第37話 プールの妖怪(一)
「たっくん、おはよう」
と稔流がにこりと笑って声をかけると、二の分家・宇賀田拓は分かりやすくビクッとして、「……はよ」と蚊の鳴くような声で答えると、慌てて廊下を走り去って行った。
「よっ、稔流」
大彦が声をかけてきた。
「あ、おはよう大彦君」
「いきなりたっくん呼びするか?めっちゃびびってたじゃん」
「狭依さんは、みんなそう呼んでるって言ってたけど?」
「ん~女子は多いか。男同士は誰でも大抵呼び捨てだよ。あだ名付いてんのは、俺みたいに通称がある鳥海か、陽キャか弄られキャラ」
「極端だなあ…」
稔流は特に陽キャではないので、呼び捨てで定着してほしい。
「あとさ、稔流って基本にこやか~な感じだし、言葉遣いもいかにも都会から来ました的な、お坊ちゃん風味じゃん?それで拓をぶっ潰したんだよな。あれ怖すぎて笑えたわ」
「笑えるくらい面白かったのなら、良かったよ」
「そーゆーとこな」
「でもね、俺は体がかなり小さい方だから、凄んでももっと笑える事になるんじゃないかなあ。小動物が毛を逆立ててるっぽくなるだけで」
「……そうか?」
大彦が不思議そうな顔をした。
「俺は割と背ぇ高いから稔流が小さく見えるけど、身長なら拓と変わんなくね?」
「え?」
それは無い。
「俺、春の身体測定で、120cmだったんだけど……?」
「それ何かのネタ?120cmって幼稚園児?小1?黄色い帽子被ってるやつじゃん。ピヨピヨじゃん」
稔流は、黄色い帽子を被っている自分を想像した。違和感が無くて、溜め息を吐いた。
「俺は、命が危険なくらいに小さく生まれたんだ。それで成長が遅れて、1年生の時は90センチとかだったと思うよ。ランドセル買う時、とにかく軽くなきゃダメだって、俺の好み全無視で親が選んでたし」
「いやネタだろ。こっち来い」
「え、何?」
稔流を引っ張って走る大彦も、足が速い。多分、毎年リレーの選手だ。小学校でモテるタイプだ。
「ちょっ、速い!手首千切れる!転ぶ!!」
教室に向かう階段とは反対方向にある、保健室の前で大彦は止まった。
「なっちゃんせんせーい!……って、まだ来てねーわ。勝手に借りるか」
「この村って、保健室まで鍵を閉めないんだね……」
「これ乗ってみろ」
……身長計。
「俺……これって、世界で3番目くらいに嫌いなんだけど?」
「1番目と2番目って何?」
「さあ……。とりあえず、身長計よりも嫌いなものって、2つくらいはあるかなって」
「何それウケる」
とにかく乗れ、というので稔流は仕方無く乗ってみた。トン、と頭にプレートが当たる。
「135cmジャスト。さっき120とか言ってなかったか?タケノコかよ」
「タケノコって一日に1メートル伸びるんじゃなかった?」
「そっち?」
稔流も驚いた。低身長だと思っていたし、病院で経過観察をしていたので、成長曲線のグラフが頭に入っている。
稔流は9月生まれだから、今ほぼ11歳と考えれば、135cmは平均身長より5cm低い程度で、『やや小さめ』レベルだ。少なくとも、前へならえで先頭になったことしかない、というような身長さではない。
「どうしてだろう……。引っ越してきてから、ずっと半袖短パンだから気が付かなかった。靴は、何かきついかもって思ってたけど」
「よく分かんないけど、気付けよ」
稔流も何だかよく分からなかったが、両親共に平均より身長が高いので、いつか挽回出来るかもしれないと思っていたけれども、そういう伸び方とは何か違う気がする。
初めて大彦と並んで歩いた時に、頭ひとつ分高いと何気なく思った感覚は、稔流が既に身長135cmだったのなら、辻褄が合う。
その『頭ひとつ分』を大体25cmだと考えれば、大彦は160cmほどで、どおりで一目で長身だと気付くわけだ。
いつ、自分は背が伸びたのだろうと、稔流は手がかりになる記憶を辿った。例えば――――
昨日、スクールバスの中で稔流の膝に乗っかってそっぽを向いていたさくらの背中は、小さく見えた。
帰り道、並んで歩きながら見つめ合った目線。稔流が自認していた身長なら、数え九つのさくらと同じくらいのはずなのに、稔流は軽くさくらを見下ろしていた―――
(ひょっとして、さくらが関係してる……?)
さくらは二度、稔流の目の前で一気に2年分ほど成長したことがある。そのタイミングは、二度とも稔流がプロポーズした時だ。
さくらなら、何か知っているかもしれないと思ったが、あの決死のプロポーズが関係しているかもしれないと思うと、何となく聞きづらいまま、後日祖父に頼んで山を下った町で新しい服と靴、そして水着を買って貰った。
9月半ばまで、プールの授業があるからだ。
「あ~、今日で最後とか有り得ねー」
「行進の練習って、意味わかんねーし。オリンピックみたいに適当に歩いて入場でいいじゃん」
最後のプールの授業で、男子が怠そうに愚痴を言っている。
10月には体育会があるので、その為に陸上や団体競技、そして多分クラスでは誰も好きではない、昭和みたいな行進の練習に入るのだ。
「俺も、水泳の方がいいなあ。気温が下がってきたからちょっと寒いけど」
「稔流って、水泳上手いもんな。運動会もリレーの選手やるタイプ?」
稔流は苦笑した。
「ううん、水泳は喘息の発作が起こりにくいから、体力作りの為に4年生までやってただけ。徒競走はいつもビリだよ。体調が悪い時には、そもそも走らなかったし」
「あー、ごめん」
「いいってば。俺は、タイムが遅いのは別にいいんだ。でも、運動会の徒競走って、断トツのビリで走ってくると、周りが謎の拍手で応援してくるんだよね。あの公開処刑はやめて欲しい」
「運動会あるあるだな。負けてると、めっちゃ感動的に励ましてくるやつ。見に来る大人って、自分が子供だった頃のこと忘れてんのか?」
「忘れてんだろ」
喋っていたのは、休憩でプールサイドに上がっているのが暇だからだ。
だから、プールの中には誰もいないはずなのに、何人かバシャバシャ遊んでいる子供がいる。どうして、ゴリ先生は注意をしないのだろうか?
「あれ……?」
誰も水泳帽を被っていない。そして、黒髪の子供はひとりだけで、緑や青の髪色の子供ばかりだ。
細長い何かが、するすると泳いでいるのだが、耳が尖っているし、あれは管狐じゃないだろうか?
「ここは河童の遊び場だよ。座敷童も来る」
驚いて声の方を見ると、そこにはさくらが立っていた。
いつもの白地に桜柄の着物ではなく、ひらりとしたミニスカートの白いワンピースの水着を着ていて、何故かサンリオキャラの浮き輪を持っている。
「似合うか?」
こくん、と稔流は頷いた。声を出すと独りで喋っている不審者になってしまう。
「そうか」
さくらは満足顔で言った。
「私は猫派だ」
「…………」
稔流は、@ティーちゃんは実は猫じゃないんだよ、……っていうか、@ティーちゃんは、実は猫を飼っている側なんだよ。……とは言えなかった。