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剥ぎ纏う刻 5月-3-

 西の空が黄色に染まる頃、テツトは小高い丘を登っていた。この丘の頂に、サナの通っていた高校が設けられている。秋庭邸からさらに二駅ほど離れている。テツトは秋庭からの夕食の誘いを辞して、足を延ばしていた。


 すっかり皺だらけになった制服のシャツとスラックス。両膝が固く曲がりにくくなっている。吐く息は身体にはすっかりべったりと重しが載せられているかのようだった。顎に手を添えればぞりぞりと髭が伸びているのが判る。風が吹けば、葉擦れのざわめきが聞こえてきた。微温い風に自分の饐えた臭いが含まれているようであり、テツトは眉間の皺を深くさせていた。

 白いシャツと赤いタイ。紺のスカートを風に遊ばせながら坂を下りてくる生徒の姿があった。昨年の十二月まで、彼女もこの学校の制服を着ていたのだろう。



「怖かったんだよ。自分の娘が」


 秋庭はそう漏らしていた。俯き加減ながらでも頬に刻まれた窪みが見られた。テツトの鼻を劈くほどの嘲の臭いがしていた。


「自分も広告媒体になる。そして京都に行く。そう譲らなかったんだ。頑なにね」

「そうですか」


 新聞記事を見つけてから、サナの意志は決まっていたようだった。一晩中、日付が変わっても、サナは両親を離さなかった。犬歯を剥いて唸るように、あの三白眼で睨み続けていた。了承の言質をとるまで引き下がらず、噛みつき続けていた。


「あの日は参ったよ。ただ広告媒体の試験はハードルが高い。その上、京都のどこに暮らすつもりなのか、何も決まっていない。今年の試験に合格すること。試験の費用は自分で出すこと。そして、三年後には必ず高校を卒業すること。そのための学校、住まいは自分で探すこと。これを条件に出したんだ」


 疲れもあったのだろう。そして、その時、秋庭はサナの本気を見誤っていた。わかったと噛み締めるようにサナは言い放ち、その日は終わった。両親は安堵して寝室に入った。翌朝から、サナの生活習慣が一変していた。


「いずれ無理だと諦めるだろうと、踏んでいたのだけれどもね」


 秋庭の読みは大いに外れた。果たしてサナは試験には合格し、京都の住まいは桑嶋秀幸に連絡を取っていた。秋庭の書斎にある電話帳から調べだしたようだ。なりふり構わず、自らの決めたことに対して、彼女は容赦をしなかった。

 一度だけ、秀幸から秋庭へ電話がかかってきた。サナへの返答を保留しておいて、両親に確認をするためだった。秋庭の答えを聞いて、秀幸は判った、自分に任せろと返事をしたそうである。そのやりとりについては、テツトは全く聞かされていなかった。

高校には夏より殆ど通わなかった。転入先は学校に掛け合った。度々、秋庭は学校に呼ばれた。学校側の忠告や引き止めの言葉に対しては、最終的には、サナの決めたことなので、と応えていた。単位不足のため、進級はできなかったが、秀幸から聞き出したテツトの進学先と繋いでもらい、編入試験を受けた。極めて優秀な結果がでたと、鴨東高校の担当者は驚いていたそうだ。


「そこまでだったのかとは、自分の娘のことながら、思いもよらなかったよ」


――嵌ればのめり込む気質。


 そんな評ではあったが、執念深さに重たい怨も絡まっている。そして、それだけでサナはここまで驀進をしていた。



――テット! ありがとう。


 テツトの耳奥にはゴールデンウイークに聴いた、彼女の掠れた声が甦った。


 昼食はサナの母の手料理がふるまわれた。ちらし寿司であった。自身の取り皿として、渋い鼠色をした唐津焼の平皿が用意された。そこにイクラや錦糸卵、そして赤や白身の魚の切り身が盛られていく。


