第96話 美しい少女(三)
狭依が何かと付いて回って世話を焼いていたのは、大彦を心配してのことだったのに。でも大彦は、
「お前は俺の母ちゃんかよ。うぜえ」
と狭依を鬱陶しがり、遠ざかってしまった。
狭依は寂しかったけれども、どうすればよいのかわからなかった。……今も、わからない、ままだ。
「なー、コレって、ひょっとしなくてもお天王様の御神像だったりしないか?」
狭依は、ビクッとした。
さくらが滴らせた血の跡は全く残っていないのに、鞘に収められた剣の隣には、頭部に牛頭を戴いた憤怒相の神像が置かれていた。
(祟りも病も全て断ち切り生き延びて、長い余生を神の妻としてお天王様を祀り続けるか――――)
生き残ることを選んだのは、自分。狭依は静かに言った。
「何もせずに祟りが終わる訳がないでしょう? 私は、元の姿に戻して貰って、祟りも終わらせて貰う代わりに、私にしか出来ない役目を務めなければならないの」
「何だよ。物騒な条件で取り引きしたのか?」
「物騒じゃないわ。ただ、私はお天王様をお祀りしなければならないの。一生……お天王様の妻として」
「はあ??」
大彦は、あからさまに呆れた口調で言った。
「何だよそれ。この木彫りのオッサンの嫁になって、実質独身で過ごすってか?」
「失礼なことを言わないで。……祟りに苦しんだ私と、祟るくらいに苦しんだお天王様の気持ちを、分かって欲しいなんて言わない。でも、馬鹿にしないで。大彦君は、……誰であっても、私と神様の《約束》に入り込むことは出来ないの。大彦君の言葉を借りるなら、……大彦君の役目じゃないのよ」
狭依は、小さく笑った。
「心配してくれて、ありがとう。その神剣は鳥海の家のものでしょう? 持って帰ってくれる? 私はもう、大丈夫だから。……帰って」
――――これでいい。
波多々の家が、それまで御加護を頂いていた恩を仇で返した時から、波多々の直系の巫女として生まれた狭依の運命は、もう決まっていたのだから。
「お前なあ、そういう事は、もっと大丈夫そうな顔で言えっての」
いつの間にか俯いていた狭依の耳に、大彦の声が聞こえた。
「河童が俺をここにかっ攫ってきた理由、今わかったわ。依代とか御神体とか仏像とかさ、分霊とか御魂入れしてあるけど、神様仏様そのものじゃない、っていうことくらい分かるよな?」
「え? 知ってるけど…」
だから、神道では神様を無限に分けることが出来る。しかもその神威は分けても変わらないとされる。
日本全国の神社の数がコンビニの数を上回るのは、有名な神社から分霊した神社が、日本中に勧請されたからだ。
「なあ、お天王様。そんな小さい御神像に収まってるなんて、付喪神みたいだろ。それで狭依ひとりに祀られて、嬉しいか?」
当然、神像は答えない。
木像なのだから、憤怒相のまま黙っているだけだ。
「無期限の伊勢の斎宮みたいな一生を送ったって、狭依は幸せじゃないって分かるだろ? 八十歳の未亡人とかならいいかもしれないけどさ、狭依はピチピチの女子中学生なんだよ。人生九十年の時代に、ソイツは酷だって事くらい、死なない神様でも分かってんだろ? まあ、酷だから代償なんだろうけどさ」
大彦は、そう神像に語りかけると、傍らにあった剣を鞘から抜いた。
「天羽々斬。八岐大蛇をぶった切った素戔嗚と同体だと思えば、お天王様の物だろ? コイツ返すからさ、付喪神やめようぜ。そっから出て、俺の中に入れよ。俺、楽しい人生送る自信があるからさ。悪い取り引きじゃないだろ?」
「大彦君!? やめて!!」
狭依がそう叫んだのと、大彦が神剣を振り下ろしたのは、ほぼ同時だった。
パキィン、と音を立てて、神像は真っ二つに割れた。
大彦は、ザクリと畳に剣を突き刺し、体を支えながら片膝を付いて、はあ、はあ、と苦しげに息を吐いた。
「大彦君! だめ……だめよ!そんなことしたら、し……」
んでしまう、と狭依は泣きながら言いかけたのに。
「いや~……だめっつっても、今更御神像を木工用ボンドでくっ付けるのはナシだろ? あー、案外いけるわ。大丈夫っぽい。俺の中にいるけど、別に乗っ取られてないし」
大彦は、神剣を鞘に収めると、どさっと畳の上に大の字になった。
「大彦君! 大丈夫って……」
「大丈夫じゃないように見えるか?」
大彦は、体力を消耗した様子ではあるけれども、ニカッと笑った顔は明るかった。
「……って、アレ?俺、現人神じゃん! すげえ」
「すげえじゃないでしょ!」
「そうだな、狭依にとって大問題なのは、俺がお天王様の現人神になっちまったから、狭依が俺の嫁になんなきゃいけなくなったってことだよな」
「……………………」
ええええ!? と狭依が叫び、その声を聞きつけたのか、血相を変えた狭依の両親がスパァンと襖を開けて飛び込んで来た。
――――両親の目に映ったのは、布団から出たパジャマ姿の愛娘が、畳の上に寝っ転がっている大彦の両肩に手を置き、ふたりの顔は至近距離、という構図だった。
「えっと……」
大彦は、言葉を探した。
「俺、責任取って、狭依を嫁に貰いますんで、勘弁して下さい」
早朝の波多々家に狭依の父の怒号が響き渡り、鳥海大兄が駆けつけて大騒ぎになった。