愛するつもりはない、とインコが申しております【前編】
フレーバー王国では、ストロベリーアイスが国民食とされている。
百二十年前、異世界から召喚された大聖女様が、その製法を伝えたからだ。
王宮の大広間には、大聖女様が召喚された瞬間を描いた巨大な絵画が飾られている。
光り輝く召喚陣。
その中心に立つ、1人の少女。
苺の模様が散りばめられた淡いピンク色のドレスには、幾重にも白いフリルが重なっている。
頭には大きなリボンとレースの飾り。
手には、同じ苺柄の日傘。
そして、もう片方の手にはストロベリーアイス。
少女は、アイスを食べている最中に召喚されたらしい。
何より人々を驚かせたのは、その髪だった。
頭から肩にかけては黒いのに、毛先に向かって淡いピンク色へと変わっている。
当時の王国では、1人の人間の髪が2色に分かれるなど考えられなかった。
人々は、その不思議な髪色こそ神聖な力の証しだと信じた。
召喚に立ち会った宮廷画家たちは、少女の姿を一生懸命描き残した。
黒からピンクへと変わる髪。
苺柄のドレス。
白いフリル。
苺柄の日傘。
そして、ストロベリーアイス。
その絵は後に『大聖女降臨図』と呼ばれ、王宮や神殿に模写が飾られるようになった。
大聖女様は、異世界の華やかな衣装を好んでいたという。
当時の王族は、その姿を大変気に入った。
大聖女様を敬うため、宮廷行事では同じ色と苺柄の衣装を身につけるようになったのが始まりだった。
最初は王族と一部の貴族だけだった。
しかし、王族が着るなら高位貴族も着る。高位貴族が着るなら下位貴族も着る。
やがて淡いピンクと白、そして苺柄は宮廷における礼装の基本となり、百年ほど前には正式な服装規定として定められた。
以来、70歳の侯爵も、50歳の宰相も、歴戦の将軍も、公式行事ではストロベリーミルク色の衣装に苺の刺繍と白いフリルをつけている。
さらに、淡いピンク色の髪を持つ者は、大聖女様の神聖な色を受け継ぐ者として特別に喜ばれた。
もっとも、大聖女様自身がそのような規則を望んだという記録はない。
ただ、長年続いてきた慣習を変える理由もなかった。
貴族にとって服装とは、好みよりも格式を示すものだったからだ。
そんな王国で、アルベルト・メンティス公爵は少々変わった人物として知られていた。
彼が何より愛していたのはストロベリーではない。
チョコミントだった。
*
アルベルト・メンティス公爵が初めてチョコミントを食べたのは、10歳の頃だった。
外国の商人が持ち込んだ珍しいアイスクリームだった。
薄緑色のアイスに細かなチョコレートが混ざっている。
当時のアルベルトは、最初こそ奇妙な色だと思った。
しかし、ひと口食べて考えが変わった。
爽やかな香りの後から、チョコレートの甘さが広がる。
同じひと口の中で、味が変化する。
それが面白かった。
以来、アルベルトはチョコミントを好むようになった。
最初に否定されたのは、その翌年のことだった。
親戚の少女が、アルベルトの皿を見て顔をしかめた。
「それ、歯磨き粉の味じゃない?」
「……食べたことがあるのか?」
「歯磨き粉なら毎日使ってるわよ」
「……確かに」
アルベルトは少し考えた。
「……だが、歯磨き粉にもミントが入っているだけではないか?」
「だから歯磨き粉の味なのよ」
「……では、ミントティーも歯磨き粉の味なのか?」
「それは違うわ!」
「……なぜ?」
少女は答えられなかった。
代わりに、アルベルトの皿を指さした。
「とにかく、私はそんなもの食べたくないわ!」
「……君に食べろとは言っていない」
アルベルトは残りのアイスを食べた。
少女は最後まで不満そうだった。
2度目は、17歳の頃だった。
王宮の茶会で、アルベルトがチョコミントを注文すると、隣にいた青年貴族が笑った。
「メンティス卿、まだチョコミントなど召し上がっているのですか?」
「……ああ」
「大聖女様が愛されたストロベリーアイスを選ぶべきでしょう」
「……ストロベリーも嫌いではない」
「でしたら、なぜ?」
「……チョコミントの方が好きだからだ」
青年は困ったように首を振った。
「貴族として、少々問題があるのではありませんか?」
「……アイスの味で品位が決まるのか?」
「そういう問題ではありません。伝統を尊重する姿勢の問題です」
「……大聖女様は、ほかの味を食べるなと命じたのか?」
「いえ、そうではありませんが」
「……では、何が問題なのだ?」
青年は答えず、別の貴族との会話に戻った。
その日の茶会では、アルベルトの周囲だけ妙に席が空いていた。
3度目は、結婚の話が出始めた頃だった。
ある令嬢が、アルベルトの屋敷を訪れた。
屋敷の門はミントグリーン。
屋根はチョコレートブラウン。
庭には何種類ものミントが植えられている。
令嬢は玄関に入る前から顔をしかめていた。
「本当に、屋敷までチョコミント色なのですね」
「……ああ」
「お好きなものに囲まれて暮らしたいお気持ちは分かりますけれど」
令嬢は少し間を置いた。
「ご自分の好みをそこまで曲げられない方に、家庭を築けるのでしょうか?」
アルベルトは令嬢を見た。
「……どういう意味だ?」
「結婚すれば、奥様の好みにも合わせなければなりませんでしょう?」
「……当然だ」
「でも、チョコミントを愛していらっしゃるのでしょう?」
「……ああ」
「それほど1つのものに執着なさる方が、ほかのものを愛せるのかしら」
アルベルトはしばらく黙っていた。
好きなアイスの話をしていたはずだった。
