姫はお疲れですわ
「ただいま。さて、うちのお姫さまの学園デビューは……」
「兄さまああああーっ!」
カティに連れられて帰宅してからずっと、部屋でどんよりとしていたわたしは、セディール兄さまが帰ってきた物音を聞きつけて玄関ホールに駆け出し、兄さまに飛びついた。
「兄さま兄さま兄さまーっ……」
「おっと、アナベル?」
苦もなくわたしを受け止めた兄さまは、なにも言えずに胸におでこを押しつけてじっとしているわたしの頭を優しく撫でてくれた。
「学園でなにかあったのかな。よしよし」
「……ネコをかぶり疲れた……」
頭の上でぷっと噴き出す声がした。
「そうか。がんばったね」
「うん、とてもがんばったわ」
学園にいる時とは違って、『家』では甘え放題だ。
「学園の手すりを滑り降りたりしなかった?」
笑いを含んだ声が言った。
「さすがにそれはしなかったわ。そこまで急ぐような事態は起こらなかったし……。でも……」
わたしは女の子をぶってしまったの。
右手と心が、まだ痛いの。
言葉に詰まったわたしの頭を撫でながら、セディール兄さまが言った。
「それじゃあ、夕食の前に少し話をしようか。カティ、わたしの部屋にお茶の支度を頼む」
「はい、承知いたしました」
近くに控えていたカティは兄さまに答えて、わたしに「ベルさま、支度ができましたらお部屋に呼びに行きますわ」と言った。
「……肉の下ごしらえをしたかったんだけどな」
「今日はお疲れのようですから、夕食は料理長にお任せしてはいかがでしょうか」
「そうね、そうしようかな」
わたしはカティに言われて、おとなしく自分の部屋に戻った。
そうして、わたしがベッドの上にお行儀悪く転がって悶々としている間に、カティはお茶の支度をしながら学園での出来事の報告をしたのだろう。
カティがわたしを呼びにきたのでセディール兄さまの部屋に行くと、ドアを開けてくれた兄さまはわたしをソファのところに連れて行った。
「ほら、ここにおいで」
「えっ」
先にソファに座ったセディール兄さまが、自分の膝の上をポンポンと叩いたので、わたしはびっくりして目をぱちくりさせた。
膝に座れと?
確かに、リシュレー伯爵家に引き取られてから、イリアスおじさまとセディール兄さまが坂道を転がるようにどんどんわたしを甘やかすようになり(そして、厳しく鍛えてくれるのはフェイお姉さまの役割……って、なんか間違ってない? 気のせい?)溺愛状態に近くなったけれど、子どもじゃあるまいし、さすがに『お膝抱っこ』はされたことがない。
「兄さま、わたしは子どもじゃないわ」
「わたしよりも8つも歳下なのだから、いいと思う」
落ち着いて自信に満ちたセディール兄さまに言われて、一瞬(なるほど、そう言われれば……)と納得してしまいそうになったが。
待って。
よくないでしょ。
これは、禁断の扉よ。
開けたらきっと、わたしの中のなにかが失われるわ。
「アナベル、話をしようって言ったよね?」
出会った頃は無表情な人だったのに、この半年ですっかり柔らかな表情を浮かべるようになり、カティ他使用人一同を驚かせたセディール兄さまが、おいでおいでをしながらわたしの目をじっと見た。
「ええと、お話と膝と、どのような関係が……」
ないよね、絶対ないよね!
「それは、膝に乗った方が話しやすいし……ケイン王子殿下には初対面で抱っこされたくせに……」
すみません、最後の方がよく聞こえませんでした!
でも、いつも優しい大人なセディール兄さまから、不穏な感情が漂ってきたのがわかりました!
「いいから、来なさい」
兄さまが、きっぱりと言った。
「……はい」
よくわからないけれど、兄さまが間違ったことをするはずがないと信じているわたしがおずおずと近寄ると、捕まって素早く膝に乗せられてしまった。何食わぬ顔でお茶を入れているカティに、視線で(さては、兄さまに余計なことを喋ったわね!)と伝えたけれど、完全にスルーされてしまった。
「兄さま、あの……」
「なんだ?」
すぐ近くに、サラサラの銀髪にアイスブルーの瞳をした兄さまの美貌がある。
これは、ゲームの攻略対象者と同じくらいの美貌ではなかろうか?