「祖父の骨董も、使える物はこうして使っていこうとなりまして」

「いえ、唐津は作り手八分、使い手二分と言われていますから、使用される方が良いと思います」


 唐津の器を手に取りながら、テツトは鮮やかな色彩の納まりのよい額縁のように思えていた。甘くも酢でしめた味わいが深く、テツトはゆっくりと食していった。


「祖父の遺産であたふたしている内、娘が大きくなってしまっていた。そんな印象です」

「これも、遺品なのでしょうか」


 唐津の皿を指して、テツトが訊ねる。秋庭は一つ頷いてから答えた。


「秀幸さんが、使える物はとっておきなさいと。生活の彩として使いなさいと仰いまして。本当にカネに困った時に、適当な値で引き取るからと」


 古刹の瓦のようなものを引き取ってもらったが、古伊万里焼の赤絵の皿に、織部焼の菓子鉢はまだ所有しているそうだ。


「卓の上に、なんてことないお菓子でも、余裕と言いますか、遊びができて。眺めているだけで落ち着くんですよね。不思議なことに」


 秋庭はそう続けた。平日はともに職場に出て、家は食事と寝ることぐらいしか時間がなかった。偶の休みの日は、どこかに出かけるわけでもなく、ただ三人とも居間に集まり過ごす時がしばしばあった。その際に、祖父が残した骨董を用いて、ゆっくりとした時間を一緒に過ごす。それが社会人としての秋庭の安らぎであった。


 ようやくテツトは坂道を登り終えた。陽光は西の空で昏く輝いていた。吹いてくる風も、骨に沁みる冷たさを帯びている。カバンの中に押し込んでいた制服の上着を取り出して、袖を通した。襟を正しながら、更に歩を進めていけば、正門があった。


 ミッション系の女子高と、秋庭から聞いている。始業前の朝礼では、机上で組んだ手を置いて、教員の話を訊くような高校であると。


「中学二年の三月まで、綾乃ちゃんと一緒に通うって言っていたのだけどね」


 しかし翌月、駒村綾乃は忽然と姿を消した。そして、翌年の五月に新聞記事の写真に現れた。京都の広告媒体期待の新鋭として。


「中三の時から、暗さはあった。でも、友だちがいなかった幼少の頃を思えば、訊ねれば答えるし、いじめられているワケでもない。道場にも変わらず通い続けていたから、大丈夫だろうと思っていたんだよね」


 それが甘かったのか、と秋庭は囁くように呟いた。


 高校の門は閉じられていた。黒塗りの格子状の厚い門であった。向こうに聳えるように設けられた白亜の校舎も見えていた。夕陽を受けて、影色を伸ばしていた。テツトとの間には鉄格子と冷たい風が流れている。


――サナはここに通っていた。


 格子を掴んで、その奥を睨んだ。彼女の残滓が少しでも感じられれば、そう思った。白いシャツにタイを締めて、紺のスカートを風に靡かせて。肩口まで伸ばした髪と三白眼を携えた少女は、この鉄門の向こう側で、何を抱いていたのだろうかと。

 厳しい眼差しのサナの姿はテツトには容易に想像できた。巌のように固い決意の拳を作り、この鉄門を越えるようと戦っている姿でもあった。

 

「サナは、綾乃に相対した後、何をするつもりなのでしょうかね?」


 一つ一つの語句に注意しながらテツトは秋庭に訪ねる。秋庭は眼を瞑り、腕を組んで、しばらく黙していた。


「そして、それが終わった後、どうするつもりなのでしょうか」


 夕闇の中、テツトの見えているサナは、握り拳を固めたまま、水平線を睨んでいる。見上げるようなことはしない。鉄門の向こう側にいくことしか、考えていない。そう見えた。この学校から出ていく、丘を下り、いち早く京都へ目指す。そういう事なのだろう。


 徐に秋庭の眼が開いた。疲れた色をしていた。そして、小さく横に首を振った。


「そうですか」


 秋庭の答えを飲み込んでから、テツトは応えた。


 しばらくして、テツトは夕食の誘いを辞して、玄関へと向かった。玄関の靴棚の上に、掌よりも小さな菩薩立像が置かれていた。父秀幸から買ったものなのだろう。くすんだ金色に、御顔も擦れて目と鼻の線が残るだけと成っている。秋庭はこれを両手で包む胸前で抱きしめていたと父から聞いた。


「今日はわざわざありがとうね。娘のことも聞けて、安堵したよ」


 そう言いながら見送りをする秋庭の顔を、テツトは改めて見た。こちらこそ有難うございますと感謝を述べながら、昏い隈の陰りが怖さを覚えていた。


 鉄門から踵を返して、丘を下っていく。サナが辞めた高校はもう十分に観察できた。


――やることは、決まった。


 奥歯をぐっと噛めながら、これからの算段を巡らす。

 これから夜がくる。テツトは拳を固めて、坂道を下りていった。


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