それがいつの間にか、結婚相手を愛せるかどうかという話になっている。
アルベルトには、そのつながりが理解できなかった。
令嬢は結局、縁談を断った。
理由は、価値観の不一致だった。
それ以来、アルベルトは社交界で自分の好みを話さなくなった。
代わりに、領地でチョコミントの研究を始めた。
屋敷の庭には何種類ものミントを植え、厨房には専用の冷却設備を用意した。
屋敷の内装も、少しずつミントグリーンとチョコレートブラウンに変わっていった。
最初は書斎だけだった。
次に食堂。
その次に廊下。
気づけば屋敷全体がチョコミント色になっていた。
使用人たちは特に反対しなかった。
公爵が仕事を怠るわけではなく、給金も待遇も良かったからだ。
ただし、客人の反応は芳しくなかった。
そのため、屋敷を訪れる貴族は次第に減っていった。
アルベルト自身は、それを残念だとは思わなかった。
人と話すより、チョコミントの配合を考えている方が楽しかったからだ。
そんな公爵が、2羽のインコを飼い始めたのは3年前のことだった。
メスのチョコと、オスのミント。
チョコはチョコレートブラウンを思わせる茶色がかった羽色に、ミントグリーンの差し色。
ミントはミントグリーンを基調とした羽色に、チョコレートブラウンを思わせる模様。
まるで互いの色を交換したような2羽だった。
公爵はその色の組み合わせがすっかり気に入り、2羽を迎えることにした。
名前も、それぞれの羽色からつけたものだった。
チョコは、特によくしゃべる個体だった。
特に、何度も聞いた言葉や、人間が大きく反応した言葉を好んで繰り返す。
一方、ミントはほとんどしゃべらなかった。
その代わり、巣作りに熱心だった。
小枝、紙切れ、布の端、細い紐。
気に入ったものをくわえて運び、決まった場所に並べる。
並べたものを人間が動かすと、すぐに元の位置へ戻した。
ミントが最初に選んだ場所は、公爵の書斎だった。
理由は簡単だった。
チョコがいつも書斎にいるからだ。
ミントはチョコを気に入っていた。
チョコが同じ気持ちかどうかは、分からない。
少なくとも、つがいにはなっていなかった。
しかし、ミントにとっては些細な問題らしかった。
チョコのそばに巣を作れば、いずれ一緒に暮らせる。
そう考えているかのように、3年前から毎日せっせと巣材を運んでいた。
公爵の机の右端には、いつも小枝が並んでいた。
最初は3本だった。
翌日には5本。
1週間後には18本になった。
「……増えているな」
公爵は机の端を見た。
「……ミント」
ミントは19本目を置いた。
コトン。
「……仕事の邪魔になる」
公爵が小枝を少し横へ寄せると、ミントはすぐに飛んできた。
1本ずつ元の位置へ戻していく。
コトン。
コトン。
コトン。
公爵はしばらく眺めていた。
そして、机の右端に積まれた小枝を片づけた。
しかし翌日には、また小枝が並んでいた。
公爵が片づけると、ミントは再び小枝を運んでくる。
その繰り返しだった。
3年の間に、小枝は何度も増え、何度も片づけられた。
それでもミントは諦めず、毎日同じ場所に巣材を運び続けていた。
*
ショコラ・フレジエは、自分の好きな色を知らなかった。
茶色い髪に、茶色い瞳。
名前もショコラ。
生まれたときからチョコレートに縁があるような娘だった。
その名前をつけたのは、祖母だった。
生まれたばかりのショコラを抱いた祖母は、茶色い髪と瞳を見て微笑んだ。
「まあ、チョコレートみたいなかわいい子ね」
そして、ショコラと名づけた。
祖母は、その名前を大変気に入っていた。
しかし、母親は少し複雑だった。
フレーバー王国では、大聖女様の髪に似たピンク色が特別に喜ばれる。
母親も、娘には淡いピンク色の髪が生えてくることを期待していた。
けれど、ショコラの髪は茶色だった。
母親は特に責めることもなかったが、髪を褒めることもなかった。
数年後、妹のフレーズが生まれた。
フレーズの髪は、苺にミルクを混ぜたような淡いピンク色だった。
母親は大喜びした。
「まあ、聖女様と同じ色!」
それから、フレーズの髪は何度も褒められた。
親戚が集まるたびに、母親はフレーズを前に出した。
「この子の髪をご覧になって。大聖女様のようでしょう?」
ショコラは、その隣に立っていた。
ある日、母親が何気なく言った。
「ショコラも、フレーズのような色だったらよかったのにね」
悪意のある言葉ではなかった。
母親は、ただそう思ったことを口にしただけだった。
けれど、ショコラはその言葉を覚えていた。
自分の茶色い髪は、あまり喜ばれるものではないのだろう。
そう思うようになった。
祖母は変わらず、ショコラの髪を褒めてくれた。
「ショコラの髪は、チョコレートみたいで素敵よ」
けれど、ショコラは素直に喜べなかった。
大聖女様の髪はピンク色。
妹の髪もピンク色。
自分だけが茶色い。
その違いが、いつも気になっていた。
妹には毎年、新しいドレスが仕立てられた。
ショコラには妹のお下がりが回ってきた。
妹の方が背が高く、体格もよかったので、仕立て直せば問題なく着られたからだ。
ショコラも、特に不満を言わなかった。
着られる服があるのだから、それで十分だと思っていた。
ただ、妹が仕立屋と楽しそうに話している姿を見て、少し羨ましくなることはあった。
ピンクにも何種類もの色がある。
淡いもの。
濃いもの。
白に近いもの。
妹はその中から、自分に似合う色を選んでいた。
