Into a Trance 3月 -2-
何一つとて腑に落ちていない。
それでも一先ず、テツトは、サナを自宅に上げた。風が冷たかったのと、気怠そうに壁に寄りかかって話すサナの姿に気が引っ掛かった。また、父の秀幸の名前の記された封書を差し出されたのも、後押しとなった。
角皿や茶碗を納めた風呂敷を玄関に置きやってから、サナの引きずってきたキャリーケースを持ち上げて、居間に通した。デニムパンツにグレーの上着を羽織ったさっぱりとした装い。キャリーケースにも余計な飾りがなく、ただ使い古されたのか、色が所々に剥げていた。
テーブル側に座布団を敷きやり、彼女を案内する。そのまま自身は台所へと下がった。お湯を沸かしながら、両親に向けてメッセージを送る。一体全体、どういうことだ、と。
――久しぶり、確かに彼女はそう言った。はあ、と間抜けた返事をすることしかテツトにはできなかった。誰だ、と思い出そうにも、棘を帯びた三白眼を携えた少女には、まるで思い当たらない。痺れを切らした彼女が、自ら名乗りを上げた。
それでもテツトには、ピンとは来なかった。「お久しぶりです」と、怪訝な面持ちのまま返事をして、取り敢えずと、入るよう促した。
はっきりと思い出せはしていない。適当な返事をしながら相手をして、台所に逃げ込んだ次第である。
両親へ送ったメッセージには、二つの既読の印がついている。しかし、返答はなかった。手配のメッセージを送っていることから、用事は済んでいてともに帰路についていることは推測できた。スマホの画面を睨んでも、一向に反応を見せない。その前に、ヤカンがけたたましい鳴り声をあげて吹いていた。
テツトは奥歯を軋ませながらも、お茶を入れ、お茶請けに饅頭を用意して、居間に戻っていった。
サナは座布団の上に正座をして居た。背筋をぴんと伸ばして、両手は膝の上に添えるように控えさせている。テーブルの上には、一枚の紙が置かれていた。ちらと横目で見る「広告媒体認定証」と、つい先月に贈収賄で辞職した総務大臣の署名が確認できた。
「どうぞ」
お茶をサナの前に差し出して、テツトは彼女の向かいに座る。広げられている認定証は無視をするに決めた。距離を取りたい案件だとは、直感的に察した。話題にはしない。
「ありがとう」
少し掠れた声としている。ようやくまっとうに彼女の言葉を耳にした。そして、その声音に引っかかった。
十年前に父から相手を頼まれた少女が居た。口数が少なく、顔は伏しがち。どうすれば喜ぶのか。何をするれば楽しいのか、酷く難儀した時を思い出した。
――まさか。
感慨は怪訝に落ちていった。改めて彼女と正対した。
「そうか、テツト君はこう成ったのか」
そう呟きながら、サナの視線はテツトに向けられている。鑑られている。致し方ないと受け止めているが、他の含みがあるようなのが、心を擦った。肩口に揃えた髪に、年頃の少女らしい僅かにだけ丸みを帯びた輪郭。ただ、険を孕んだような瞳が、テツトの心を固くさせた。
「そんな、構えないでよ」
差し出された湯飲みを両手を包むように持ち、ずずと啜り音をたてながら口をつけた。ただすぐさま、スズメのように鳴いて、湯飲みを机に置いた。舌をちろりと出して、顔に皺を寄せている。熱かったのだろう。テツトは黙したまま、台所へ向かい、コップに一杯、氷を浮かした水をもって戻って来た。
「お茶請けのお饅頭はどこの?」
「――鶴屋千年堂」
「あぁ、CMでよく観るヤツだ」
言いながら、大きく口を開けて、饅頭を嚙りつく。
「朝から何も食べてなくってさ。助かったよ」
「はあ、それは何より」
未だにテツトは生返事しかできないでいた。サナは饅頭をぺろりと平らげていた。
玄関先では両親の名前を出した。『桑嶋秀幸様へ』と記された封書も受け取っている。ともに出ていることは伝えている。
「いやあ、参ったよ。正午過ぎについたのに、誰もいなかったものだから」
「それは、申し訳ありません」
