第1話 神様と妖怪の村へ
遠くに、歌声が聞こえる。
(通りゃんせ 通りゃんせ)
(ここはどこの 細道じゃ)
(天神様の 細道じゃ)
雪が止んだ夜の空気のように透き通った、鈴を振るような歌声。
(ちっと通して くだしゃんせ)
(御用のないもの 通しゃせぬ)
(この子の七つのお祝いに)
(お札を納めにまいります)
きれいな歌声に踊るように、たくさんの子供がくすくすと笑っている。
……そうだ、この不思議な小径を抜けたなら、『あの子』が待っていてくれるんだ。
早く行かなきゃ。
『あの子』と、約束したんだ。だから――――
(行きはよいよい)
(帰りは――――)
稔流は、ぼんやりと目を開けた。
「ゆめ……」
とても懐かしい、切ないくらい恋しい『誰か』とやっと会えたのに、思い出せない。
「稔流、大丈夫?」
助手席の母が振り返る。
「うん……平気」
ひたすらヘアピンカーブを登り続ける崖っぷちの道は、舗装もされていない砂利道だ。
車のタイヤの音がうるさくて、どおりで目も覚める訳だ。
「田舎って言うか、秘境じゃん……」
早朝に東京を発ったのに、もう昼下がり、ということがスマホで確認することが出来るのが不思議なくらいの山奥だ。
こんな秘境の村唯一の医師になるなんて、思ってもみなかった自分は、甘かったと今更思う。
稔流の父は、他人に尽くすことに生き甲斐を感じるタイプだ。大学時代に看護科の母と出会い結婚していなければ、稔流という子供が生まれていなければ、今頃はどこかの難民キャンプにいたかもしれない。
巻き込まれた子供としては、行き先が日本国内でまだ良かったと思うべきだろうか。
2ヶ月前、突如として父が言いだしたのだ。
「次の職場が決まったよ」
「ちょっと!いつの間に退職してたの!?確かにブラックじゃない病院に転職してとは言ったけど!」
母の口調は怒っているようでいて、実はそうではない。……ことを稔流は知っていたので、黙ってお刺身を美味しく頂いていた。
「ごめんごめん、驚かせて」
父は笑った。母は心配が極まると怒って見えるタイプなので、稔流も母が怒っても真に受けないように心がけている。
「コソコソしていた訳じゃないんだよ。実家から電話があってね」
父曰く、父の故郷の天道村の診療所の医師が退職間近なので、引き継いでくれないか、という話を受けた。……受けて、しまった。
「待って。……天道村の診療所って」
母の祖母も《《たまたま》》天道村出身なので、親戚が今も同じ村にいるし、村の事情はある程度知っている。
「ひょっとしなくても……村にひとつしかない診療所?住み込みじゃなくて、週に3日だけ通いのお医者さんが来ていた所?」
かつては、土日以外は診療日だったし医者も村民だった。しかし、十数年前にその医者が93歳で大往生して以来、なかなか後続が決まらないまま、医療不足が進んでいったらしい。
「俺が話を受けた時には、週1って言っていたよ」
「……………………」
母も知らなかった爆弾が投下された。
「鳥海さんが困り果てていてね、そう言えば23年前に宇賀田の息子が村から出て行って医者になった気がするって思い出して、実家の方に連絡が行ったんだよ」
「何でキッチリ23年って覚えてるのよ。村民全員のプライバシー検索システムでもあるの?」
「村民の生い立ちは、放っておいても近所の口伝になるものだよ」
普段あまり冗談を言わない父が言うと、山村のサイコホラーにしか聞こえない。
そのホラーな記憶力の持ち主の『鳥海さん』は、天道村の村長だ。
鳥海さんが隠居したくなったら、その息子やら孫やら『次の鳥海さん』が立候補して、やはり対抗馬は出ないので、実質世襲制だ。
世間の常識では政治の腐敗というのだろうが、これが今でも高齢者は村長と書いて『むらおさ』と読む『村の常識』なのだ。
遥か昔から続く、腐敗を通り越して発酵熟成した数々の習わしは、『掟』のひと言に集約される。
どのくらい昔かというと、平家の落人が隠れ住んだのが始まりとか(八百年以上前)、もっと遡って海戦で敗れた安曇氏が志賀川伝いに山奥に逃げてきたとか(継体天皇の時代で約千五百年前)、更に遡って神武天皇に敗北した大和の英雄・長髄彦の一族が逃れてきた(約2700年前。皇紀)とか、諸説有りで何だかもう分からない感じ。