ショコラはいつも、選び終わったドレスを受け取るだけだった。
だから、自分の好きな色を尋ねられても答えられない。
それが特別なことだとは思っていなかった。
結婚相手についても同じだった。
本来、メンティス公爵に嫁ぐ予定だったのは妹のフレーズだった。
しかし、妹は婚約を嫌がった。
「だって、チョコミント公爵ですのよ? お屋敷まで歯磨き粉みたいな色なんですって!」
父も母も困り果てた。
公爵家との縁談を断れば、今後の社交に差し障りが出るかもしれない。
そこで、姉のショコラが代わりに嫁ぐことになった。
ショコラは了承した。
特に断る理由がなかったからだ。
ただ、1つだけ楽しみにしていることがあった。
チョコミントだった。
幼い頃、一度だけチョコミントを食べてみたいと父に頼んだことがある。
しかし、父は顔をしかめた。
「大聖女様の愛されたストロベリーアイスがあるだろう」
それ以来、父には欲しいと言わなくなった。
けれど、祖母は違った。
ある日、祖母がショコラをこっそり街の菓子店へ連れていってくれた。
「お父様には内緒よ」
そう言って、薄緑色のアイスクリームを買ってくれた。
初めて食べたチョコミントは、口の中がすうっと涼しくなって、不思議な味がした。
「どう? おいしい?」
祖母に尋ねられ、ショコラは頷いた。
「うん。チョコレートも入ってる!」
祖母は嬉しそうに笑った。
「ショコラの好きな味が、また1つ増えたわね」
それは、祖母と2人だけの秘密になった。
あれから何年も経っていた。
公爵の屋敷では、あのチョコミントをまた食べられるかもしれない。
ショコラは、それを少し楽しみにしていた。
*
結婚式を数日後に控えたメンティス公爵邸では、王宮から届いた祝いの品を確認していた。
贈り主は国王陛下。
品物は、大聖女様ゆかりの製法で作られたストロベリーアイスだった。
特別な冷却箱に収められ、宮廷料理人からの説明書まで添えられている。
執事は感激していた。
「旦那様、陛下からこのようなお品を賜るとは、大変光栄なことでございます」
公爵は冷却箱の中を見た。
「……ストロベリーアイスか」
「はい。大聖女様が愛された味を再現したものだそうです」
「……そうか」
「今夜のデザートにお出しいたしましょうか?」
「……構わない」
執事は少し安心した。
「旦那様もストロベリーアイスはお好きでございますものね」
「……嫌いではない」
「それは何よりでございます」
「……だが、愛するつもりはない」
執事は顔を上げた。
「……何をでございますか?」
「……ストロベリーアイスを」
執事はしばらく黙っていた。
「旦那様、アイスクリームにそこまでの決意は必要ございません」
「……私が愛しているのはチョコミントだ」
「存じております」
「……ストロベリーもおいしいとは思う」
「はい」
「……だが、愛しているのはチョコミントだ」
「十分に存じております」
そのとき、鳥籠の上に止まっていたチョコが叫んだ。
「アイスルツモリハナイ!」
執事が振り返った。
「チョコ!」
「アイスルツモリハナイ!」
「そのような言葉を覚えてはいけません!」
チョコは羽を広げた。
「アイスルツモリハナイ!」
公爵は小さくため息をついた。
「……覚えてしまったな」
執事は天井を見上げた。
結婚式まで、あと3日。
よりによって、今一番覚えなくてもよい言葉だった。
その横で、ミントが小枝を運んできた。
コトン。
チョコの足元に置く。
「アイスルツモリハナイ!」
ミントは小枝をくわえ直した。
そして、少し離れた場所に置いた。
コトン。
チョコがまた叫んだ。
「アイスルツモリハナイ!」
ミントは、もう1本の小枝も少し離れた場所へ運んだ。
コトン。
どうやら、チョコの言葉を聞くたびに、巣材を置く場所を変えているらしい。
それでも、チョコから見えない場所には運ばなかった。
チョコの姿が見える位置を選び、少しずつ距離を取っていく。
チョコが本当に何を言っているのか、ミントに理解できているのかは分からない。
けれど、3年間続けてきた巣作りをやめる気はないようだった。
*
3日後。
結婚式を終えたショコラは、メンティス公爵邸へやってきた。
屋敷は、想像していたよりも美しかった。
ミントグリーンの門。
チョコレートブラウンの屋根。
窓枠にはミントの葉を模した装飾が施されている。
庭には何種類ものミントが植えられていた。
馬車を降りると、風に乗って爽やかな香りが漂ってきた。
ショコラは思わず深呼吸した。
実家の庭には苺が植えられていた。
春には甘い香りがしたけれど、ここはまったく違う。
少し冷たく、すっきりとした香りだった。
「……素敵」
思わず声が漏れた。
執事が振り返った。
「ショコラ様?」
「いえ、何でもありません」
執事は微笑んだ。
「旦那様が大切にしておられる庭でございます。お気に召したのでしたら、きっとお喜びになります」
ショコラは少し驚いた。
公爵は、そんなにミントが好きなのだろうか。
応接室へ案内されると、大きな鳥籠があった。
扉は開いている。
籠の上には、茶色がかった羽色にミントグリーンの差し色を持つインコと、鮮やかな緑色に茶色がかった模様を持つインコが止まっていた。
「こちらはチョコとミントでございます」
執事が紹介した。
「まあ、かわいい」
ショコラが近づくと、茶色がかった羽色のインコが胸を張った。
「アイスルツモリハナイ!」
ショコラは固まった。
執事も固まった。
チョコだけが満足そうに羽を広げている。
「……ええと」
