第23話 数え十五(二)
コン、と足元で小さな鳴き声が聞こえた。そして、いつの間にかそこに稔流の靴が置いてある。
「……むすび?」
見覚えがある管狐は、しゅるんと襟巻きのように稔流の首に巻き付いた。
「ここがお気に入りなの?」
機嫌良さそうに頬擦りされたので、そうなのかもしれない。
「行っていいのかな……」
稔流は、靴を持って濡れ縁に出た。
「ちっ、むすび。余計な事を」
あからさまに舌打ちされたので、やっぱり来てはいけなかったのかなと思いながら、稔流は庭でさくらと向かい合って立っている相手を見た。
「おい稔流!」
「ちょっ、わあっ!!」
さくらがつかつかと歩み寄り、むすびを掴んでぐいと引っ張った。むすびはびよーんときつね色の水飴のように伸びたが、伸びるのにも限界があるようで、稔流はむすびごと濡れ縁の下に落っこちた。
「いったたたた…何するん」
だよ、を掻き消して
「稔流、お前……!見目のよい女なら見境無く見蕩れる男だったのか!?出会ってすぐに求婚するわ、息を吐くように殺し文句を言うわ、実は軽薄な男だったのか!?」
仰向けになって倒れたまま、稔流は肩を鷲掴みにされて、ゆっさゆっさと盛大に揺さぶられた。
稔流は、視界がぐらんぐらんしながら思った。
見目のよい女の中に、ちゃんと自分も入ってるんだね……それで合ってるけど。
「あらあら、さくら。殿方に跨がってはダメよ。はだけて中が見えてしまうわ」
「月も星も上からしか照らさん。はだけても見えんわ」
「目を回してるわよ?お庭で気を失うのは可哀想だわ」
さくらは眉間に皺を寄せたが、肩を揺するのも跨がるのもやめてくれた。
「……さくら」
「何だ」
「俺、うっすら他人がどうでもいいみたいから、女の人に見蕩れたのってさくらだけだよ」
「馬鹿正直に恥ずかしい事を言うな!!」
暗くてよく見えないけれども、今さくらは真っ赤なんだろうなと思うと、少し嬉しい。
「さくらの知り合いで人間の姿なら、よその座敷童かと思ったんだけど……、座敷童とは全然違ったから驚いただけだよ」
もしかしたら、本来は中学生くらいの見かけの『少女』なのかもしれない。でも、綺麗にお化粧して髪を結い上げて首筋を見せ、優雅に振袖を纏ったそのひとは、とても『大人』に見えた。
「はじめまして、宇賀田の御当主さま。波多々の家のあやめと申します」
「えっ?あの」
稔流は家を継ぐ気なんて無いし、「さま」とか敬われても困るし、さくらとは随分《違う》し、情報量が多すぎて何から弁明すべきか混乱した。とりあえず、
「敬語じゃなくていいです……」
「では、お言葉に甘えて」
月光の下で、振袖という晴れ姿のあやめは、とても華やいで美しかった。でも――――
「どうして、私が座敷童ではない、と思ったの?さくらよりも、私が年長に見えるから?」
「えぇと、『年上に見える』のはそうなんだけど、もっと……」
稔流は、さくら以外の座敷童は見たことがない。あるのだとしても、記憶にない。
でも、比較の対象はなくても、わかる。あやめは、もっと根本的な所で、
「――さくらと、違うから」
「全然……そうね。何が違うの?」
何と言えばよいのだろう?稔流も直観でそう感じただけだから、言い表す言葉を探した。
「……全部だよ。あやめさんは、さくらと違って『自由』だから。何を選んでもいいし、どこに行ってもいい。さくらが諦めているものを諦めていないし、もう持ってる。だから、あやめさんは座敷童じゃなくなった……」
稔流は言葉を紡ぎながら、自分でも驚いた。
――――座敷童だったのに、今は座敷童じゃない……?
あやめは、驚いた様子で稔流を見つめたが、ふわりと微笑んだ。
「……だから、大人の都合など関係なく、あなたが宇賀田の真の当主なのね。姫神様も天神様も、どうして貴方に格別の関心を持っているのか解ったわ」
あやめは解ると言ったのに、すぐそこにいるのに、稔流はどうしてか遠く感じた。
座敷童ではなくなって、寧ろ人間という平凡なものに近付いたように見えるのに。
でも同時に、この世の存在ではなくなりつつあるような、今にも月光に溶け込んで儚く消えてしまいそうな……人間ではない《何か》。
「……ねえ、さくら。私を酷い女だと思う?」
「思わないよ。善郎は、望んだ訳でもないのに長く生き過ぎた。いつか人は死ぬ。そのついでにあやめの願いも叶う。それだけの事だ」
「ありがとう。言うと嫌がられるけど、やっぱりさくらは優しいわ」
「最後だ。私のことなど、思いたいように思って行けばいい」
さくらは淡々と言ったが、ふと微笑した。
「今日明日の『一番綺麗』は譲ってやるよ。――おめでとう。あやめ」
「ありがとう。こんなに賑やかなお別れになるとは思っていなかったわ。――ありがとう、稔流さん。さくらのこと、よろしくね」
音もなく、あやめは背を向けた。金糸と銀糸が織り込められた袋帯が月明かりにきらめいて、ふくら雀の後ろ姿が遠ざかる。
お別れだというのに、あやめもさくらも、さよならとは言わなかった。
「見送りにいかなくていいの?」
「惜しむ別れでもない。あやめは、やっと幸せになれる。誰であっても、いつか別れは訪れる」
素っ気なく言って、さくらは草履を脱ぐと濡れ縁に上がった。稔流も追いかけて、結局使わなかった靴を小さな草履の隣に置いて中に入った。
部屋に戻ると、さくらはごろんと無造作に畳に寝っ転がった。さっきとは逆向きだから、さくらの顔は見えないし……少し、遠く感じるのが、寂しい。
「さくら」
「子供は寝ろ」
「それでも、俺とさくらには、もう別れは来ないんだって信じてるよ」
「…………」
ころりと寝返りを打って、さくらが稔流の方を向いた。
「うん……稔流。私も、信じてる」
さくらが、綺麗に笑った。
よかったと、稔流は思った。あっという間に、眠りに落ちていった。