【第百八十七話の没話公開】地に堕ちた使い猫
埼玉中央総合大学。この、敷地面積だけは無駄に広く、学食の味噌汁が「ほぼただの温かい塩水」であると噂される陸の孤島には、ある不文律が存在した。
「本当にヤバい人外は、コンテナハウスの外にいる」
そして、その「ヤバい人外」の頂点に立つのが、霧ヶ崎神社の境内で、よりによって朝から安いビジネススーツを着て、猫耳と尻尾を丸出しにしたまま、地面に生えたハコベをむしゃむしゃと貪り食っている、一人のウルフマッシュのイケメンであった。
「……にゃ。この、神社の社務所の裏に生えているハコベは、土壌の窒素濃度が絶妙に高いから、葉が柔らかくてとってもテイスティなんだにゃ。主食を雑草に設定することで、僕の胃袋のランニングコストは実質的にゼロになるにゃん。ボソボソ……。これで、今月の手取り二十五万円の給料から、お嫁たん(S14前期シルビア)のパーツ代を支払うための原資が完璧に確保されたにゃ。移動手段としか車を考えていない一般のパンピーには、このハコベの美味さと、お嫁たんへの貢ぎの美学は、一生理解できにゃい……」
「だ、誰だお前はァァァァァァァ!!!???」
突如、霧ヶ崎神社の境内に、鈴木準の、鼓膜を物理的に破壊せんばかりの絶叫が響き渡った。
準は、自分の愛車ノートNISMOの車載工具を、神社の裏山で精神統一するために持ち込もうとしていたが、その途中で、あまりにも異様な「スーツを着て猫耳を揺らしながら雑草を貪るイケメン」と遭遇し、その場で硬直していた。
「な、何なんだお前は! ビジュアルだけを見れば、誰もが振り返るレベルの、流し前髪のウルフマッシュが眩しい超絶イケメンなのに! 行動が完全に野生のヤギ、いや、空腹に耐えかねた野良猫のそれじゃねえか! なんでそんな、顔面偏差値八十の男が、土まみれのハコベを『テイスティ』とか言いながら食べてるんだよ!」
「にゃ。うるさいにゃ」 藤野直人は、スーツの膝についた泥をパタパタと払いながら、ブルーの瞳で冷ややかに準を見下ろした。
「僕ニャンは藤野直人だにゃ。カー雑誌の編集部で働いている、極めて高潔なる走り屋だにゃん。僕にとって、生活水準や生存欲求など、お嫁たんのセッティングの最適化に比べれば、ただのノイズに過ぎないにゃ」
「直人。お前、また我が神聖なる境内で、ハコベを食っておるのか。少しは自重せよ」
奥の和室の障子が開け放たれ、銀色の長い髪を揺らした一尾の守護狐――狭霧が、氷点下の冷気を漂わせながら姿を現した。
狭霧は、一本の狐耳を不快そうにパタパタと動かしながら、直人を冷たい目で見下ろした。
「さ、狭霧様……!」 準が、一瞬にしてスライディング土下座を決め、砂利を撒き散らしながら絶叫した。
「お知り合いですか!? この、明らかに顔面だけは私の『狐耳の向こう側・外伝』のライバルキャラとして登場させたいレベルの、完璧な猫耳ウルフマッシュは! しかし、何ですか、この、中身の歪みっぷりと卑屈な態度から漂う、ドブ川に不法投棄されたプラモデルのような残念さは!」
「因縁の相手じゃ」 狭霧が、深くため息をついた。
「お前たち人間が『藤野直人』と呼ぶこの男、かつては正丸山や川越山がある正丸尾根を守る、神の使い『千弦』であったのだ。あの当時は、月夜に照らされた刀身が瑠璃紺色に反射する、愛刀『玻璃丸』を振るい、山に入り込む本物の悪鬼を完全に断切って祓う、凛とした剣士であったというのに……。我の目が届かぬ間に、走り屋とかいう、山道でタイヤを鳴らして喜ぶ不届き者どもと交流を始め、掟を破って神の使いをクビになり、地に堕ちてからというもの、このような『ハコベを食うグレた元神使』に成り果ててしまったのじゃ。情けないことこの上ない」
「にゃ。千弦なんて古い名前は捨てたにゃ」 直人は、耳の先が黒くなっている白い猫耳を、不機嫌そうにピクピクと動かした。
「正丸峠ができてから、走り屋たちのあの180SXやハチロクのスキール音を聴いた瞬間に、僕の魂のレブリミットは解除されたんだにゃ。山を守るなんていう、非生産的なボランティア活動は、僕の人生のターボチャージャー(過給器)を回す役には立たにゃい。今は、お嫁たんに貢ぎ、正丸の旧道で一般車を愚鈍な邪魔者として排除することだけが、僕の正しいドライビングスタイルだにゃん」