執事は深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。旦那様が以前お話しになった言葉を覚えてしまいまして」
「……そうなのですね」
ショコラは小さく頷いた。
政略結婚なのだから、愛情を期待してはいけないのだろう。
それは理解していた。
ただ、初対面でインコから宣言されるとは思わなかった。
どう返事をすればよいのか考えていると、緑色のインコが床へ飛び降りた。
ミントだった。
ミントはショコラの靴の周りを歩き、じっと見上げた。
そして、部屋の隅へ向かった。
小さな木片をくわえ、ショコラの靴の前に置いた。
コトン。
「……これは?」
ミントはもう1つ運んできた。
コトン。
ショコラはしゃがんだ。
「私にくれるの?」
ミントは首を傾げた。
3つ目。
コトン。
4つ目。
コトン。
どうやら返事をする気はないらしい。
ショコラが木片を1つ手に取ると、ミントはすぐに飛んできた。
木片をくわえ直し、元の位置へ戻す。
コトン。
「……動かしてはいけないのね」
ミントは満足そうに羽を膨らませた。
ショコラは少し笑ってしまった。
初めて訪れた屋敷で、知らない人ばかりに囲まれている。
これからどんな暮らしになるのかも分からない。
けれど、この小さなインコは、そんなことにはまったく関心がないらしい。
ただ、自分の決めた場所に木片を並べることに夢中だった。
それが何だかおかしかった。
そこへ公爵が入ってきた。
「……ミント」
ミントは動きを止めた。
「……それは私の書斎にあったものではないか?」
ミントはショコラの足元に木片を置いた。
コトン。
公爵は小さくため息をついた。
「……気に入られたようだな」
「そうなのですか?」
「……ああ。以前から私の机に巣材を運んでいる」
「巣を作っているのですか?」
「……ああ。だが、仕事の邪魔になるので片づけている」
「それでは、いつまで経っても完成しないのではありませんか?」
「…………」
公爵はミントを見た。
「……そういうことか」
「巣を作れる場所を用意してあげてはいかがでしょう?」
「……考えておこう」
そのとき、チョコが叫んだ。
「フエテル!」
公爵は鳥籠を見た。
「……お前は黙っていろ」
「アイスルツモリハナイ!」
「……それもだ」
ショコラは思わず笑ってしまった。
公爵は少し驚いたように彼女を見た。
どうやら、笑われることには慣れていないらしい。
ミントはショコラの肩に飛び乗った。
そして、頬に頭を寄せた。
「まあ、甘えん坊さんなのね」
ショコラが指で頭を撫でると、ミントは気持ちよさそうに目を細めた。
その日から、ミントの巣材を運ぶ場所が1つ増えた。
公爵の書斎。
そして、ショコラの部屋。
チョコのそばに巣を作りながら、ショコラの部屋にも小枝を運ぶ。
どうやらミントは、新しくやってきたショコラまで気に入ってしまったらしい。
チョコとはまだつがいにもなっていない。
それなのに、もう1人、巣を用意する相手が増えていた。
ショコラは、ミントがなぜ自分のところにも小枝を運ぶのか知らなかった。
*
結婚生活は、思っていたよりも穏やかに始まった。
公爵は必要なこと以外、あまり話さない。
ショコラの生活に干渉することもなかった。
食事は一緒に取るけれど、会話は少ない。
それでも、不自由は感じなかった。
ショコラの部屋には新しい家具が用意され、侍女も親切だった。
何より、食後には必ずアイスクリームが出された。
ストロベリー。
バニラ。
チョコレート。
グリーンティー。
そして、チョコミント。
厨房では季節の果物を使ったアイスも作られていた。
ショコラは、これほど多くの種類があることに驚いた。
実家では、ほとんどストロベリーアイスしか出されなかったからだ。
最初の晩、ショコラは迷わずチョコミントを選んだ。
ひと口食べると、幼い頃に祖母と食べた味を思い出した。
最初に爽やかな香りが広がり、その後からチョコレートの甘さが追いかけてくる。
あの頃と変わらない、不思議でおいしい味だった。
「……おいしいです」
公爵が顔を上げた。
「……本当に?」
「はい。子どもの頃、祖母に一度だけ食べさせてもらったことがあるんです。また食べたいと思っていました」
公爵は少し嬉しそうだった。
ショコラはもうひと口食べた。
「でも、もう少しチョコレートが多くてもおいしいかもしれませんね」
公爵の手が止まった。
「……チョコレートを?」
「はい」
「……なぜ?」
「私、チョコレートが好きなので」
公爵はしばらく考えた。
「……チョコレートの量を増やすと、ミントの香りとの均衡が崩れる」
「そうなのですか?」
「……ああ。チョコレートは甘味だけではない。カカオの苦味や脂肪分、溶ける速度も影響する。ミントは品種によって香りが異なるし、抽出温度によっても変わる」
そこから、公爵の口数が増えた。
ミントの品種。
チョコレートの配合。
アイスクリームの温度。
香りが口の中で広がる順番。
ショコラは知らないことばかりだったので、つい質問してしまった。
公爵はそのたびに丁寧に答えてくれた。
気づけば、食後のお茶がすっかり冷めていた。
チョコが叫んだ。
「マダハナセル!」
公爵は口を閉じた。
「……失礼した」
「いえ、とても面白かったです」
公爵はショコラを見た。
「……面白い?」
「はい。味をそんなふうに考えたことがありませんでした」
公爵は少し考えた。
「……厨房で試してみるか?」
