領の不信任が減りつつあった。


昭和21年2月10日

日米休戦条約締結


続いて、講和条約を結ぶための会合が行われた


しかし、物別れになってしまう。


 それは、日本側が譲歩する以上の要求を、連合軍としてこの世界大戦に参加していたヨーロッパ諸国がしてきたからである。


 そもそも、白人が黄色人種に頭を下げることなどあってはならないという驕った考えもあり

ヨーロッパ諸国は戦争復興の真っ只中であるからして、金はいくらでも欲しいし、戦後のアジア支配による貿易で優位に立ちたい

 日本という国を今のうちに叩いておかねば、アジア支配において障害になりかねない。

出来れば日本を植民地化したいと言う思いから、国力を割くための要求を押し付けてきたのである。


 これに対し日本は、戦争の原因について、冷静に分析した資料を提出して、日本としての最低限の

賠償を行うが、ヨーロッパ諸国全てに対して賠償を行う理由がないと反論


 調停国として、この世界大戦に参加していなかった中立国スウェーデン、スイス、チベット、ポルトガル等の国が第三国として、調停する為両陣営の意見供述を聞き、戦争の終結に向け協議をした。


 しかしイギリスとオランダは、早急にこの調停が終わる様に、第三国の代表に圧力をかけてきた。


 理由は、植民地支配していたアジアの国々が、この休戦条約中で両者の戦闘行為が停止している間に、独立運動が盛んになり、独立を宣言する国々が出てきたためである。

 特にガンディー率いるインド独立運動は、インド全土に広がりイギリス駐留軍も手に負えず、押し切られていた。

バングラディッシュ、パキスタンも同様に、独立を宣言

インドネシアが独立の宣言をすると、マレーシア、パプアニューギニア、シンガポールまでもが独立を宣言


 ここにきて、アジアの植民地がそろって独立を宣言し始めたのである。

このままでは、戦後の植民地支配が出来なくなり、国益に過大な影響が及ぶため、早急に実効支配を強めたかったからである


 ここで連合国側にとって思わぬことが起きた。

それは国際連盟の後を引き継ぐ形で新設された、国際連合の会議の場において、アジア全ての植民地の独立が認められたのである。


理由は、国連憲章の1条の文面にある

『経済的・社会的・文化的・人道的な国際問題の解決のため、および人権・基本的自由の助長のための国際協力』

と書かれていたことから、独立を認めないわけにはいかなかった。


 ましてや武力蜂起による傀儡政権ではなく、その地区の原住民が、人権・基本的自由を求めての独立の訴えを無視することは、出来なかったのである。


 これに慌てたのは、戦勝国と思っていたヨーロッパの国々である。

再度植民地を実効支配しようとすれば、植民地との戦争となりかねない、それでは自ら世界平和の為に設立した、国際連合の意図に反してしまうと言うジレンマに陥ってしまった。


 その様子を見ていた、アフリカ諸国も次々に植民地からの脱却を宣言し始めた。


 戦争で疲弊していた宗主国は、この植民地が独立してしまう流れを止めることは出来なかった。

手のひらから、富が零れ落ちていく感覚に見舞われたのは仕方がないことだった。


 しかもこの流れを見ていた第二次世界大戦の調停国は、日本が提出した供述書が核心を得ているのではないかと判断。

連合国側に日本が譲歩した講和条件を提案した。

 一刻も早く講和条約を結ばなければ、ますます国益に甚大な被害がもたらされる恐怖で、ヨーロッパ諸国は調停国の提案した講和条件を承認してしまう。


 結果、日本は、中国及び東南アジアからの軍の撤退、及び領有権の破棄、朝鮮半島の軍駐留の放棄、軍備縮小

ヨーロッパ諸国は日本に対して賠償金の非請求で講和条約が調印してしまった。


 これに焦ったのがアメリカだった。アジアでの戦いはほぼアメリカ1国が行っており、日本との講和条約がこのまま調印されてしまうと、何の旨味も無くただ戦争で疲弊しただけになってしまう。