「そんな謝らないでよ。何時に着くか、ちゃんと連絡できていなかったのは事実だし」
知っているのは桑嶋家の固定電話。メッセージの登録も交わしていない。メールを送ってみたが、反応がなかった。
「それで、玄関前でずっと待って」
「天気が良かったから、大丈夫かなって思っていたんだけどね。意外と寒かったね。日が暮れてきたら益々寒くなって来たし」
後頭を掻きながら、サナは言った。
「でもそうか。もう十年前か」
「そう、ですね」
氷の浮いた水に舌を入れて冷やしながら、しみじみと呟くサナに対して、テツトは淡と返事をした。思い出しはしたが、だからと言って、それで発展するわけではない。思い出話をしようにも花を咲かせる枝が先ず見当たらない。
「ねぇ、そんな畏まった言い方、止めてよ。同学年なんだし」
「善処します」
唾を飲み込んでから、テツトは返した。サナは非難の声を上げたが、聞こえないふりをした。彼女とは距離を保ちたかった。
怪訝に顔をしかめさせて、サナと相対している。客人の前で不躾であるとは判っていたが、抑えられないでいる。
――果たして彼女は、こんなにも喋るヤツだったか。
テツトが覚えているのは、自身の手に惹かれて、とてとてと最寄りの公園まで着いてくる、口数の少ない少女の姿である。それが今は、身振り手振りを加えて、掠れた声を放ち続けている。記憶の齟齬すら疑っている。ただテツトの記憶には、眼前に座る彼女のような少女を相手にした覚えもない。
「両親ともに遅くなりますけど、宿はどうなって――」
「ここに泊まるよ」
言葉が詰まった。口が硬直して、舌が固まった。
「今日からここにお世話になるんだけど」
顔の色が失せた。思考が止まった。目を丸くして、サナの顔に向けていた。
「ヘンな顔」
サナは唇を歪めさせて笑った。それにつきあえるような心の遊びはテツトにはなかった。
「失礼します」
やっとの思いで声を出して、台所へと下がった。スマホを取り出して、メッセージを確認する。まだ二人からの返信はない。改めて、メッセージを送った。超重要、至急返信と見出しを作って、メッセージの用意ができ次第に、次々と送っていく。指が痛いくなるぐらい早く動かして、機関銃のように送信していた。
既読はつく。返信はただの一つも返ってこない。喉奥が唸り出した。心の冷えとともに、表情が厳しく、熱くなっていくのが判る。
「あの……」
サナが顔を出した。後を追ってきたのだろうか。首だけひょいとだして、テツトの様子を伺っているようであった。
「ゴメンナサイ」
「いや、秋庭さんが謝ることやないから」
「その、もうちょっと食べたい…」
声にもならぬ濁った音が出てきた。
「お代わりをお願いします」
饅頭を乗せていた皿がそっと差し出された。テツトはスマホと頭を垂らして、皿を突き出しているサナの姿を交互に見ながら、徐に皿を受け取った。スマホで時刻を確認すれば、まもなく午後七時を迎えようとしている。
ここでスマホが振るえた。母からのメッセージだった。――父と合流して、食事をしてから帰るとの旨である。秋庭佐那については、帰るまで相手をしておいて、との旨である。その後に父からもメッセージが届いた。――そういうの、得意だろう。スマホを床に叩きつけたくなった。ただサナの眼を気にして、心の奥で感情を刹那の感情をぐっと押し殺しておいた。追撃のように送られてきた小汚いキャラクターのおどけたスタンプには、火薬でも巻かれた心地であった。テツトは腹奥にまで届くほどに大きく呼吸をして、堪えた。
「夕飯でも食べますか?」
「是非にでも」
サナが表情を綻ばせて返事をする。それでも三白眼が残っていた。
「簡単なものしか用意できへんけど」
「ぶぶ漬けでもってことかな」
半眼になって、サナを睨んだ。彼女は眼をぱちくりとまばたかせるぐらいだった。しっかりと用意しようとテツトは決意して、手を洗い、布巾を握った。