「よろしいのですか?」
「……ああ」
ショコラは嬉しくなった。
初めて、自分の好きなものを自分で作ってみたいと思った。
*
それから数日、ショコラは厨房に通うようになった。
最初は料理長に教わりながら作っていたのだけれど、次第に自分でも配合を変えるようになった。
ミントの種類を変える。
チョコレートの量を変える。
温度を変える。
同じ材料でも味が変わることが面白かった。
その日も試作を繰り返しているうちに、気づけば3時間も経っていた。
「奥様、そろそろ昼食のお時間でございます」
「あと少しです」
「先ほどもそうおっしゃっていましたが」
「あと少しです」
料理長が困った顔をした。
ショコラは、小さな容器に入った試作品を見つめた。
チョコレートを増やしたチョコミント。
自分の好きな味に近づけたものだった。
ショコラは、チョコレートの味が好きだった。
その味を、アルベルトにももっと好きになってほしかった。
アルベルトは、チョコミントを愛している。
その中に入っているチョコレートを、もう少し増やしてみたかった。
チョコレートの味を、もっと楽しんでもらえたら。
そして、少しだけ考えてしまう。
自分もチョコレートと同じ名前を持っている。
今はまだ無理でも、いつか自分のことも好きになってくれるだろうか。
そんな期待を込めて、ショコラはチョコレートをもう少し加えた。
そこへ公爵がやってきた。
「……何をしている?」
「チョコミントの配合を調べています」
「……これは?」
「チョコレートを増やしたものです」
公爵は小さな容器を手に取った。
ひと口食べる。
そして、眉をひそめた。
「……ショコラ。これは何だ」
「改良したチョコミントです」
「……チョコレートが多すぎる」
「その方がおいしいと思います」
「……ミントの香りが弱い」
「では、ミントをもう少し減らしてみましょうか」
「……なぜ減らす?」
「チョコレートの味が引き立ちます」
「……それでは、ただのチョコアイスではないか」
「ミントも入っています」
「……どこに?」
「入っています!」
公爵は容器を置いた。
「……これは、私の愛するチョコミントではない」
ショコラの胸が、少しだけ痛んだ。
公爵は、ただアイスの話をしている。
それは分かっていた。
でも、自分が何度も試して作ったものだった。
公爵に喜んでもらいたかった。
自分の好きなチョコレートも、もう少しだけ好きになってもらいたかった。
その気持ちまで否定されたように感じた。
「……私が作ったものでは、駄目なのですね」
公爵は顔を上げた。
「……そうは言っていない」
「でも、公爵様が愛するのは、決まった配合のチョコミントだけなのでしょう?」
「……それは」
そのとき、チョコが叫んだ。
「アイスルツモリハナイ!」
ショコラは思わず顔を上げた。
結婚した日に聞いた言葉だった。
妻を愛するつもりはない。
そして今は、自分が作ったアイスも愛するつもりはない。
どちらも自分に向けられた言葉のように聞こえた。
「……アイスですら、愛していただけないのですね」
公爵は困惑した。
「……ショコラ?」
「失礼いたします」
ショコラは試作品を片づけて厨房を出た。
公爵が何か言いかけていたけれど、振り返らなかった。
結婚してから初めて、ショコラは公爵の言葉に深く傷ついていた。
けれど、何がこんなにも悲しいのか、自分でもよく分からなかった。
チョコレートの配合を否定されたことだろうか。
それとも、自分の好みを認めてもらえなかったことだろうか。
実家では、自分の好きなものを主張することがほとんどなかった。
妹が好きなものを選び、自分は残ったものを受け取る。
それで何も問題は起きなかった。
けれど、今は違う。
自分で選んだ味を、おいしいと思っている。
それを否定されたことが、こんなにも悲しい。
自分でも驚いた。
*
翌朝。
ショコラのベッド脇のサイドテーブルには、小枝が並んでいた。
1本。
2本。
3本。
ミントが4本目を運んでくる。
コトン。
「……おはよう、ミント」
ミントは首を傾げた。
ショコラは小枝を見つめた。
初めてこの屋敷に来た日も、ミントは同じことをしていた。
あのときは意味が分からなかった。
けれど、公爵から巣を作っているのだと聞いた。
ショコラは、ベッド脇のサイドテーブルをミントのために空けていた。
毎日少しずつ増えていく小枝を、そのままにしていた。
サイドテーブルには、長さも太さも違う小枝が何本も並んでいる。
ショコラはそのうちの1本を手に取った。
するとミントが飛んできた。
小枝をくわえ直し、元の位置に戻す。
コトン。
「……そこがいいのね」
ミントは満足そうに羽を膨らませた。
ショコラは笑った。
ミントは、自分の好きなことをやめない。
誰が何と言っても、小枝を運ぶ。
並べ直されれば、元に戻す。
それが何の役に立つのかは分からない。
でも、ミントは楽しそうだった。
少し羨ましいと思った。
*
その日、公爵とは顔を合わせなかった。
昼食も自室で取った。
公爵から何か言われたわけではない。
ただ、どういう顔をして会えばいいのか分からなかった。
夕方になると、ミントが小枝を運んできた。
コトン。
しばらくして、もう1本。
コトン。
さらにもう1本。
コトン。
「……今日は多いわね」
ミントは返事をしない。
翌朝も同じだった。
小枝を置いては飛んでいく。
ショコラは何となく後を追ってみた。
ミントは廊下を飛び、公爵の書斎へ入った。
開いた扉の隙間から、中が見えた。
