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剥ぎ纏う刻 5月-2-

「私はね、テツト君。自分の娘に負けたんだよ」


 そう言い放つ秋庭の瞳は、深い陰りの中にあった。テツトは生まれて初めて、人の暗さを覚えた。返す言葉がない。陰りに飲み込まれる。その恐怖ばかりが胸を支配していた。

 目は逸らすことはしなかった。テツトは受け止めようと試みていた。拳の中、掌に爪を突き刺し込んで、震える心を堪えさせた。


 横浜駅にたどり着いたときには、陽光は東の空の高くにあった。テツトは手を組んで、つま先立ちまでするような大きな伸びをした。ごわごわに固まっていた背筋を解すためである。瞼はいまだに重たい。両肩に鉛がのったりと圧し掛かってくるような心地もある。

 約束の時間までは駅最寄りの喫茶店で過ごした。スマホの充電をしながら、一番安いブレンドコーヒーを頼み、机に突っ伏して目を閉じていた。穏やかな音調の選曲が嬉しかった。


 秋庭の両親の顔を、テツトはまるで覚えていない。再会するまでサナの顔も忘れていたのだから、あまり気に留めていなかった。ただメールのやりとりを重ねていくうちに、大人しく薄く笑んでいる壮年の男の顔が思い浮かんでいた。面は細く、ひげは剃り上げ、髪は短く清潔感のある、眼を離せば一時間も待たずに忘れてしまいそうな、男の顔であった。


 横浜駅に戻り、スマホのアプリを確認しながら、歩を進める。雑多に行き交う人々を縫って歩くのはテツトには苦であった。プラットフォームに立つとともに発車のベルが鳴り響いていた。近くの扉から車両に飛び乗って、ようやく一息が吐けた。横浜でこれならば、東京では、とつり革につかまりながらふと思った。

 秋庭の父は東京に本社を構える商社に勤めていると、父秀幸から聞いている。毎朝毎晩、この電車にすし詰めとなって揺られて、本社通いをしているのだろう。そしてサナの母は近所のクリニックでパートをしているとも。


 サナの実家は、横浜駅から少し離れた寺院の近くに設けられていた。スマホのアプリに従って足を進めていく。目的地の印は急勾配の上り坂であった。陽光をがアスファルトを照らしている。汗がジワリと浮かび、シャツがしっとりと貼りついてくる。サナの実家は瀟洒の家々の並んでいる中の一つであった。

 自身の背丈よりも一回り大きな白い外壁が黄色くくすんでいた。その向こう2階建ての邸宅があった。サナの祖父がローンを組んで建てた、自慢の一軒家であるとまで、テツトは聞いている。サナの父は、そのローンと娘の通う山の手の私立女子高の学費、更には大学の費用を見据えて、あくせくと働いているのだろうと、秀幸は言っていた。


「だから骨董は、せめてもの、慰めやろうね」


 掌よりも小さな唐津焼の猪口。そして、親指ほどの金銅鋳造の合掌菩薩。この二つを、秀幸から買ったそうである。菩薩像を購入し、会計を進めている最中、胸前で両手で包み込んでいる姿を見かけたらしい。


「秋庭の爺さんの方がむしろ数寄もんでな。博奕のように起業して、一発当てて、その散財によく買うてくれていたんや」


 しかし、借金もよく作る人でもあったそうで、父から買った骨董を、一年後に売りに来ることもあったそうだ。十年前に桑嶋家を訪れたのは、家族サービスと亡くなった祖父の遺品の整理のため、その相談のためであった。


「いいヒトやぞ。間違えなく、いいヒトや」


 父は噛むように言った。テツトはメールのやり取りをすることで、ようやく言外を肌で知ることができたような気がした。


 インターフォンを押して、前門を開けてもらう。


「いらっしゃい。すっかり大きくなったね」


 果たして、テツトの想像通りの人物が現れた。ポロシャツにスラックス。白髪交じりで短く清潔に整えられた頭。髭もきれいに剃られている。ただ眼元には煤けたような色合いをテツトは感じ取っていた。


「本日はありがとうございました」


 礼を述べながら、差出ていたカバンから包みを一つ取り出す。挨拶代わりの京都土産である。


「いや、礼を言うのはこちらの方だよ。娘が面倒かけていて」


 深く頭を下げながら、秋庭はテツトが差し出した土産の包みを受け取り、笑みを作った。テツトにはそれがとても薄く弱く思えた。


「でもテツト君のような、真面目な男の子が着いていれば、安心だよ。メールの書き方もすっかり立派な大人だよ。迷惑をかけるけど、娘をよろしく頼むよ」

「ええ。はい」


 一度だけ言葉を飲み込んでから、頷くようにしてテツトは返した。


 居間に案内された。瀟洒な外観とはうって変わって、物のあまりない部屋だった。促されたイスも卓も、卓にしても、飾り気のないシンプルな作りであった。ただ、和室につながっているであろう鴨居の彫や、柱に施された削をみると、サナの祖父の跡を感じられた。


