7.王宮書庫の新管理人
ここなら社会人をやり直すのにちょうどいいかもしれない、と思った。
同僚に裏切られ、信用を失い、何もかもが嫌になっていた俺にとって、「働く」ことは苦痛を伴うものだった。今まで仕事に身を費やしてきたツケなのか、その反動では自分でも驚くほどに大きく、勤労を避け続けた俺は三ヶ月も自堕落な生活を送ってしまった。
けれど、いつまでもダラダラと生きるわけにはいかない。現実として使った分だけ貯金は減るし、無職の期間が延びていくに比例して世間の目も冷たくなる。
働かなければならない、でも働きたくない。俺はそんな思考のループに陥っていた。
だからだろうか。地球に帰る方法が分からない、と判明したその瞬間、俺は「ここでならやり直せるかもしれない」と思った。
誰も俺のことを知らない。すべてを一から学ばなければならないという環境は、社会に絶望して鬱々と腐っていた俺が社会人としてやり直すのに最適だと、そう思ったのだ。
どうすれば地球に帰れるのか、そもそもここはどこなのか、分からないことは山ほどある。
けれど、だからと言って、眼前の現実から目を逸らしていい理由にはならないだろう。
だから、俺はまず、生活の根底である「勤労」を始める。
働くということは生きることだ。どんな国、どんな世界でも、きっとそれだけは変わらないに違いない。
知らない世界の知らない場所では、もらえる仕事の内容が俺の常識とかけ離れていることもあるだろう。
それでもせめて、……せめて、他人を裏切ることをせず、人を貶めるようなことをせず、誠実さには誠実さで返して欲しい。俺が望むのはそれだけだ。
俺は自分の人生を放棄したわけではない。いつか地球に帰れるのなら、その時、社会不適合者になっているようなことがないように。
今はただ、嫌いになりかけた「仕事」に対して、もう一度だけ向きあおうと思う。
*
ドルフの怒涛の質問攻撃がひと段落したのは、太陽が地平線の向こうに沈み始めた頃だった。数少ない窓の外はきれいな夕暮れに染まり、空に浮かぶ雲にも橙色が溶け込んでいる。
出勤初日、昼過ぎに書庫を訪れてからだいたい六時間ほど。休憩を挟まない質問の嵐に俺の体力が尽きようとしていた頃になって、ようやくドルフは「ここまでにしておこうか」と言った。満足そうにニコニコと笑うドルフが憎たらしくて、俺はわざとらしく欠伸をしてやった。初日から休憩なしとは、なかなかに嫌な上司の素質が備わっているんじゃないか?
さて、結局ドルフは、この六時間で地球のエネルギーである「電気」についておおよそを理解してしまった。
もっとも、俺の知識の範囲内ではあるけれど。
この世界では電気の代わりに「カラット」というエネルギーが使われているらしく、そもそも他のエネルギーが存在するという考えすらなかったらしい。話を聞く限り、地球で言うところの発電が魔術にあたるようで、ドルフは魔術のない国からやって来た俺に「電気を生み出す過程」について特に詳しく聞きたがった。専門家ではないから詳細は分からない、と前置きを入れた上で発電方法やその用途について話すと、ドルフは目をきらきらと輝かせて身を乗り出した。その姿はまるで冒険譚の絵本を読み聞かされている子供のようだった。
しかし、非常に残念ながら、俺は基本五教科の中で理科をもっとも苦手としていた。生物や地学、化学と色々な分野があるけれど、俺はそのいずれも好きになれず、高校生の頃にいたっては追試の常習犯だったほどだ。なぜ苦手なのかと聞かれた時に、とにかく興味がなかったから、としか答えようのない俺は、小学校の教科書に載っているようなことでさえ曖昧にしか覚えていない。発電プロセスを思い出せた自分を褒めてやりたいくらいだ。
唯一、得意だった数学を用いればなんとかなるのが物理だったので、試験内容が物理の計算問題だった時だけは追試を逃れることができた。それでも赤点ギリギリだったので、結局のところ俺は理科全般がどうしようもなく不得意なのである。
というわけで、理科全般を苦手とするこの俺が、電気の存在すら知らない相手に、その構造やら原理やら発電の仕組みやらを正しく説明できるわけがない。ドルフが「電気」の全景だけでも掴むことができたのは、きっと彼自身の頭の出来のおかげだろう。俺の説明がお粗末だった自覚はあるので、もしかしたらドルフはかなり頭の良い奴なのかもしれない。
「やー、すっかり遅くなったね。もう夕方だよ」
「本当にな。俺が聞きたかったことは一個も質問できてないのに」
「あ、ごめんごめん。じゃあ明日はそれ用に時間を取ろう。それでいい?」
「いいけど……。っていうか、明日は何時に来ればいいんだ? そもそも、これって本当に仕事になるのか?」
書庫の整理という名目でここに来たにも関わらず、やったことはドルフの話し相手だけ。さすがにこれを仕事と呼んでしまうのは、俺の感覚ではありえないというか、給料をせびるのが申し訳ないレベルである。
しかしドルフは首を大きく傾げた。仕事が楽で何が不満か、とでも言いたげな表情だ。
簡単なだけならともかく、楽すぎる仕事で金をもらうのは申し訳ない……と思うのはもしかしたら日本人独特の感覚なのかもしれない。まあ、人それぞれだろうけど。
「俺と話すのが仕事じゃ嫌?」
「嫌じゃないけど、この国では人と話すだけで本当に仕事になるのか?」
「俺が仕事になるって言えば仕事になるよ」
つまりドルフの匙加減というだけで、それがスタンダードではないんだな。
確かに、一日ぶっ通しで話し続ければそれなりに疲労は溜まるけど、それで給料になる仕事がどれほどあるかと言えば、それは賢人の講演会や客員教授の講義といった、一定の実績を修めた人だけに許されたものだろう。
対して、俺は普通のサラリーマンだっただけの男だ。人に話して金になる知識を持っているわけでもない。
「俺は、地球じゃ当たり前のことを話してるだけなんだ。しかも人に教えられるほど詳しく知ってるわけでもない。それが仕事になるって言われてもな」
俺がドルフに話した内容は、すべて教科書に載っているようなものだ。仮に俺ではない別の誰かだったとしても、だいたい同じことをドルフに教えてやれたと思う。
そう思って肩を竦める。しかしドルフはそれでも納得できないようで、「うーん」と不満気に唸り声をあげた。
「セトが当たり前だと思ってることを、俺は知らないわけでしょ。それどころかこの国の誰も知らないと思う」
「……そうだな」
「それを俺は教えてもらってるんだよ。この国で誰もしらない知識を。それって仕事にならない?」
ドルフの語調が強くなる。
どうやら俺の言い分を飲んでくれる気はないようだ。
「そっちの当たり前がこっちの当たり前じゃなければ、それは有用な知識でしょ。で、その知識を持ってるのは現状セトだけで、俺はその知識を対価を払ってでも知りたいと思ってる。だから仕事として成立するんだよ」
そういうものなのか?