公爵の机にも小枝が並んでいる。
以前はチョコのすぐそばにあった小枝が、今は少し離れた場所に集められていた。
それでも、チョコから見える位置だった。
ミントはその中から1本をくわえた。
そして、書斎の外にいるショコラの方へ飛んできた。
コトン。
ショコラの足元に置く。
今度はショコラの部屋へ飛んでいき、そこから小枝をくわえて書斎へ戻っていった。
どうやら、ショコラのいる場所へ小枝を運んでいるらしい。
ミントにとっては、チョコもショコラも大切な相手なのだろう。
書斎から声が聞こえた。
「……ミント。また持っていったのか」
チョコが叫んだ。
「ショコラ、ダイスキ!」
「……黙れ」
「ショコラ、カワイイ!」
「……それも黙れ」
ショコラは思わず立ち止まった。
公爵は、そんなことを言っていたのだろうか。
少なくとも、ショコラには言ったことがない。
ミントが戻ってきた。
今度は小枝ではなく、小さな紙切れをくわえている。
コトン。
ショコラの足元に置いた。
紙には、細かな数字が並んでいた。
チョコレートの割合。
ミントの種類。
温度。
公爵の筆跡だった。
ショコラは紙を拾った。
昨日、自分が作った配合が書かれている。
その横には、別のミントを使う案がいくつも記されていた。
公爵は、ショコラの試作品を調べていたらしい。
ショコラはしばらく紙を見つめていた。
そして、書斎の扉を叩いた。
*
「……ショコラ」
公爵は少し驚いたようだった。
机の上には、いくつもの試作品が並んでいる。
「……これは?」
「……君の配合を試していた」
ショコラは机に近づいた。
「私の配合を?」
「……ああ。チョコレートを増やした場合、ミントの香りをどう残すか考えていた」
公爵は小さな容器を差し出した。
「……食べてみてほしい」
ショコラはスプーンを手に取った。
ひと口。
チョコレートの甘さが広がる。
その後から、爽やかなミントの香りが抜けていった。
「……おいしい」
「……そうか」
「チョコレートが多いのに、ミントの香りもします」
「……ミントの品種を変えた。香りの強いものを使えば、チョコレートを増やしても均衡が取れる」
公爵は少し考えてから続けた。
「……昨日は、すまなかった」
ショコラは顔を上げた。
「……私も、言いすぎました」
「……君の配合を否定するつもりはなかった」
「でも、チョコミントとは呼ばないと」
「……あれは言いすぎた」
公爵はショコラを見た。
「……私は、ミントの香りが好きだ。だから、チョコレートが増えることに抵抗があった」
「私はチョコレートが好きです」
「……知っている」
「でも、公爵様の好きなミントも、おいしいと思っています」
公爵は頷いた。
「……私も、君の好きなチョコレートをもっと知るべきだった」
ショコラは少し笑った。
「では、また一緒に作っていただけますか?」
「……ああ」
そのとき、チョコが叫んだ。
「アイスルツモリハナイ!」
公爵は鳥籠を見た。
「……お前は、いつまでそれを言うつもりだ」
「アイスルツモリハナイ!」
ショコラは笑ってしまった。
「チョコは、よほど気に入っているのですね」
公爵はため息をついた。
「……最初に覚えさせたのが間違いだった」
「公爵様が教えたのですか?」
「……いや、執事との会話を勝手に覚えた」
「どのようなお話だったのですか?」
「……結婚前、陛下から贈られたストロベリーアイスの話だ」
ショコラは目を丸くした。
「……ストロベリーアイスですか?」
「……ああ」
「……では、私のことではなかったのですか?」
「……何が?」
「……愛するつもりはない、と」
公爵は固まった。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「……ストロベリーアイスの話だ」
ショコラは公爵を見つめた。
そして、思わず笑ってしまった。
「……そうだったのですね」
「……なぜ笑う?」
「だって、私、ずっと勘違いしていました」
公爵は少し考えた。
「……私が、君を愛するつもりはないと思っていたのか?」
「……はい」
公爵は目を閉じた。
「……それは、すまなかった」
ショコラは首を横に振った。
「いいえ。私も、確かめればよかったのです」
公爵はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……私は、君を嫌ってはいない」
ショコラは顔を上げた。
「……はい」
「……むしろ、一緒にいる時間は心地よいと思っている」
ショコラは少し頬を赤くした。
「……私もです」
公爵は小さく頷いた。
「……これからも、一緒にチョコミントを作ってくれるか?」
「はい。もちろんです」
公爵は少し考えた。
「……それと、もう1つ」
「何でしょう?」
「……そろそろ、名前で呼んでくれないか」
「……名前、ですか?」
「……ああ。夫婦なのだから」
ショコラは少し頬を赤くした。
「……アルベルト様」
「……ああ」
公爵は小さく頷いた。
チョコが叫んだ。
「アイスルツモリハナイ!」
公爵は鳥籠を見た。
「……それはストロベリーアイスの話だ」
ショコラは笑った。
ミントは、2人の間に小枝を置いた。
コトン。
そして、もう1本取りに行った。
*
それから、公爵とショコラは一緒に過ごす時間が増えた。
朝は庭を歩き、ミントの香りを確かめる。
昼はそれぞれの仕事をする。
夕方になると、厨房で新しいアイスクリームを試すことが増えた。