「神の使い、そして元教え子……!」 準は、砂利まみれの床に手をついたまま、ガタガタと震え上がった。
「なんという、なんという強力なライバルキャラ! しかも猫耳ウルフマッシュ! 私の狭霧様への純真な信仰心が、この猫耳男のクズさとビジュアルのギャップによって、物理的にすり潰されそうになっている……!」
その時、神社の鳥居の向こうから、 「ポポポポポポポ……」 と、不自然なほどバラつきのある、アイドリング音が響いてきた。
境内に停められている、一台の白い日産シルビアS14前期。
その横に、真っ赤なセリカZZT231を滑り込ませた加賀練斗が、運転席から降りてきて、冷徹な目でシルビアを見つめた。
「事実だ。あそこに停まっているS14前期シルビア、排気音の周期が完全に狂っている。アイドリングの回転数が不自然に上下し、ECUの燃調マップがエンジンの要求する空燃比と合致していない。吸気マニホールドから二次エアーを吸っているか、あるいは点火時期が異常に進角している。それだけだ」
「にゃに!? 誰だにゃ、その赤いセリカに乗った生意気なパンピーは!」 直人が、ハコベを口からぽろりと落とし、ブルーの瞳を吊り上げて加賀を睨みつけた。
「僕のお嫁たんはね、APEXiのPOWER
FCで完璧に制御してるにゃん! おまけに、東名パワードのPONCAM(五万二千八百円)を貢いだばかりだから、ちょっとアイドリングがバラついてるだけだにゃ! セリカなんていう、おばさん買い物車に乗っているお前に、僕のシルビニャの過給圧の美しさは理解できにゃい!」
「私は加賀だ。お前のシルビアのアイドリングについて、事実を述べたまでだ」 加賀は、直人の侮辱をスルーし、淡々と自己紹介をした。 「PONCAMとPOWER
FC。事実だ。それらは確かにスポーツ走行における定番パーツだが、お前がその十万円以上のパーツを貢ぐために主食をハコベにしているのだとしたら、お前の『家計の燃空比』は完全に狂っている。それだけだ」
「うるさいにゃん! 僕のお嫁たんへの貢ぎの美学を、家計簿の論理で測るなだにゃ!」
直人が、ブルーの瞳をカッと見開いて、ボソボソとした小声の超高速マシンガントークを始めた。
「お嫁たんはね、過走行だけど、僕が毎日、手作業でボディのクリアコートを研磨して、まるで瑠璃紺の光が空中に残るかのような美しさを維持しているんだにゃ。それなのに、一般のパンピーどもは、車をただの移動手段としか思っていにゃい! 存在自体が不快だにゃ! 今すぐ全員、僕の行く手を阻む『悪』として、正丸峠のガードレールに激突して、物理的に排除されるべきだにゃん!」
「お、おい……。こいつ、顔はいいのに、中身が完全に極悪の暴走アイルーに変貌してやがる……」 準が、ドン引きしながら一歩後退りした。
「加賀! こいつ、本当に昔は神の使いだったらしいぞ! 今や、ただの『道交法をゲームのルールだと思っている、危険な猫耳多重債務者』じゃないか!」
「そうなのじゃ……」 狭霧が、頭を抱えて呟いた。
「我の封印が解けた頃には、すでにこのように『にゃーにゃー』と鳴きながら、覆面パトカーからヘラヘラと青切符を受け取るような、完全に終わった男になっておったのだ……」
「にゃ。だったら、僕のお嫁たんの、助手席に乗せてやるにゃ」 直人が、不敵な薄笑いを浮かべながら、スーツのポケットからシルビアのキーを取り出した。
「僕の、完璧なライン取り(スラローム)を、目の前で見せてやるにゃん。一般の、ノロノロ走る愚鈍なファミリーカーどもを、パッシングと鬼クラクションで排除する、僕の『全能感(万能感)』を、お前たち凡百の人間どもに教えてやるにゃ」
五分後。 秩父の、あぜ道とアスファルトが複雑に入り組んだ、道幅の狭い峠道。
加賀のセリカの助手席に準が、そして直人のシルビアの助手席に、なぜか「こいつの危険運転の証拠を記録する」という名目で、狭霧が乗り込んでいた。
「にゃはは! 行くにゃん!」 直人は、ステアリングを握った瞬間、そのブルーの瞳に、不気味なまでの狂気の光を宿らせた。
端整なイケメンの顔が、極度の「キレ症」のそれへと豹変する。
ドゴォォォォォン!!!
