第1話 僕ニャン×シルビニャ
ep224~のあれの本番
深夜、アパートの敷地全体が軽微な地震に見舞われたかのようにガタガタと小刻みに揺れる。
それは、埼玉南東部某所にある、どこにでもある軽量鉄骨造二階建てアパート「コーポ・ルミナス」に響き渡る、日常の終わりの合図だった。
時刻は午前1時15分。
22号室の住人、藤野直人の帰宅時間である。
ズババババ、ズオオオオオン……!
心臓に直接響くような、品性の欠片もない重低音と爆音。
近隣の犬が一斉に吠え出し、アパートのいくつかの部屋の窓が静かに閉まる音がする。
黄色いスイフトスポーツ(型式:ZC31S)の運転席から走るように這い出てきたのは、白髪で毛先が少し黒い、ウルフマッシュの流し前髪をゆったりと揺らす24歳の男だった。
整った顔立ちに、夜の闇でも妙にキラキラと輝くブルーの瞳。
学歴は難関私立であるH大学社会学部メディア表現学科卒。
職業は、ドリフトやチューニング文化をガッツリ取り扱う狂ったカー雑誌『RED ZONE』を発行する、某S出版社レッドゾーン出版部の新人編集部員。
客観的なステータスだけを見れば、そこそこ優良な若者に見えるかもしれない。
だが、彼はアパートの全住民から「あの人とは関わっちゃダメよ」と子供に言い聞かせられるレベルの、『ホンモノ』であった。
直人はツナギのポケットから、冷え切ったノンアルコールビールの缶を取り出してプルタブを引いた。
「ぷはー! やっぱり仕事終わりのノンアルは最高だにゃ。お酒なんか飲んだら、その瞬間にスイスポに乗れなくなっちゃうにゃ。ビールに何百円も払うくらいなら、その金を全てフューエルワンに注ぎ込むのが真の男だにゃ」
直人は、生活のすべて、いや、人生のすべてが車を中心に回っている。
彼にとって、家は「パーツを保管し、車の下準備をするためのプレハブ」に過ぎず、自分の体は「車を運転し、整備するための有機デバイス」でしかない。
酒は飲まない、タバコも吸わない。なぜならヤニ代を1か月我慢すれば、愛車の胃袋に最高のご馳走である燃料添加剤を丸々一本ぶち込めるからだ。
そんな彼が、ノンアル缶を片手に自分の部屋がある二階の共用外廊下へと階段を上っていく。
その足元には、なぜか車の張り出しサイドステップ左右が、まるで廊下の障害物競争のハードルのように横たわっていた。
さらに22号室のドアの前まで来ると、ガソリンスタンドとオートバックスのピット裏を足して二で割ったような、強烈な鉄臭とオイル臭が漂ってくる。
ガチャ。
隣の23号室のドアが、勢いよく開いた。
そこから出てきたのは、目の下に真っ黒なクマを作った30代のサラリーマン、中島さんだった。
「おい……藤野ォ!!」
中島さんの血走った目が、直人を捉える。
「にゃ? ああ、中島さん。こんばんはだにゃ。まだ起きてたんですか? 夜更かしは美容に良くないにゃ」
「誰のせいで起きてると思ってんだよ!! 毎日毎日、深夜1時過ぎにあの爆音で帰ってきやがって! しかもこれ何だ!!」
中島さんは、自分のドアの前に立てかけられ、ドアの開閉を絶妙に3分の1ほど塞いでいる、傷だらけの黄色いフロントバンパーを指差した。
「ああ、これは僕のスイスポニャンの『お口』だにゃ。明日、新しいオーナーの元へ旅立つから、今夜は最後の思い出に、僕の部屋の前で添い寝させてるんだにゃ。ちょっと中島さんのパーソナルスペースに侵入しちゃったけど、スイスポニャンの最後の夜だし、大目に見てほしいにゃ」
「添い寝させるならお前のベッドに入れろ!! なんで共用廊下に展示してんだよ! 出られねえだろうが! あと、お前の部屋の前、めちゃくちゃガソリンと鉄の臭いがすんだよ! 部屋の中で何やってんだ!」
「にゃ? 部屋の中でスロットルボディをキャブクリーナーでゴシゴシ洗浄してただけだにゃ。いやー、やっぱり細かいところまで手洗いで綺麗にしてあげないと、次のオーナーに失礼だにゃ。あ、でも心配しないで中島さん。僕、風呂キャンだけは絶対に無理な清潔系男子なので、これからお風呂に入ってスッキリするにゃ。あ、水音が少し壁を伝って響くかもしれないけど、それもスイスポニャンへのレクイエムだと思って、子守唄代わりに聴きながら寝るにゃ」
「夜中の1時半にシャワーで壁をドラム缶みたいに響かせるのを子守唄って言うんじゃねえ!! さっさと寝ろ!!」