ショコラはチョコレートの配合を考え、公爵はミントの種類を選ぶ。
ときにはバニラを加えた。
グリーンティーとミントを組み合わせたこともあった。
ストロベリーとチョコレートを合わせたアイスも作った。
どれも同じようにはならなかった。
失敗することもあった。
けれど、ショコラはそれが楽しかった。
公爵も、以前よりよく笑うようになった。
ある日、ショコラは公爵に尋ねた。
「アルベルト様は、どうしてそこまでチョコミントがお好きなのですか?」
公爵は少し考えた。
「……最初は、味が面白かったからだ」
「今は?」
「……自分の好きなものを、好きだと言えるからかもしれない」
ショコラは公爵を見た。
「……好きだと言えることが?」
「……ああ。昔は、チョコミントが好きだと言うたびに否定された」
公爵は小さく笑った。
「……だが、君は否定しなかった」
「おいしかったですから」
「……それが、嬉しかった」
ショコラは少し照れた。
「……私も、嬉しかったです」
「……何が?」
「私の好きな味を、一緒に考えてくださったことです」
公爵は頷いた。
2人はしばらく黙ってアイスを食べた。
その沈黙は、以前のように気まずいものではなかった。
公爵は、ショコラが笑うと自然に目で追うようになっていた。
彼女が厨房にいない日は、何となく物足りない。
食事の席で新しいアイスの話をしない日も、少し寂しく感じる。
そんな自分の変化に、公爵は気づき始めていた。
けれど、それが何なのか、まだ言葉にはできなかった。
ショコラもまた、アルベルトのことを考える時間が増えていた。
新しい配合を思いつくと、真っ先に彼に食べてもらいたくなる。
庭で珍しいミントを見つけると、彼なら何と言うだろうかと考える。
以前は、ただ自分の作ったものを認めてほしかった。
けれど今は、彼が喜ぶ顔を見ること自体が嬉しかった。
*
それから1か月ほど経った頃。
公爵はショコラのドレスを見て尋ねた。
「……その色は好きなのか?」
ショコラはストロベリーミルク色の裾を見下ろした。
「妹のお下がりです」
「……そうか」
「……何色が好きなのか、自分でも分かりません」
口にしてから、ショコラは自分でも驚いた。
好きな色が分からない。
そんなことがあるのだろうか。
妹はいつもピンク色を選んでいた。
父も母も、妹にはその色がよく似合うと言った。
自分には、妹が着なくなった服が回ってきた。
だから、服とはそういうものなのだと思っていた。
与えられたものを着る。
それ以外の選択肢を、考えたこともなかった。
けれど、目の前の公爵は、自分に好きな色を尋ねている。
答えられないことが、少し恥ずかしかった。
公爵はしばらく考えていた。
そして、静かに言った。
「……私も、昔は好きなものを否定されることが多かった」
ショコラは顔を上げた。
「……チョコミントのことですか?」
「……ああ」
公爵は窓の外を見た。
「……皆、ストロベリーアイスが好きだと言う。だから私も同じものを好きになるべきだと」
「……それは、つらかったですね」
「……つらいというより、理解できなかった」
公爵は少し笑った。
「……好きなものが違うだけなのにな」
ショコラは頷いた。
公爵は続けた。
「……私は、君にも同じことをしていた」
「……え?」
「……チョコミントの配合だ。君が好きだと言った味を、私は否定した」
ショコラは黙っていた。
公爵はショコラを見た。
「……だから、君には自分の好きなものを選んでほしい」
ショコラは少し考えた。
「……選んでも、よろしいのですか?」
「……ああ」
公爵は執事を呼んだ。
「仕立屋を呼べ」
「承知いたしました」
「妻のドレスを新調する」
「お色はいかがいたしましょう」
公爵はショコラに尋ねた。
「……何色が好きだ?」
ショコラは首を横に振った。
「……まだ、分かりません」
「……そうか」
公爵は執事に言った。
「色見本をすべて持ってこさせろ」
「すべてでございますか?」
「妻が選ぶ」
*
数日後。
仕立屋が大きな鞄をいくつも持ってやってきた。
ショコラの前には、色とりどりの布が並べられた。
赤、青、黄色、緑。
同じ緑色でも、明るいものから深いものまで何種類もある。
これほど多くの色を一度に見たのは初めてだった。
実家にも仕立屋は来ていた。
ただし、それは妹のドレスを作るためだった。
ショコラはいつも隣で見ているだけだったので、色見本を自分の手で選ぶことはなかった。
妹は迷わなかった。
ストロベリーミルク色が好きだったし、父も母もそれを喜んでいた。
自分も何かを好きだと言えば、同じように喜んでもらえたのだろうか。
考えたことはあったけれど、試したことはなかった。
目の前の色見本に手を伸ばしかけ、ショコラは指を止めた。
どれを選んでもいいと言われると、かえって困ってしまう。
自分で選んだものを、誰かに否定されたらどうしよう。
そんなことを考えている自分に気づき、少し驚いた。
そのとき、ミントが飛んできた。
くちばしには、ミントグリーンの布切れをくわえている。
どうやら、公爵の礼服用に持参された色見本を持ち出してきたらしい。
ミントはショコラの手の上に布を落とした。
コトン。
「……ミント?」
ミントは布をくわえ直し、今度はショコラの膝に置いた。
どうやら、そこに置きたいらしい。
ショコラは布を広げた。
柔らかな緑色だった。
屋敷の庭に植えられたミントの葉よりも少し淡い。
毎朝、窓から見ている庭の色に似ていた。