シルビアが、東名PONCAMによる不規則なアイドリングから、一気にレッドゾーンへと跳ね上がる。
「直人! お前、道幅が狭すぎる! 対向車が来たら、セリカの剛性をもってしても、一瞬でスクラップになるぞ!」
狭霧が、助手席のドアグリップを、爪を立てて握りしめながら叫んだ。
「にゃに、前を走っているあの、ダイハツのタント……! 制限速度四十キロで走っているなど、僕の行く手を阻む、存在自体が不快なノロノロ運転だにゃ! 排除するにゃぁぁぁ!!!」
パパパパパパン!!!(ウィンカーなしの超高速スラローム) 「ファン、ファファファン!!!」(鬼クラクション連打)
「ひ、ひぃぃぃぃぃ! 直人、お前、ウィンカーも出さずに車列を縫うな! お前のその、危険運転に対する罪悪感のなさは、もはや神の使いではなく、ただの『サイコパス猫又』じゃ!」
狭霧が、一本の狐耳をパタパタと震わせながら、恐怖で大声を上げた。
「事実だ」 後方を、全く同じテンポで追走してきた加賀のセリカの無線から、冷静な声が響いた。
「藤野直人、お前のそのスラロームは、リヤのサイトウロールケージの剛性に頼りすぎている。だが、公道でのそのドライビングは、日本の道路交通法における『あおり運転』に完全に合致する。お前の『全能感』は、ただの自己正当化に過ぎない。それだけだ」
「うるさいにゃ! 法律は守るべき道徳ではなく、警察の網をハックするための『ルール』に過ぎないにゃん! にゃはは!」
その時、後方から、不気味な赤色の光が、サイレンの音とともに迫ってきた。 「ウゥゥゥゥゥゥンンンンン!!!」
「直人! 後ろから、地脈の治安維持部隊(覆面パトカー)が来ているぞ! 今すぐ減速せよ!」 狭霧が叫んだ。
「にゃ。また、ゲームの、新しい障害物が現れたにゃ」
直人は、ヤンキーのように怒鳴り散らすこともなく、まるで「ゲームでちょっと障害物にぶつかって、タイムロスした」くらいの、極めて軽い感覚で、シルビアを路肩へと停車させた。
数分後。 路肩に停められたシルビアの横。
警察官から、静かに青切符(速度超過および車線変更禁止違反)を手渡されている間すら、直人は、終始ヘラヘラとした薄笑いを浮かべていた。
「にゃはは。ちょっとゴールド免許へのアライメントが狂っただけだにゃ。また、ハコベを五キロほど食べて、次の給料日まで食費をハックすれば、この一万二千円の反則金は実質的にゼロになるにゃん」
「反則金は、雑草の摂取量では相殺されぬわ!」 狭霧が、怒りのあまり直人の猫耳を「ぎゅっ」と引っ張った。
「お前、本当に、かつて山を守っていた『千弦』の頃の、あの凛とした剣士の魂を、どこへ捨ててきたのだ! 我は悲しいぞ!」
「にゃ。神の使いをクビになったその日から、僕の『玻璃丸』は、このシルビアの、角度調整用スパナに生まれ変わったんだにゃん」
直人は、ヘラヘラと笑いながら、耳をピクピクと揺らした。
「記録者だから」
パトカーの影から、いつの間にか、カッパを身にまとい、ハンディカメラを回している篠原朱音が姿を現した。
彼女は口の棒付き飴を「レロリ」と舐めながら、無表情でカメラを、青切符を握ったままヘラヘラしている直人の顔へと向けた。
「藤野直人、元・正丸尾根の守護神使『千弦』。現在、手取り二十五万円をシルビアに貢ぎ、ハコベを主食とする、完全にグレた猫耳サイコパスとして活動中。速度超過により、前科リスト三十八ページ目に『神使の交通違反』として追加、PDF化」
「にゃ。記録するなだにゃん。僕の、お嫁たんへの貢ぎの美学が、前科リストという名のパンピーの書類に登録されるのは不快だにゃ」
直人は、そう言って、再びハコベを一口、むしゃむしゃと貪り食うのであった。
朱音は、手にしたペンをくるりと回し、静かにポケットに収めた。