まさか……セディール兄さまが、ゲームの隠しキャラで、攻略対象者ってことはないよね?
どうしよう、本当に攻略対象者で、兄さまがシェリー・ラスタンを好きになってしまったら……。
そして、今日のシェーゼ・マレイド先生のようにわたしを責めたら……。
わたしは、自分の妄想に怯えてしまった。叱られたらどうしようと、びくびくしてしまう。
「あの……怒ってらっしゃるの?」
「……そうだな」
怒ってたああああーっ!
どうしよう、やっぱりアナベルは嫌われ者の悪役令嬢なんだ!
膝から飛び降りようとしたわたしを、兄さまは逃さないようにぎゅっと捕まえた。
「こら、暴れてはダメだよ」
「だって、兄さまが、怒ってるって」
涙声のわたしに、セディール兄さまは驚いて「アナベルに怒っているのではないよ」と言った。
「わたしが怒っているのは、魔法学の教師に対してだ」
「マレイド先生に?」
「魔法使いとして優れていても、教師としては不適格だな、彼は。まったくもって、けしからん! なってない!」
ようやく暴れるのをやめたわたしを、膝の上に居心地よく座らせてから(降ろしてくれないのね!)セディール兄さまが言った。
「確か、シェーゼ・マレイドは庶民の出だったと思う。だから、今回のような判断ミスを起こしたのだろうね。貴族であったら容易に考えつくことなのに、シェリーという娘に肩入れしてこのような不適切な言動をとってしまうとは」
「じゃあ、兄さまは今回の騒ぎは……」
「アナベルには非はない。適切な対応だったと思うよ」
「……」
わたしは安心して、セディール兄さまの膝の上で力を抜き、そしてちょっぴり泣いた。
そして、その騒ぎの数日後。
わたしはうまくAクラスに収まって、ネコをかぶりつつもクラスメイトや先生方とうまくやって、順調な学園生活を過ごしていたのだけれど。
「男爵家から苦情が?」
「アナベルの行動が不適切で、男爵家の体面を傷つけたと、王家に直訴があったそうだ」
「男爵家が王家に? しかも、伯爵家が後見しているわたしに対して苦情を申し立てたの?」
これは、身分を考えると大変おかしな話なのだ。だから、わたしの世話役であるセディール兄さまも、宰相のイリアスおじさまも首をひねっている。
もしかすると、これはゲームのイベントなのだろうか?
ここはゲーム世界だから、なんらかの矯正力が働いていることが充分考えられる。ただ、まったくゲーム通りというわけではなさそうだ。少なくとも、ケイン王子とフレデリック・ユーゼリスはヒロインの魅力に囚われていないようだ。
「せっかくアナベルが不快な思いをして、事態を収めたというのに、それを無駄にするとは、なんという愚かな振る舞いだ。許しがたいな……」
「……潰すか?」
イリアスおじさまが、低く呟いた。
「おじさま、落ち着いて!」
「うちの可愛いアナベルちゃんの心を煩わせるような男爵家は、このエルスタンにはいらないと思わないか、セディール?」
「不要です」
セディール兄さまが、低く答えた。
「待って! 潰すのは待って! それをされると、わたしの寝覚めがすっごく悪くなるから、ふたりともちょっと落ち着いて!」
わたしは、黒い笑みを交わし合う溺愛親子の前で、手足をバタバタしながら訴えた。
「話し合いで、収めましょう、ね? ね?」
しかし、イリアスおじさまの怒りは収まらない。
「しかし、このような非常識な振る舞いを放置するわけには……くっ、うちのアナベルちゃんに言いがかりをつけるとは、なんという不届きな!」
「アナベルの邪魔をするものは排除していいと、王家からも指示されていますしね。ここはひと思いに……」
マジかーっ!
聞いてないよーっ!
ひと思いに潰さないでーっ!
こんなことで男爵家を潰したら、アナベルは極悪非道なわがまま悪役令嬢になってしまう気がするし、阻止!
わたしは両手の指を胸の前で絡め合わせ、こてんと首を傾げて言った。
「ね、話し合って誤解を解きましょ? おじさま、兄さま、お・ね・が・い♡」
「……」
「……」
ふう、なんとかふたりに思いとどまってもらえたよ!
こんなに面倒をかけてくれたシェリー・ラスタン、そのうち必ず『癒しのお菓子』を作ってもらうからね!
覚悟なさい!




