第29話 竜紅人 其の四
首に当てられる爪の尖った感触に、ぞくりとしたものが香彩の背中を走る。
真竜に鋭い爪があることは知っていた。
だが竜紅人の鋭爪が、自身の喉元へ宛がわれる時が来るなど、香彩は想像すらしていなかった。幼い時から気が付けば側にいて、自身を護り、時には叱る存在であったが為に。
違うものなのだと頭の何処かで分かっていても、彼の『化け方』は見事と言うよりほかない。背中から伝わる体温と気配、そして物心付く前から聞いてきただろう声色は、確かに竜紅人のものだった。
だから間違えるはずがないと。
思い込みたかった。
思っていたかった。
これが偽物など有り得ない、と。
だが、左手首に絡み付く紅の鎖の様な印。ここから入り込む彼の『力』が、竜紅人とは違う存在だと主張している。
巧みに真似られた神気と。
とても懐かしい『力』の気配と。
叶や療に似た、妖気。
それらが自分の意思とは関係なく、身体の中を蹂躙していく。置き換えられていくみたいだと、香彩は思った。
(……否)
吸い上げられていく自身の術力に、思わず泣き出したい程の懐かしい『力』が、ひとつになろうとしているのだと、いった方が正しいだろうか。
ぱりん……と。
どこかで何かの割れる音がする。
ここに来て香彩は、ようやく気付いたのだ。
竜紅人の蒼竜としての『力』を誓願して作った結界に、覆い被さる『別の力』の結界があることに。
それは時間をかけて侵食し、溶け込んで、ひとつの結界になろうとしていた。
作り主である香彩の意思を無視し、既に融合を果たした箇所から、崩壊していく。
少しずつ。
少しずつ。
再び聞こえる、何かの割れる音は、果たして結界だけのものだったのか。
にぃと、普段見せることのない、尖った牙を見せて嗤う竜紅人の笑みが、更に深いものになる。
堕ちよ。
堕ちよ、と。
細め見る目は、むしろ慈愛すら感じられる程、残虐性に満ちていて。
ああ、と香彩は唐突に理解する。
これは彼が作った結界だ。
そして自分は、内側から喰われる存在と化すのだ。
気付きたくなかった。
本心を、目の前に突き付けられた様な気がした。
気付かずにいれば、何事もなく過ぎて行くかもしれないと、そんな甘い考えのまま、見て見ぬ振りをしていた。
(──竜紅人のことも)
(──あの……夢のことも)
感じていた違和感の正体を、突き詰めることが恐ろしかった。
自分の心の中でなかったことにした、見なかったことにした報いなのか。
突き付けられる現実と、真実に向き合う勇気がなかったのだと、自身に言い訳をしてみても、もうどうしようもない。