この屋敷に来てから、ショコラは朝の時間が好きになっていた。
窓を開けるとミントの香りがして、庭では小鳥が鳴いている。
ミントが小枝を運んでくることもある。
実家にいた頃にはなかった、穏やかな時間だった。
ショコラは布を指で撫でた。
「……この色が好きです」
口にしてから、胸の奥が少し温かくなった。
初めて、自分で好きな色を選んだ。
公爵は布を見た。
「……そうか。では、その色にしよう」
それだけだった。
否定も、説教もなかった。
ショコラは、こんなに簡単なことだったのかと思った。
ミントは布の端をくわえ、少しだけ位置を直した。
コトン。
どうやら、まだ並べ方が気に入らないらしい。
ショコラは布を見つめた。
そして、もう1枚、チョコレートブラウンの布を手に取った。
「……この色も、使いたいです」
公爵は少し驚いた。
「……茶色か?」
「はい。私の髪と、同じ色です」
ショコラは微笑んだ。
「今まで、あまり好きではなかったのです。でも、最近は少し好きになりました」
公爵はショコラの髪を見た。
「……私は、最初から好きだった」
ショコラは頬を赤くした。
「……ありがとうございます、アルベルト様」
仕立屋が微笑んだ。
「では、ミントグリーンを基調に、チョコレートブラウンのリボンや刺繍を入れましょうか」
「はい」
公爵は少し考えた。
「……私の礼服も、同じ配色にできるか?」
仕立屋は頷いた。
「もちろんでございます」
「……チョコレートブラウンを基調に、ミントグリーンを入れてほしい」
ショコラは公爵を見た。
「……おそろいですね、アルベルト様」
「……そうだな」
2人は顔を見合わせて微笑んだ。
ショコラは、仕立屋が布を片づけている間も、何度もアルベルトの方を見てしまった。
自分の好きな色を選べたことが嬉しかった。
けれど、それと同じくらい、アルベルトが自分とおそろいの礼服を選んでくれたことが嬉しかった。
その理由を考えると、少しだけ胸が落ち着かなくなった。
*
その夜。
公爵は書斎で仕事をしていた。
机の上には、ショコラが選んだドレスの色見本が置かれている。
ミントグリーンとチョコレートブラウン。
公爵はその2枚を見つめた。
ショコラが初めて自分で選んだ色だった。
彼女は、あのとき本当に嬉しそうだった。
公爵は、その表情を何度も思い出していた。
チョコミントを初めて食べたときの顔。
厨房で試作品を作っているときの真剣な顔。
失敗したときの困った顔。
そして、自分の好きな色を見つけたときの笑顔。
気づけば、彼女のことばかり考えている。
公爵は小さく息を吐いた。
「……そういうことか」
今まで、自分はチョコミントを愛していると言ってきた。
けれど、ショコラと一緒に過ごす時間は、それとはまったく違う。
チョコミントを食べていないときも、彼女のことを考える。
彼女が笑っていると嬉しい。
彼女が悲しんでいると、どうすれば笑顔に戻るのか考えてしまう。
それは、好きなアイスクリームに向ける感情とは違っていた。
公爵は立ち上がった。
そして、ショコラの部屋へ向かった。
*
ショコラは窓辺で本を読んでいた。
けれど、先ほどから同じページを何度も読み返していた。
アルベルトが、自分の髪を好きだと言ってくれた。
初めて会ったときから、そう思っていたのだという。
その言葉を思い出すたびに、頬が熱くなる。
彼に褒めてもらうことが、こんなに嬉しい。
自分が彼をどう思っているのか、もう分かっていた。
ただ、まだ本人に伝える勇気はなかった。
そのとき、扉が叩かれた。
「……アルベルト様?」
公爵が入ってきた。
「……少し、話がある」
「はい」
公爵は椅子に座った。
しばらく黙っていた。
ショコラは不思議そうに見つめた。
「……どうなさいました?」
公爵は静かに言った。
「……私は、君と結婚してよかったと思っている」
ショコラは驚いた。
「……私もです」
公爵は続けた。
「……最初は、政略結婚だった」
「はい」
「……君をよく知らなかったし、どう接すればよいのかも分からなかった」
ショコラは頷いた。
「私も、同じでした」
公爵は少し考えた。
「……だが、今は違う」
ショコラは公爵を見た。
「……君が笑うと、嬉しい。君が悲しんでいると、気になる。君と一緒にいる時間が、何より楽しい」
ショコラの頬が赤くなった。
公爵は、まっすぐ彼女を見つめた。
「……私は、君を愛している」
ショコラはしばらく何も言えなかった。
ずっと、自分には向けられないと思っていた言葉だった。
けれど、今は違う。
自分も同じ気持ちだと、もう知っていた。
ショコラはゆっくりと微笑んだ。
「……私も、アルベルト様を愛しています」
公爵は少し安心したように息を吐いた。
そのとき、窓辺に止まっていたチョコが叫んだ。
「アイスルツモリハナイ!」
公爵は振り返った。
「……それはストロベリーアイスの話だ」
ショコラは笑った。
「もう、分かっています」
公爵はショコラの手を取った。
「……これからも、よろしく頼む」
「はい」
チョコが叫んだ。
「アイシテル!」
公爵は少し驚いた。
「……そんな言葉まで覚えたのか」
ショコラは笑った。
「チョコは本当に覚えるのが早いですね」
ミントは、2人の足元に小枝を置いた。
コトン。
そして、もう1本取りに行った。
どうやら、この屋敷には、愛する相手のそばを離れたくない者が何人もいるらしい。
もっとも、そのうちの1羽が誰を愛しているのかは、まだ誰も知らなかった。
【後編へ続く】