マレーシア、シンガポール、ベトナムの領有権を求めるが、独立を認めた後のアメリカの主張だったため却下されてしまう。


この為、アメリカはヨーロッパ諸国とは別枠で、講和条件を決めることになった。

しかも、この講和会議の途中でアメリカは、大統領選挙が有り現大統領が敗れた為、大統領が変わるという事態になり

講和条件が一から作成されることになった。


結果、日本が全ての国に対して、講和条約を締結できたのは、照和25年8月15日のことだった


講和条約が締結された翌年照和26年元旦

天皇自ら宣言されることにより、主君制の天皇ではなく、国民主権による象徴天皇として、国民に寄り添い生き、国政に携わらないことを宣言された。


 日本国内は、突然の天皇陛下の御言葉で大いに混乱したが、象徴天皇としての陛下御自身の御心を

国民である1人ひとりが理解するに当たり、梅の花が咲く頃には混乱は終息を迎え、

帝国主義を脱却し、新生日本国として再出発することに、国際世界に宣言した。


 しかし、外地からの兵士の引き上げや、国内での食糧生産の不足から、国内はまだ戦後の混乱が続いており、

復興に向けての第一歩を歩き始めたばかりだった。


 その中で、明美が作ってしまっていた技術集団及び企業共同体は、新しいことにも柔軟に受け入れ、

明美のムチャぶりにも耐えた技術開発力を武器に、どこよりも立ち直りが早く、国内の復興に一役買っていた。


その為、明美も大忙しで日本中どころか、国外にも足を延ばすこともあり、ゆっくりしている暇がなかった。

 それに、照和26年7月に中国西安で、蒋介石首相の中華民国と毛沢東首席とする中華人民共和国との中国国内で中国統一の覇権を懸けての内乱が勃発し、瞬く間に中国全土に戦いの火が広がった。

 この戦いには、中華民国側にはアメリカが、中華人民共和国側にはソビエトが付き、内乱は混迷を深めた。


 朝鮮半島では、日本から独立し統一朝鮮を掲げ国造りを始めていたが、中華人民共和とソビエトに支援を受けた、北部駐屯部隊が平壌で突然武装蜂起し、統一国家として朝鮮民主主義人民共和国と名乗り南下始め、

ソウルで統一国家の準備をしていた、大韓民国と争いが始まった。


 瞬く間に、朝鮮半島の3分の2を手中に収めた朝鮮民主主義人民共和国だが、アメリカの反共産主義のもと、アメリカ主導の国連平和維持軍が結成され、海兵隊の強襲部隊が、釜山より上陸し進攻

一気に朝鮮民主主義人民共和国軍を北へ押し返し、さらに仁川に上陸した国連平和維持軍は、ソウルを解放した。


そのまま国連平和維持軍は進軍を続け、平壌に到達。

しかしアメリカは、過去の亜細亜戦線の苦い教訓から、それ以上北上することはせず、戦線を維持することに。


 ソビエトも中国人民共和国との連携で武器や兵の援助を行ってきたが、このままアメリカと事を起こすのは得策ではないと、

突然、朝鮮民主主義人民共和国と中華人民共和国に対して援助を打ち切ってしまう。


その為、朝鮮民主主義人民共和国軍は壊滅し、朝鮮統一国は大韓民国となり、アメリカが推し進める朝鮮半島の反共産主義は達成された。


 中華人民共和国は、交戦維持が出来なくなり、黄河を挟んで睨み合いの格好になった。

そのまま、北側を中華人民共和国(首都 北京) 南側を中華民国(首都 南京)になった。

 西安市は、中華人民共和国の国内になっているが、市の行政区は中華民国で、アジアのベルリンと呼ばれるようになった

こうして、3年もの間続いた亜細亜動乱と呼ばれた内乱は終息したのであった。


この亜細亜動乱特需を受け、日本の経済は急速に復旧していく。


照和31年(1956年)経済白書に載った「もはや戦後ではない」といった言葉が流行した。


「まったくこの言葉通りだね。」

新聞を見ながら、明美がしみじみ呟いた。

「どうしたの?なんか哀愁が出てるよ?」

さよりが驚いたように、明美に聞くと

「だってね、戦中からいろんな企業に飛び回っていて、やっと落ち着いて社内に居れると思うとね。平和っていいなぁと、つくづく思えたの。」

「そうなんだ、一杯働いてたしねぇ。ゆっくり休んでもいいんじゃないの?」

「だよねぇ。明日にでも愛機の『震電改』を飛ばしに行こうかな?」

「あれ?まだ持ってたの『震電』?」

「もってるわよ、壊してないもの。『震電』は大阪第一空港の銀河社専用格納庫にいるから。でも、今言ってるのは、九州航空が創業50周年記念モデルとして私専用に作ってくれた、『震電改』なの。この子すごいんだぞ。水平飛行で820キロ出るんだからね。」

