第16話 秘密と罪
稔流の心臓は、ドクンドクンと重苦しく、音が聞こえそうな錯覚がするほど大きく脈打った。
母に気付かれないように、少しの音も立てないように、自室へと逃げ戻った。
どうして、そんなにも後ろめたい思いをしなければならなかったのだろう?
稔流自身もわからなかったけれども、自分が信じていた世界が、音も無く壊れたようなような気がした。
父よりも強くて格好いいと思っていた母は、あの夜とても弱く見えた。
温和で優しいけれどもちょっと抜けていると思っていた父は、どんな時でも笑顔でいられる強さと嘘を持っていた。
稔流は、封じ込めていた秘密と不安を、誰にも打ち明けることも相談することもなく、1年近く口にしなかった。
ただ、次の誕生日が来る前に、やっと休みが取れた父とふたりきりになる機会があったから、尋ねた。
「みのりは、どうして死んだの?」
父は言葉に詰まり、僅かな動揺が稔流にも見て取れたけれども、いつまでも隠しておけることではないと思ったのだろうか、冷静に話してくれた。
「……稔流も実梨も、とても小さく産まれたんだよ」
発育良好な赤ん坊は、2500グラムから4000グラムくらいの体重で生まれてくる。だが、稔流と実梨という双子は、千グラムを下回る超低出生体重児だった。
「双子がお腹にいる妊婦さんは、本当に体調に気を遣うものなんだよ。赤ちゃんが育つ子宮っていう場所は、赤ちゃんひとりを育てるように出来ているから。……本当に、お母さんは頑張っていたんだよ。稔流もみのりも元気に生まれて来てくれるように」
それでも、早産となった。
妊娠経過は順調だったのに、ある日突然《みのり》だけ血流が悪くなっていると言われ、緊急手術となった。
「稔流の方が少し大きくてね、産声も上げることが出来たんだよ」
でも、小さい稔流よりももっと小さかった《みのり》は、そうではなかった。
産声を上げることなく、止まっていた心臓が再び動き出すこともなかった。
産まれてきたのに、生きていなかった。
「お母さんが悪い訳じゃないんだよ。お医者さんの力不足でもない。誰も悪くなくても、悲しくて辛い出来事に出会ってしまう……そういうことも、あるんだよ」
もうすぐ7歳になる子供に語って聞かせるには、難しい話だったのかもしれない。
でも、小さく産まれて小さく育った稔流は、察しのいい子供に育っていた。
母の所為ではない。そんなことは、看護師である母は当然わかっていたはずだ。
それでも、何の罪もない小さな小さな我が子がが死んでしまったのに、誰も何も悪くないだなんて、そんな残酷に母は耐えられなかった。
母は、理由を必要としていたのだ。自分の娘の死産という事実と悲しみを、他の誰でもなく、母親である自分自身の所為にした。
「妊娠がわかった時にね、お父さんもお母さんも、大喜びで名前を考えたんだよ」
男の子なら「みのる」。女の子なら「みのり」。
父の名前が「豊」で母の名前が「真苗」なので、輝くように実る稲穂をイメージした。
双子で、性別も丁度良く男の子と女の子と判明して、どちらも採用するつもりで漢字は「稔流」と「実梨」にした。
「稔」も「実」も、一文字だけではどちらも「みのる」だと思われてしまいそうなので、送り仮名の漢字を「流」と「梨」にして区別した。
「でも、お母さんは『梨』の字を考えた自分の所為だと思ってしまったんだ」
「稔る」の送り仮名に「流」を選んだのは父で、「実り」の送り仮名に「梨」を選んだのは母だった。
「梨」は果物の「なし」だ。「梨」を「り」と読む名前の人はきっとたくさんいるのに、母は後から知ってしまった。
葦を「アシ=悪し」と読むのは縁起が悪いからと「ヨシ」と呼ぶように、梨は「無し」に繋がるからその音を避けて「ありの実」と呼ぶのだと。
遙かな昔から、日本人はこういう縁起担ぎや言葉遊びをして来たのだから、生まれる前から決まっていた名前に「|なし」が入っていたからと言って、命が無くなることと結びつけるのはこじつけでしかない。それでも。
(《《なし》》、なんて、もう付けない――――)
「お父さんは、どうして流れるの『流』にしたの?」
「長いの『なが』という日本語の語源……元になっているのは、流れるの『なが』なんだよ」
長く稔り続けるような人生を…と。
それならば、「梨」だって、金色に似た大きくて甘い果実が実りますように、という願いが込められていたはずなのに。
「そうなんだ。……ありがとう、お父さん」
そう言って、稔流はこの話を終わらせた。 小学1年生の子供が、こんなそつのない態度を取るのは不自然なことなのだと、当時の稔流は気付いていなかった。
いつ、誰に言われたのだろうか。
――――この子は物わかりが良すぎる。苦労をするよ――――
もっと、色々なことを聞けばよかったのだろうか。
稔流しか生き残らなかった、稔流だけを育てるしかなかった7年間を、父と母はどんな気持ちで生きてきたのか。
でも、聞いても大人である父は、子供である稔流が傷付かないような言葉だけ選んで、嘘を吐いてでも稔流を安心させようとする、そんな気がしたから。
自ら話を終わらせた稔流は、誰にも何も言えなくなった。
父は言っていた。元々母親の子宮はひとりの子供が育つように出来ている、と。それなら……
――――ぼくは、みのりの分の命まで、独り占めにして生まれて来てしまったんだろうか――――
そんなことはないと、分かっている。知っている。
でも、母が理屈では割り切れずに自分を責めていたように、本当は隠れて泣きながら《みのり》を想っていたのに、稔流の前では誕生日を笑って過ごしていたように。
稔流もまた『双子の妹を殺した』という罪を、ひっそりと、小さな体と幼い心に背負った。