バタン!! と中島さんのドアが閉まる。
直人は「にゃー、最近の人は風情がないにゃ」と首を傾げ、ノンアル缶を握りしめたまま自室へと入っていった。
直人がそこまでして愛した黄色いスイスポ(ZC31S)だったが、彼は今、重大な決意を胸に秘めていた。
「スイスポニャンはいい子だったにゃ。FFなのにキビキビ走って、僕のわがままなドラテクにも応えてくれたにゃ。でも……でも、僕の魂の深淵にいる何かが、どうしても『FRのケツを滑らせるターボ車』を求めているんだにゃ……!」
直人は社会学部出身の癖に、他人の感情や社会的マナーには1ミリも興味がないが、車の挙動とヤフオクのオークション画面に対しては、天才的な集中力を発揮する。
すでにスイスポは、ヤフオクで「サーキット仕様・部品取りミサイル(※ほぼ魔改造で公道走行は自己責任)」として売り飛ばし、手元には落札された35万円と、なけなしの今月の給料から捻出した15万円、合わせて50万円の軍資金があった。
正直、昨今のドリ車市場だと買えるかも怪しい。
部屋の液晶モニターには、一つのヤフオク画面が開かれている。
『日産 S14シルビア 前期型 ターボ SR20DET 書類あり 丸車』
掲載されている画像には、ボコボコの白いボディに、中途端なだっさいハーフエアロがくっつき、サビと傷にまみれた、見るからに「ドリフトの練習で散々壁にぶつけられました」というボロミサイル仕様のシルビアが写っていた。
「だっさいミサイル仕様にされた可哀想なシルビニャ………僕ニャン仕様にすればきっとシルビニャも喜ぶニャ」
直人のブルーの瞳が、獲物を狙う猛獣のように細められる。
彼が言う「僕ニャン仕様」とは、最近流行りの「スタンス系」や「純正+アルファのハーフエアロ」といった、お上品ぶったぬるいカスタムではない。
「走る機能を捨てて見た目だけ綺麗に取り繕った盆栽なんか、ただの車型の置物だにゃ! ビス止めオーバーフェンダーだのスタンスだの、あんなのカロリーオフのコーラと同じで味が薄いんだにゃ! 車ってのは、地面を削るようなドデカい張り出しエアロに、爆音の極太砲弾マフラー、そしてボンネットを開ければギラギラに輝くエンジンルーム! これこそが、車の生きる道だにゃ!」
オークション終了まで、残り時間10分。
現在の入札価格は38万円。
直人はマウスを握りしめ、画面を凝視する。
その時、入札価格がピカッと動き、40万円に跳ね上がった。
入札者のIDは『stance_stance_99』。
アイコンが「最新のBMWに高級ホイール」。察した。
「スタンス系……!!」
直人の脳裏に、あの小綺麗で、車高だけを限界まで落としてツライチにし、「純正の美しさを活かしました」などとのたまう、軟弱な現代カスタム野郎の顔が(妄想で)浮かび上がった。
「あのハーフエアロ野郎……! シルビニャをあんな『お上品な盆栽』にする気だにゃ!? シルビニャのボディにビスで穴を開けて、泥除けみたいなフェンダーを貼り付ける気だにゃ!? 許さん……絶対に許さんニャ!!」
直人はすぐさま、41万円で入札した。
数秒後、自動延長の赤い文字が点滅する。
ピカッ。
『stance_stance_99』が43万円。
「うにゃーーー! 舐めるなニャン! 44万1000円だにゃ!」
ピカッ。
相手が45万円。
「ぐっ……! これ以上行くと、シルビニャを引き取った後のフューエルワンと、油脂類を一新するための予算が消える……! だが、ここで退いたら、シルビニャが『あの人、僕のボディをお上品に仕上げてイオンモールの駐車場でドヤ顔する気だよ、助けて藤野くん!』って泣き叫ぶのが聞こえるにゃ!」
完全に重度の幻聴であった。
だが、車クズの脳内において、その幻聴は新車のカタログスペックよりも確かな真実だった。
「僕ニャンの全力、受けてみろニャーーー!!」
直人は叫びながら、なけなしの全資金、限界突破の価格を入力し、決定ボタンを叩きつけた。
「50万円ニャン!!!!!」
画面が静止する。
残り秒数がカウントダウンされていく。
3、2、1……。
『落札しました。おめでとうございます!』
直人は両手を天に突き上げた。
「勝った……! 勝ったにゃあああ! 僕ニャンと、シルビニャの、愛の勝利だにゃ!!」