「ゆっくりしてくださいね」


 サナの母だった。髪を短くまとめた、色白の身体つきの細い、女性だった。サナのような三白眼もなく、穏やかな顔つきをしている。

 マイセン磁器のティーカップがテツトの前に差し出される。アールグレイだろうか。芳香が鼻腔を柔らかく撫でていく。花の絵柄や縁周り色付けは掠れているのは、骨董品だからだろう。


「すっかりこんなものしか無くなってしまったけど」

「いえ、ちゃんと実用されるのは、立派やと思います。ありがたく頂戴いたします」


 砂糖で味をならしてから、一口だけ啜る。匂いが身体に広がっていくようであった。


「さて、どこから話せばいいのだろうか」


 秋庭もティーカップに口をつけていた。そして、一つ息を吐いた。テツトにはそれが、それがとても重く感じられた。


 両親は日常に忙殺されていた。祖父母に可愛がられて育ったサナは、幼少の頃から変わった気色があった。殊に祖父は、自身の好みのことばかりをサナに伝えており、サナもそれを喜んで聞いている節があった。


「だからかもしれませんね。サナには同級生の友だちというのが、全くというほどいなかったのですよ」


 話が合わず、興味も合わない。そして祖母が亡くなり、祖父が大病すると、いよいよサナには話し相手が居なくなった。本を読むか、人形で一人遊びをするかが、常だった。


「京都から戻った後に、サナを近くの道場に通わせたんですよ。桑嶋さんからのご提案」

「父の、ですか」


 怪訝に顔をしかめさせて、テツトが訊ねる。秋庭は軽く頷いてから、言葉を続けた。


「心が内側に向かうばかりではバランスが取れない。身体を動かして外に放つこともさせた方が良い、と。道のつくモノなら、尚良いだろうと」

「――口から出まかせに」

「そうですかね。私はその言葉になるほど、と思いましてね」


 呆れて呻いたテツトに対して、秋庭は真摯な言葉を続けていた。

 古武道の道場だった。幕末期の横浜開港に即して、夷狄を迎え撃つために開かれた柔術が源流であった。サナはすっかりこれにのめり込んだ。一つ嵌ればのめり込む気質があり、祖父がそうであり、サナの母もその嫌いがあったそうだ。

また同時にサナは師範から、身体を得よとの言葉に感銘を受けたようであり、自らの頭のイメージと実際の身体の動きの差異を詰めて小さくすることを意識しだした。鏡に向かい立ち、両手を横に広げて、真っすぐであるかを確かめているサナの姿を、秋庭はしばしば見かけていたそうだ。


「その道場で、サナはようやく友だちを見つけたんですよ……」


 そう言いながら、秋庭の声調には影があった。テツトは顔を引き締め直した。


「駒村綾乃ちゃんと言うんだけどね」

「綾乃、ちゃんですか」


 刹那にしてテツトは、細く尖りを帯びた深宮綾乃の眼差しを、脳裏に蘇らせた。


「京都住まいのテツト君なら、知っているだろう」

「ええ。それは、もちろん」


 バス停に掲示されたポスターに、地下鉄のつり広告、地方局のCMにも彼女を採用している企業があった。否が応でも、深宮綾乃の切れ長で端正な顔は眼にする。それも毎日のように。


 仲良く、それこそ姉妹のようであったと、秋庭は面上げながら漏らしていた。小学校中学校と同じ学校であり、登下校も並んで通うほどであった。


「ただ、中三の時に、急に綾乃ちゃんが越してしまって」

「京都に来たんですね」

「それも苗字を変えて、ね」


 発見したのは、サナだった。新聞の小さな記事だった。――美少女高校生、京都でデビュー、との記事だった。カラー写真が添えられていたが、親指にも満たない顔の大きさだった。苗字が違う。たまたま同じ名前だったんだよと秋庭氏はあしらっていたが、サナは険しい顔をしていた。


――嵌ればのめり込む気質。


「京都に行くというのに、時間はかからなかったよ」


 秋庭の力ない笑みは、嘲を多分に含んでいた。テツトの心まで削ってくるようであった。

 テツトは奥歯を噛み締めて、改めて秋庭に相対した。

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