それはうれしそうに話す明美

「その機体はジェット?」

最近、九州航空発動機がジェットエンジンの開発に成功したと聞いていたさよりが聞くと

「ううん。レシプロエンジン、流石に液冷式になったけど、12気筒X型エンジン カルテットターボ搭載 4500馬力でね、プロペラが電動式可変ピッチプロペラの2重反転定速4翅プロペラなの。」

予想外のエンジンスペックが飛び出してきた。

「なにそれ!そんなエンジンの情報、あたし知らない!」

「さよりでも、知らなかったということは、あの連中すごいなぁ。」

後に、明美の一言 宇宙で住みたい と言った言葉で、社名を九州航空発動機株式会社から

KSP(九州宇宙開拓)株式会社に社名変更する事になり、世界初スペースコロニー建造会社に成長し、情報セキュリティ世界最高峰と言われていくのは別の話である。


2人のやり取りを聞いていた、美由紀が

「二人ともやってることがそっくりだからねぇ。」

と言った。その言葉に

「「どこが同じなの!」」

と声をそろえて、聞き返した。美由紀は2(・)冊(・)の(・)帳(・)簿(・)を見ながら

「だって、2人とも自重って知らないから、あなた達2人が動き回った結果、日本は敗戦から逃れ、

技術力が向上し、日本経済が上向いて、我が社の売上高も資金貯蓄高も過去最高を更新中です。

 今年度の税金対策に頭が痛いです。しかも表に出せないさよりの闇資金を合わせると、我が社は、アメリカ国家予算の10倍ぐらいのお金を軽く動かせるわよ。どうすんのこのお金?」

と、呆れたように2人を見た。


 明美の戦中のムチャぶり開発のおかげで、機械加工の精密さは世界トップクラスまで上り詰め、

電子機器の分野においても、いち早く半導体を利用した回路の作成に取り掛かったため、欧米の真空管の電気製品が、半導体を使った日本製にすでに駆逐されつつある。

 しかも、ラジオ放送はおろかテレビ放送が開始されると、挙って日本の半導体を世界中が買い求めるようになった、。


 理由は真空管でもテレビは作られていたのだが、映りが良い、壊れにくい、消費電力が少ないの3点で圧倒的に、半導体(トランジスター、ダイオード)を使った製品に軍配が上がったのである。


 各国も半導体の研究を進めるが、日本は1日の長で他の追従を許さなかった。 

それほどまでに技術的な差が広がっていたのである。


 アメリカやヨーロッパ諸国でダイオードや、トランジスタが生産される頃には、すでに日本では

数十から数百のダイオードやトランジスタを集積したICチップが開発されていた。


照和45年の大阪万国博覧会には、日本館内で試作段階ながら大型カラー液晶ビジョンが展示されていた。


 ケミカル分野でも飛躍的は進化を遂げ、今や世界の高級電化製品と機械製品は、日本製に限るとまで言われるようになっていた。

それもこれも、明美が1件1件工場を頭を下げて廻った工場や会社が、戦後急成長し世界に名が売れる企業へと育ったためである。


 それに伴い銀河社に入る経営コンサルタント料が、鰻上りになったため、銀河社の売上高も資金貯蓄高も過去最高を更新することになったのである。


 さよりは時代の流れを嗅ぎ取り、為替や株の相場で負け知らずの稼ぎを叩き出していたが、法人税逃れの為に、銀河社以外のダミー会社を使って多額の金を動かしていたため、正規には銀河社の儲けに出来ないお金だった。

と言うか、さよりの稼ぐお金は、ほぼ違法に近い手段での稼ぎなので表沙汰にしにくかったのもあって、別名S資金と呼ばれるようになっている。


 その事を美由紀に指摘されて、2人は反論した。お互い相手を指さし

明美は

「私はさより(守銭奴)と違って、目的の為に手段を選ばなかっただけだから」

さよりは

「あたしは、あぁちゃん(狂戦士)と違って、手段の為に目的を選ばないだけだから」

「「決して同じじゃない!!」」

と叫んだ。

取りあえず、明美編は終わりです

他のメンバーが戦争中何してたか、いろいろありますが

これより長くなりそうです(^^;

だって、なんで独立が進んだのか?とか誰が唆したのか?

ま、いろいろありますが、次からは本編!

宇宙に戻ります(たぶん(^^;)

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