(なお、この入札により、直人の来月の食費は、会社の先輩に缶コーヒーを奢ってもらうか、道端の草をむしるかしか選択肢がなくなったが、彼の脳は車以外の支出をすべて「誤差」として処理するため、全く問題はなかった。)
数日後。
コーポ・ルミナスの前に、巨大な積載車がけたたましいバックブザーを鳴らしながら停車した。
アパートの大家であるおばあさんが、縁側から「何事かいね」と顔を覗かせる。
ガタガタとスロープが下ろされ、そこからゆっくりと白いS14シルビアが姿を現した。
ヤフオクの写真通り、いや、写真以上にボロかった。
ドアはベコベコに凹み、ハーフエアロがタイラップ(結束バンド)で無理やり固定されている。ひしゃげたオーバルマフラー(元)からは、少し白煙の混じった、アイドリングの不安定な排気音が「ボッボッボッ……」と漏れていた。
だが、直人の目には、それがまるで泥を被った純白のペガサスに見えていた。
「シルビニャ……! やっと会えたにゃ。だっさいハーフエアロをまとわされて、よく耐えたにゃ。今すぐ、僕ニャンがその薄汚い殻を破り捨ててあげるからにゃ」
直人は積載車の運転手にサインを済ませると、シルビアを自分の契約駐車場である22番へと収めた。
そしてその瞬間から、彼の「愛車解放運動(ただの深夜のプライベート整備)」が幕を開けた。
ガチャ、ガチャン。
22番の駐車スペースに、直人が部屋から抱えて持ってきた、重たいスチール製の工具箱が置かれる。
そして、彼は当然のように、誰も借りていない両隣の21番と23番の駐車スペースに、外したタイヤや、ジャッキ、そして取り外したシルビアのボロいフロントバンパーを平然と並べ始めた。
駐車場を完全に3台分占拠した状態である。
そこへ、スーツを着た不動産屋の男と、新しくアパートの部屋と駐車場の下見に来た、おとなしそうな若い男性がやってきた。
「ええ、こちらが駐車場になりまして、空いている23番でしたら、お客様のお車もゆったりと――って、ひぃ!?」
不動産屋が悲鳴を上げた。
そこには、白いシルビアの下に潜り込み、下半身だけをはみ出させている直人の姿があった。
ジャッキアップされた車体の下から、台車に乗った直人が「スーーーッ」と滑り出てくる。
ウルフマッシュの白髪はオイルで黒く汚れ、ブルーの瞳だけが不気味に爛々と輝いていた。
「にゃ? 何ですか、人の作業の邪魔をしないでほしいにゃ」
不動産屋は引きつった笑みを浮かべながら言った。
「あ、あの! お兄さん! ここは22番のスペースですよね!? 21番と23番に、なんで外したマフラーとバンパーが散乱してるんですか! 今からこのお客様が23番を契約しようと――」
直人は、不動産屋の隣に立つ若い男性の車に目を向けた。
アパートの前に停められているのは、現行型のピカピカなハイブリッドのプリウスだった。
直人は、あからさまにゴミを見るような目をプリウスに向けた。
「にゃ? お兄さん、あの現行プリウスのオーナーだにゃ?」
「あ、はい……そうですけど」
「お兄さん。悪いことは言わないから、23番は借りない方がいいにゃ」
「えっ? なんでですか?」
直人は立ち上がり、ツナギの汚れをはらいながら、真顔で言った。
「モーターで静かに動く電子制御の箱なんか、ただの移動式洗濯機だにゃ。自分でギヤを選ぶ楽しさも、クラッチを踏みちぎる快感もない退屈なカプセルを隣に置かれたら、シルビニャの野生の魂が曇っちゃうにゃ。それに、僕ニャンは毎日、他のみんなが帰ってくる午後7時か8時くらいに出ていって、みんなが寝静まった夜中の12時半から1時半の間に、重低音と爆音を響かせながら帰ってくるにゃ。そのたびに、僕の極太マフラーから出る排気振動で、お兄さんのプリウスの盗難防止アラームがワンワン鳴り響くことになるにゃ。お互いにとって不幸だにゃ。だから、23番は僕の『パーツ一時保管ロイヤルスペース』として空けておくのが、宇宙の真理ってやつだにゃ」
若い男性は、直人のブルーの瞳の奥にある「本物の狂気」を感じ取り、一歩後退りした。
「……あの、すみません。僕、やっぱり別の不動産屋に行きます。ここ、なんかアパート全体がガソリン臭いし、隣にこんな獣人がいるのはちょっと……」
「お客様!? お待ちください! 21番なら藤野さんのマフラーから少し離れてますからーーー!」
