最終話 遠くへ
実梨は、所謂《宇賀田の狐の子》だ。幼少時から不思議な力があり、狐とも河童とも猫又とも親しいので、その子が人間ではないことはすぐに分かった。
座敷童は、波多々本家のあやめと三太しか会ったことはないが、この子も座敷童なのだろうか?
でも、どこか座敷童とは違うような気がするのだ。
白地の着物は流水文様と桜の花の柄で、赤い兵児帯を結んでいる。
その装いはその子によく似合っていたけれども、実梨が驚いたのはその子供の髪の毛と瞳の色だ。
「しろじゃないよ?」
とその子は言った。さらさら揺れるおかっぱの髪の毛の事だ。
おひさまの光が反射して、雪のような白かと思ったが、よく見るとピンクがかっている。
でも、その淡く美しい色は、ピンクと言うよりも、
「桜色……」
実梨の唇は、零れるようにその言葉を紡いでいた。
そして、その子供の瞳は金色だった。
実梨の目も髪色も《狐の子》の特徴である金色がかった明るい茶色だが、この子は透き通ったビー玉のような金の瞳だ。
「そうだよ! さくらいろなんだよ!」
幼い女の子はあどけなく、嬉しそうに笑った。
いくつくらいなのだろう?
「なんさいでもないよ」
まだ実梨は何も尋ねていないのに、その子は言った。
「だって、わたしはまだ、おかあさんからうまれてないもの」
「え……?」
んー、と言って、その子は言葉を探した。
「しんだことがない、ゆうれい? わたしは、こころだけだから」
「…………………………」
「あのね、お父さんとお母さんのこころがむすばれたとき、わたしはちっちゃい光のつぶみたいにうまれていたの。ずっと宇迦の姫神様に育ててもらって数え五つくらいの見かけになったけど、まだ本当の体がないし、なまえもまだないんだよ」
不思議な説明に実梨が困惑していると、桜色の髪に金色の目の子供の顔が、ぱぁっと輝いた。
「むすび! むかえにきてくれたの?」
その子は走り出し、そして一度だけ実梨を振り返った。
「もういかなきゃ。こんどはお母さんから体をもらってうまれて、お父さんにお花のなまえをつけてもらうの。じゃあね、みのりちゃん!」
「……待って!」
実梨は、駆け出していったその子供を追いかけた。
どうして、あの子は実梨という名前を、実梨が実梨だということを、知っているのだろう?
先導して獣道を走っているのは、管狐だろうか?
それにしても、小さな子供とは思えない俊足で、見失った実梨は気付いた。
いつの間にか、知らない場所に……違う、知らない世界に、入り込んでいた。
天道村では、早咲きから遅咲きまで様々な桜が咲くが、ここは至る所に満開の桜の花が美しく咲き誇っている。
まるで、春のまま時を止めたように。
永遠に、春だけを繰り返しているかのように。
「あ、お天気雨……」
よく晴れているのに、上空の風が強いのだろうか。パラパラと雨が降ってくる。そして、それは、
――狐の嫁入り、ともいう――
遠くから、しゃらん、しゃらん、とたくさんの鈴の音が聞こえる。
しゃらん、しゃらん、しゃらん……
しゃらん、しゃらん、しゃららん……
木立の向こうから、誰かがやってくる。
ひたひたと、足音は静かに。
礼装の着物を着た人々の行列だ。
しゃらん、しゃらん、しゃらん……
しゃらん、しゃらん、しゃららん……
ゆっくりと進んでゆく行列の人々は、白い狐の面をつけていた。
そして、大きな傘をさしかけられて、白無垢に綿帽子姿の花嫁が歩いてゆく。
花嫁行列だ。なのに、花嫁の隣には誰もいない――――
しゃらん、しゃらん、しゃらん……
しゃらん、しゃらん、しゃららん…
鈴の音が止まった。
行列の人々も、また。
(待たせてしまってごめんね)
花嫁行列が向う先には、学生服姿の少年がいた。
実梨と同じ年頃に見える――――その少年も、金色に似た明るい髪色で、実梨よりも明るい、金色の光を宿した瞳の、
「狐の子……?」
宇賀田の一族に、実梨以外の狐の子がいるとは、聞いたことは無い。
でも、実梨はその少年が宇賀田の狐の子なのだはっきり感じるし、誰かに似ているような気がするのだ。
その少年へと、駆け寄る花嫁の綿帽子が、ふわりと風に攫われた。
現れたのは、真っ白な雪のような髪の毛を結い上げた、桜の女神のように美しい、まだ少女の年頃の花嫁の顔だった。
少年も駆け出して、花嫁をしっかりと抱き締めた。
(迎えに来たよ、さくら。会いたかった…ずっと捜していたんだ)
(稔流……ずいぶん、背が伸びた)
花嫁は、泣き笑いした。
(私も、会いたかった。必ず迎えに来てくれるって、信じてた。稔流は、必ず《約束》を守ってくれるって……)
少年は、微笑みを返した。
(うん……もう一度《誓う》よ。俺は、二度とさくらを独りにしない。ずっと……いつまでも、さくらの傍にいるよ)
(私も……《誓う》。二度と、稔流を置いて行かない。二度と、稔流から離れない……!)
それは、長い、とても長い間、引き離されていた恋人たちの再会だった。
再会であり、やっとふたりが結ばれる婚礼だった。
ふわりと光と風が通り過ぎ、少年の証の学生服が、紋付袴の花婿の礼装に変わった。
(さくら、一緒に行こう。……遠くへ)
花婿が手を差し伸べ、花嫁がそっと花婿の掌に白い手を置いて、ゆっくりと歩き出した。
実梨は、ふたりの姿を見守りながら、立ち尽くしていた。
「みのる……」
美しい花嫁は、花婿のことを、そう呼んだ。
そうだ――――誰かに似ている、そう思ったのは…
実梨の、父に似ているから。
実梨の、母に似ているから。
そして双子の妹の――――
実梨は、叫んだ。
「みのる……稔流!」
兄の名前は、無くなっていなかった。兄の存在は、消えてはいなかった。
きっと、ずっと、あの花嫁が稔流の名前を呼び続けてくれていたから。
実梨も、稔流を覚えていた。これからも、忘れないから、叫ぶ。
「稔流……お兄ちゃん、幸せになって!」
ふと、花婿が実梨の方を見て微笑した。
(ありがとう。実梨も、幸せにね)
涙が、溢れた。
やっと、出会えた。初めて会えて、これが最後だった。
花嫁と花婿は、寄り添いながら遠くへ去って行く。
しゃらん、しゃらん、しゃらん……
しゃらん、しゃらん、しゃららん……
花嫁を送り届けた狐面の人々もまた、来た方角へと去って行く。
しゃらん、しゃらん、しゃらん……
しゃらん、しゃらん、しゃららん……
鈴の音が、遠ざかってゆく。
桜の花が咲き誇る空に、ぱらぱら降り続ける雨に光が差す。
大きな七色の橋がかかり、こちら側とあちら側の世界を、束の間、繋いでくれる。
全てが、花嫁と花婿の旅立ちを祝福するように。
「おめでとう。……お兄ちゃん」
実梨は、その姿が見えなくなるまで見送った。
そして、目元の涙を拭いて、踵を返して来た道を駆け出した。
待ってくれている人が、いるから。
勇気を出して、伝えたい言葉があるから。
桜の花が咲き続ける世界の向こうへ。
これから実梨が生きてゆく、四季が巡る世界へ。
了
最後まで読んで下さってありがとうございました。
読者様に心からの感謝を。