だが、共通項がある。
それは、どのルーツであっても『歴史の敗者』だということだ。
その敗者達が、勝者の追っ手から身を潜め、外部との関わりを最小限にしてきた、山奥の隠れ里。
………の診療所。
「絶対ヤバい案件だ……」
「ん?稔流、どうした?」
「ううん、何も」
こんな強烈な山奥の村に、週3日でも1日でも通いに来たがる医者はいないことくらい、まだ小学5年生の稔流にもわかる。
「今更断って、貴方の実家が村八分にされたら困るしねえ」
母の言葉が怖い。
村八分:火事と葬式 (二分)以外、全ての交流を断たれ除け者にされること
「天道村は空気が綺麗だろう?稔流の喘息にはいいんじゃないかな」
「田舎にも程があるけどね?あの村は、交通事故が二千日以上起ってないのを誇ってるくらい交通量が少ないから、排気ガスなんて有って無いようなものでしょうけどね?」
うわあ、行きたくない。
でも、旅行で行くのは楽しかったなと、稔流は思い出した。
幼い頃の事で記憶は少しぼんやりしているが、毎年近所(半径1キロ以内)の子供達と一緒に遊んでいた。
(あれ……?)
ふと、気付いた。稔流は、自分でも記憶力はいい方だと思う。
最後に天道村に家族で訪れたのは、稔流がまだ5歳、保育園の年長組の夏だ。
それ以来、両親は帰省の止めてしまった。口にすることすら無かったから、今まで稔流も忘れていたのだ。
母がこまめに編集しているアルバムにも、天道村で過ごした時の写真は《《一枚も残っていない》》。
――――どうして、お父さんもお母さんも、村に行くのをやめてしまったんだろう?
きっと、意図的に避けていたのだ。
それなのに、5年の空白を経て稔流が10歳の今になって、父が旅行レベルをすっ飛ばして村に『住む』ことを決めてしまったのは、かなり唐突だ。母が離婚を叫んでも仕方が無い案件だと思う。
母は離婚とは言わなかったが、稔流が中学入試を念頭に勉強を頑張っていたこと、小学校卒業まであと2年を切っているのに、友達と別れなければならないことを、父がうっかり忘れて再就職を決めたことだけは大層怒った。
ふわふわと浮世離れした感じの父は、母にガッツリ叱られて、稔流に平謝り。
喘息と言っても、今まで東京での進学を普通に考えていた程度だ。
父の実家の村八分だけが問題ならば、少し寂しいが父が何年か天道村に単身赴任すれば済む話だ。
学校にも、そういう家庭の子はちらほらいる。子供の教育環境として有利な都会に住んでいるのに、わざわざ僻地への転勤に子供を伴うのは、デメリットが大きすぎる。なのに――――
「稔流、天道村に引っ越してもいい?どうしても嫌なら、お父さんだけ村に行って貰うことになるけど……」
稔流の為に怒った母さえも、家族での引っ越しを望んでいる気配の言葉に、稔流は驚いた。だが、ひとつの確信を持った。
――――お父さんとお母さんは、俺が知らない何かを隠してる。
「いいよ、別に……引っ越しても」
両親が、何を隠しているのかはわからない。でも、両親、村人全てが満足する答えは、『宇賀田一家が村で暮らすこと』なのだ。
満足しない、本当はイヤだと思っている我が侭な子供は、稔流ひとりだけだ。
――――だったら、俺だけ我慢すれば、諦めれば、みんな喜ぶんだ。
「塾の代わりに、通信教育をやりたい。でも、高校と大学は自分で選びたいし、中学を卒業したら村を出る。お父さんもそうだったんだからいいよね?」
これで、引っ越しが決まった。
とても、あっけなく。
父と母は、一体何を避けていたのだろう?多分、稔流が何も思い出さないように、写真まで残さなかった母は……
一体何を怖がっていて、どうして今は怖くないんだろう――――?
「行けば分かるのかな……」
稔流は車の窓を開けて、盛夏の新緑がきらきらと散らす光に目を細めた。
これから向かう秘境の村について、ひとつだけ、稔流がはっきりと覚えている話がある。
天道村には、神様と妖怪がいるのだ。
人間の、とても近くに。
すぐそこに。
☆次回、ヒロイン登場です。お楽しみに!