終章
伸ばした黒髪がまだ床に付かぬ頃、出会った鬼に宵姫は微笑んだ。
竹取の翁の話など、自分にとっては珍しくもない語りを聞くだけで喜び、その後何度も足を運ぶようになった、秘密の客人。彼の名を知らないことに困って、一度訊ねたら煩わしそうにこう言ったのだ。
『わしに名などない。お前の好きに呼ぶがいい』と。
だから、あれやこれやと考えて名付けた。蛍の優しい光を宿した、静かな瞳を見つめながら。
三年もの間呼び続けてきた名は、今ではそれなしで彼を語れないほどにしっくり馴染んでいる。少なくとも、自分はそう思ってきたけれど――最後に、本当の名だけでも聞いておけばよかった。
空ろな意識の中で宵姫が考えたのは、そんな小さな後悔だった。小さいけれど、とても大切な後悔。唯一の、温かな思い出。それがいつもあの鬼と共にあったのだと気づいた時に、こんな風に他の鬼の手にかかり、自分は死ぬのだ。
「蛍、鬼……」
閉じた瞼の隙間から、透明な雫が流れ落ちる。次から次へとあふれ、青白い頬をつたうものは、悲しいほどに熱かった。どれほど気を失っていたのか、あの場ですぐに殺されるのだと覚悟したのに、女の鬼は自分を連れ去り、上空を飛んでいた。
「けいき? 何じゃそれは。まあよい、どうせお前もすぐにわらわの血肉となり、魂さえも消えうせる。最期の時に何を想おうと、わらわの知ったことではないわ」
鬼はそう言って笑った。鋭い爪のある両手は、しっかと宵姫の体を捕らえている。どこか、自身の住処にでも連れて行くつもりなのだろう。これで、人前に醜い死体をさらさないで済む。頭のどこかで、冷めた自分がそう考えていた。
――これで、長かった苦しみが終わる。
終わりにできるのだ。それならそれで、もういいではないか。
誰にも望まれず、求められない自分が、これ以上生きている意味などない。少なくとも、鬼の手にかかって死ねるのなら、それもいいのかもしれない。懐かしい、あの鬼と同じ生き物の手に――。
「冗談ではない。こんな醜い化け物と同じに見られては、さすがのわしも心外だな」
不機嫌そうな低音が、突然耳元で聞こえた。驚愕に振り向くと、明るみがかった東の空に、浅黒い肌と白い長髪が対比をなして見えた。
風にはためくのは、銀の衣。さながら、夜が明けても消えることのない、有明の月のように。口角を上げて慣れ親しんだ笑みを見せた鬼――否、語り喰いは、今度こそはっきりと抗議の言葉を続けた。
「お前がそう思いたいのならそれもいい。そう思ってこれまで言わなかったが、わしはお前たち人間の言う鬼、つまりこういう低能どもとは元々違う存在だ。こいつらは人間の血肉を喜ぶ。あるいは魂までも喰い尽そうとする。わしら語り喰いとは根本的に相反する生き物。語り喰いとは、人間と共にあるもの。語りを喰いながら、人間の持つ心にも触れて生きている。だからこそ、その心が死んではわしらも死んでしまうのだ」
「語り喰い……? そんな、まさか。こんな小娘のために、わらわを――」
図体で言えば有利な立場にいるはずの巨大な鬼女が、驚愕に瞳を見開く。全く動じた様子もなく、片眉だけを上げて、蛍鬼はちらりと相手を見やった。
「死にたくない、とその娘は言っている。小娘であろうが何であろうが、これはわしの大事な語り手なんでな。月光の語り喰いであるわしの舌を満足させられるほどの『語り』を紡げる相手を――別の異形に喰わせてやるつもりなど毛頭ない」
「げ、月光の、語り喰いだと? 特に月光の加護を受け、不思議な力で大陸を瞬き一つする間に駆けることのできるという、あの――? まさか、語り喰いの中でも格段に力あふれたものだという、そんな稀有なる存在がまだ生き残っていたというのか? 人の世が乱れるにつれ、滅びたのでは……それがどうしてこのようなところに」
「ふん、雑魚にしてはよく学んでいるではないか。しかし、わしがどこで何をしようと、下賎のお前になど関係のないこと。わしは誰にも縛られぬ。自分の意思で、生きる地を選ぶのだ」
女の声にも顔にもあらわになった動揺、そして恐怖すらも楽しむように、淡々と蛍鬼は答える。それきり、上空を駆け、飛翔を続けていた鬼女への興味など失ったらしい。その腕に抱えられた小娘――宵姫のほうへ、浅黒い手の平が差し出された。
「死んでもいい、などと己の心に嘘はつくな。生きたいと――誰に見捨てられても生きたいと、そう願うのならこの手を取れ。そしてわしのモノになれ。自分を必要としない世界など、お前のほうから切り捨ててしまえばよいのだ」