不動産屋の叫びも虚しく、客は脱兎のごとく逃げ去っていった。
直人はフッと鼻で笑った。
「ふぅ、最近の若い者は、車のパッションに耐えるだけの器がないにゃ。まあ、これで23番は当分僕のエアロ置き場として安泰だにゃ」
「藤野さんんんん!!! うちの仲介手数料をどうしてくれるんですかーーー!!」
不動産屋の絶叫を、直人は「にゃーにゃー」と猫の鳴き真似で綺麗にスルーした。
その日の夕方。
直人は、整備で空になったオイルのペール缶と、燃料添加剤の空き缶を両手に抱え、アパートのゴミ捨て場へと向かった。
ちょうど、アパートの目の前にあるコンビニの前に、いつもたむろしている「ヤニカス(と直人が呼んでいる、タバコを吸う近隣住民)」の一人が、缶コーヒーを片手に立っていた。
直人は、このヤニカスたちが大嫌いだった。
「(チッ、またヤニだにゃ。いつも僕の車の近くで煙をプカプカ吸いやがって。あの有害物質がシルビニャのボディに付着したら、コーティングの分子構造が泣き叫ぶんだにゃ。)」
と、心の中で穏やかではない暴言を吐き散らしながら、直人は飲料缶用の回収ネットに、ゴトッと重たいスチール製のペール缶を放り込んだ。
それを見ていたヤニカスが、呆れたように声をかけた。
「おい、兄ちゃん。それペール缶だろ。飲料缶のネットに捨てるんじゃねえよ。回収してくれねえぞ」
直人はゆっくりと振り返り、ブルーの瞳でヤニカスを睨みつけた。
「にゃんだと? お前、今なんと言ったにゃ?」
「いや、だから、ペール缶は飲料缶じゃねえだろって」
「お前、脳みそまでヤニでタールまみれになってるにゃ? これは、僕の愛するシルビニャが、ゴクゴクと美味しく飲み干した『飲み物』の缶だにゃ! シルビニャは僕の家族! 家族が飲んだ缶を、飲料缶の日に出さなくて、いつ出すんだにゃ!? それを飲料缶以外で処理するなんて、シルビニャの尊厳への冒涜だにゃ! お前こそ、そのマイルドセブンの煙を僕のシルビニャに1ミクロンでも付着させたら、砲弾マフラーのテールエンドにその頭をねじ込んで、人間サイレンサーにしてやるにゃ!」
「話が一切通じねえキチガイだ……!!」
ヤニカスは震え上がり、吸い殻を携帯灰皿に入れるのも忘れて逃げ去っていった。
翌朝、そのゴミ捨て場には、直人が出したペール缶に、きっちりと赤い「回収不可」の警告札が貼られてポツンと残されていたが、直人は「ふん、ゴミ回収の奴らも、車へのリスペクトが足りないにゃ」と吐き捨て、二度と回収不可の缶に触れることはなかった。
そして、深夜。
アパートの廊下には、剥ぎ取られただっさいミサイル仕様のハーフエアロが立てかけられ、隣の23号室の中島さんのドアを今度は完全に3分の2ほど塞いでいた。
直人は、シルビアの運転席に滑り込み、新しく取り付けた、出口が太腿ほどの太さがあるメーカー不明の極太砲弾マフラーの感触を確かめる。
「よーし、シルビニャ。僕たちの、本当の始まりだにゃ」
チキチキチキ……と燃料ポンプの作動音が響き、直人がキーを捻る。
キュルキュルキュル、ズバババババババババババ!!!!!!
アパート全体が、今度は軽微な地震ではなく、震度4クラスの直下型地震に見舞われたかのように激しく揺れた。
爆音、そして重低音。
アパートのすべての部屋の電灯が、一斉にカチカチと灯る。
隣の23号室の窓が勢いよく開き、髪を振り乱した中島さんが身を乗り出して絶叫した。
「藤野ォォォォォ!!! いい加減にしろ! あと俺のドアの前のプラスチックをどかせぇぇぇぇ!!!」
だが、直人の耳には、中島さんの悲鳴も、アパートの壁を震わせる怒号も、一切届いていなかった。
あるのは、排気ガスと共に響き渡る、愛車の美しい咆哮だけである。
「いくにゃ、シルビニャ!! 僕ニャンたちの夜は、これからだにゃ!!」
直人は、運転席のホルダーに置いたノンアルコールビールを一気に煽り、ギヤを1速に叩き込む。
クラッチを繋いだ白いシルビアは、盛大に白煙(少しオイルが燃える臭い)を撒き散らしながら、深夜の埼玉の暗闇へと、爆音と共に消え去っていった。
あとに残されたのは、完全にドアを塞がれて外に出られない中島さんの怒号と、ゴミ捨て場に寂しく残された「回収不可」の赤い札が貼られたペール缶だけだった。