知識、に対する価値なんて、今まで考えたことがないからいまいちピンと来ない。ひとつの分野のスペシャリストでもない俺が教えられる知識なんて本当に限られているのに。
もしかしたら、研究員である彼は「知識」そのものを俺なんかよりずっと重要視しているのかもしれない。なんせ、存在すら知らなかった「電気」の概念を、俺のお粗末な説明で理解してしまうような頭の持ち主であることだし。
ほだされてしまおうかなぁ。なんてことを思っていた、そんな時。
ドルフは、うんうんと唸ってばかりだった俺に「仕方ないなぁ」と言って溜息ひとつ吐いた。
「そんなに気になるなら、元々の名目通りにここの整理も手伝ってよ。本当は俺がやらないとなんだけど、面倒でつい放っておいてるから」
それはドルフの提案だった。
もともと俺は、ここ王宮書庫の整理の仕事を仰せつかっているのだ。だから、エリノアにもらったその仕事をこなしながら、ドルフが聞きたいと思うことを俺が話せばいい。
なるほど、それなら俺も仕事として十分に納得できる。
「ああ、それがいいな。その方が俺の気も楽だし」
「本当? 仕事を増やしたいなんてセトは変わり者だね。俺は助かるからいいんだけど」
「そういう性分なんだよ。ところで、魔術研究所の所員だって言ってたけど、ドルフはここの整理係も兼任してたってことなのか?」
研究員がどうして書庫整理なんかやっているんだろう、と思って聞いてみる。
ドルフは照れたように表情を崩すと、笑いながら頭を掻いた。
「俺は王宮書庫の管理人だよ。この書庫にある本すべてを読んでいいかわりに、どの本がどこにあるかを把握して、貸出を希望する人を案内するのが仕事なんだ。所属は魔術研究所だからそっちの研究もしてるけど、こんなに本があるとつい誘惑がね……。だからセトが片付けてくれるなら助かるなぁ」
「管理人って……。管理されてるような形跡が一切ないんだけど」
「うん、放っておいちゃったから」
あっはっは、と豪快に笑うドルフに反省の色は見られない。
うん、本当に放置していたんだろうなぁ……。無造作に積み重ねられた大量の本や、ほぼ換気されていない室内、埃だらけの窓枠を見れば一目瞭然だ。
ドルフはたぶん、のめり込んだら周りが見えなくなるタイプなのだろう。だから、本を読み始めると部屋の整理なんかどうでもよくなってしまう。そういうタイプは学者に向いているとも言えるから、ドルフはまさに天職を得たというわけだ。
そういう奴、嫌いじゃないけどね。友達にも多かったし。
「分かった。じゃあ、俺はドルフの代わりに書庫の整理と、本棚の管理をする。ドルフは本を読みながら、俺に聞きたいことがあれば聞けばいい。あ、それから、俺の質問にも答えろよ」
「分かった分かった。俺にとっては最高の環境だね。セトを預かってよかったよ」
ニコニコと笑うドルフは非常に機嫌が良い。
こちらとしては、雇ってよかったと思ってもらえるように頑張るしかないな。
「あ、ちなみに給料とか休日とかその辺ってどうなってんだ?」
「んー、適当に決めて申請しておくよ。明日にでも教える」
ずいぶんと適当な対応だ。
とは言え、現代日本の労働環境で鍛えられた俺に合わせろと無茶ぶりをするつもりもないので、俺は「分かった」と言って頷いた。
「とりあえず今日は帰るよ。……詳しくは明日な」
「うん。書庫の管理人業務、明日からよろしくね」
「分かったけど、最初の研修くらいはちゃんとやってくれよ」
「んー、努力します」
ドルフの返事は曖昧だ。これが研究員だというのだから意味がわからない。
帰り際、どこまでも適当なこの上司に、俺は蹴りの真似を一発くれてやった。わざとらしく飛び上がって避けるドルフが楽しそうに笑ったのを見て、なんとなく俺は、「上手くやっていけるかもしれないな」と思った。
こうして俺は、王宮書庫の管理人という仕事を手に入れた。