言葉に込められた熱。それはそのまま宵姫の心の叫びだった。
生まれたことに意味がないなど、誰に思われても自分だけは思いたくない。こんな自分にでも、与えられた命は平等なはず。精一杯に――命の燃えるままに生きてみたい。何を恐れることもなく、自由に。たとえ一瞬でもそれができるのなら、自分は――。
「生き、たい……生きて、輝く太陽が見たい。日の光を浴びて、胸を張って、緑の野を駆け回るの。花々の匂いをかいで、鳥の声を聞いて、大地の脈動を感じたい。私は――私は、宵姫なんて呼ばれたくない!」
声の限り、今まで生きてきてこんなに大きな声で叫んだことなどないというくらいに――宵姫、いや、そう呼ばれてきた少女は声を張り上げた。青白く透き通るような肌の内に、熱い血が確かに流れているのを感じていた。
全てをあきらめきったつもりで、それでもあきらめられるはずのない希望。たとえ、ほんのわずかな時間でもいい。それが叶うなら、きっと一生後悔はしない。
瞼をぎゅっと閉じ、もう一度開く。先ほどまでとは印象のまるで違う強い瞳が、東の空から姿を見せ始めた太陽を捉えた。世界の始まり、朝の訪れ。闇の支配を打ち消す圧倒的な光を全身に浴びて、少女は語り喰いの手を取った。
刹那、つながれた手を通ってまばゆい光が四方八方に飛散していく。あまりのまぶしさに目を閉じた彼女が次に開いた視界には、女の鬼の姿も、眼下に広がる京の都すらも映すことはできなかった。
熱が、全身を駆け巡る熱が――少女の体内を焼いていく。今まで体に巣食っていた何かが消えうせ、焦げていく匂いだけがほのかに鼻孔を漂った。苦しみに気を取られたのは一瞬で、すぐに熱も匂いも跡形もなく消えてしまった。だから、気づくのが遅れたのだ。自分が朝焼けの空に蛍鬼と共に浮かんでいることに。
「熱く、ない……苦しくないわ、蛍鬼!」
信じられない、と何度も瞬く黒い瞳を受け止めて、蛍鬼が微笑む。つないだ手はいつのまにか引き寄せられ、次の刹那には彼の腕の中にいた。
「当然だ。お前は既にわしと契約を交わした。人間の身でありながら、人間を苦しめる枠からは外れた命を持ったのだ。つまり、くだらぬ呪いなどにはもう縁がない、ということ」
「くだらぬ、呪い――?」
「そうだ。かの女神の想いを受け継ぐ、とか何とかいう――」
面白くもなさそうに答えた蛍鬼に、目を丸くした少女は笑う。あれほど暗い影が差していた表情が、今では軽い。胸中に様々な感情は残したまま、それでも澄んだ瞳をしていた。
「あれは単なる物語じゃないの。私の病が本当は何だったのかは……」
「わからんぞ? 何せこの世には人間の理解を超えたモノなど星の数ほどあるのだ。わしとてこの地の誕生から知るわけではないからな。お前の語った神々とやらの話が、本当であったとしてもおかしくはない」
楽しげに肩をすくめてみせる蛍鬼。瞬きだけでその問いを頭の中に浸透させていた宵姫の耳に、低い笑い声が届いた。
「所詮、森羅万象など不可解なものに過ぎん。わからぬのなら、好きなように楽しめばいい。それが語り喰いの生き方。そして、たった今からお前も同じだ」
「月光の加護を受けた、力あふれる異形のあなたと――?」
「いかにも。しかし一つだけ正確を期せば、加護を受けているのではない。ただその生の輝きを多少の力に換えて使っているだけだ」
自尊心の高い彼らしい説明にもっともらしく頷いてあげると、蛍鬼は満足げに唇で弧を描いた。
「……どちらの世界でもいいわ。自由に生きていけるのなら。それに私は――たった一人の肉親にさえ捨てられた娘だもの」
長いため息の後、やっとそう言った少女を間近で見下ろしながら、語り喰いはいつもの微笑を頬に載せる。
「そうかな。あやつは式神を隠しておった。お前を餌にあの女を消すつもりかと静観しておったが――どうやらわしの存在も視えておったようだぞ? あるいは、こうなることがわかっていたのかもしれんがな」
「こうなることって……そんな」
「初めは本気でお前を打ち捨てる気かと考えた。しかしすぐに策略の匂いがした。そこにむざむざ嵌ってやるような気がして癪に障ったのだ」
最後はぼやくようにそう言われても、宵姫の耳には入らなかった。まさか、と口の中だけで呟く。ならば、父は――あえて自分を見捨てたふりをしたというのか。宵姫としての自分は鬼にさらわれたことで消え、残ったのは自由で広い、この世界だけ。そこまで知っていて……?
「嘘、嘘だわ……だってあの方には、私を想う気持ちなど」
「さてな。ないのかもしれんし、あるのかもしれん。そんな複雑な人間の心など、わしにはどうでもいいことだ」
「蛍鬼、あなた……」
何もかも知っておきながら、先ほど自分をけしかけたのなら、本当に――彼らしいやり方過ぎて、笑うしかない。それなのに、涙はあとからあとから溢れ出し、瞼に焼きついた父の姿――おそらくは、最後の対面に違いない面影をぼやけさせていった。
あいかわらず何を考えているのか読みにくい顔で、泣きじゃくる少女を困ったように眺めていた蛍鬼は、その想いを腕の力に込めたようだった。まだ涙に濡れた瞳が蛍鬼を見上げる。
「宵姫、とはもう呼ばれたくないと言ったな。ならばこの名のお返しに、今度はわしが新たな名をやろうか」
今までどんなに近くに腰掛けても、こんな風に触れられたことなどなかったのに――契約、という名の一線を超えた今はまた、彼の性格までも変貌したように思える。冷めた仮面の奥に、ひそかに燃える炎を持っているらしいことは、萌黄の瞳に宿る光でわかった。宝を愛でるような手つきで、そっと頬を包む大きな手の平からも。
「今日からお前は、陽姫だ。月光も日の光さえも、全てをその前に跪かせる陽の存在。どうだ、気に入ったか?」
「陽姫……素敵だわ」
艶やかに微笑んだ少女――陽姫の頬は薄紅に染まり、長い黒髪は風に舞い、その名にふさわしい輝きを既に発し始めている。
「それにしてもよかったの? 契約とやらは、私でなくとも他にたくさん――」
語り手となるべき人間はいただろう、そう続けたかった彼女の想いさえも読み取ったのか、蛍鬼はわざとらしく顔をしかめる。
「そうだな――半ば勢いで決めたからな。生涯の契約を交わしたからには、もう他の語り手を探すわけにもいかん。困った困った」
口ではそう言いつつも、その微笑みは自分の判断に後悔しているようには見えない。
「あら、そんなに困るなら、契約は破棄する?」
小首を傾げ、にっこり微笑む陽姫に見上げられ、蛍鬼はあからさまに眉を寄せた。何を言うのか、とでも言いたそうな顔。すぐに打ち消された表情は、いつもの飄々としたものに替わっていく。
「まあ、いい。これでいちいちうまそうな語りを探し歩く手間も省けるというもの。お前の語りも――他の輩に盗られる心配もない」
最後は完全な独り言と化した蛍鬼の言葉は、真っ赤な朝焼けに目を奪われた陽姫には届いていなかった。名も、育った場所も、親も――全ては遠い過去に置いていこう。新たな名のように、自分は生まれ変わるのだ。この、不可思議で優しい語り喰いのそばで。
「ねえ、それで――あなたの本当の名前は、何というの?」
訊ねた声に身をかがめ、そっと囁かれた名。風にさらわれ、あっというまに雲間に運ばれた響きを聞き取った陽姫は、幸せそうに頬を緩ませる。
「嘘つき……やっぱり名前があったのね」
「真の名は契約を交わした語り手にしか教えぬ。だから言わなかった。それに――お前の呼ぶ名も、嫌いではなかったからな」
「どちらで呼んだらいいのかしら」
「どちらでもいい。好きに呼べ」
無表情でにべもなく言う。白髪も、銀の衣も萌黄の瞳も、出会った頃と何も変わらない語り喰い。その心の内に秘められた想いの深さに、どうして今まで気づけなかったのだろう。
――そうね……あの夜、初めて出逢った時からきっと、私も。
手に入るはずがないとあきらめて、焦がれ続けた未来も想いも、彼と共にあったのだ。
「陽姫?」
訝しげに呼ばれ、いたずらっぽく見上げる。ほんの少しだけ、本音を言わない相手に意地悪したくなった。
「……恋なんて、くだらないんじゃなかったの?」
「――恋ではない。『契約』だ」
冗談めかした皮肉に、あくまで澄ましてそう答える。それなのに、次の瞬間彼自身の言葉を裏切るように、突然顎をさらわれた。
異形と人間――否、過去、そうであった少女の影は、朝焼けの空で一つに重なる。初めて交わした口づけは、彼らを照らす太陽よりも熱く、甘いものだった。
了
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