第四話:倉庫掃除
ある日の午後、某S出版社の本社ビル地下にある「総合第一倉庫」に、怒りの咆哮が響き渡っていた。
「粕谷ァ!! お前らのところの編集部が占領しているそのゴミ溜めを、今すぐ1ミリ残らず片付けろ!!」
声を荒らげていたのは、社内でも「仏の顔も一度まで」と噂される常務取締役だった。
常務の指差す先には、かつて「倉庫」と呼ばれていたはずの、今はただのチューニングショップの廃材置き場と化したカオスな空間が広がっていた。
確かに、某S出版社は車雑誌『RED ZONE』以外にも、最先端のトレンドを追うファッション誌、マニア垂涎のフィギュア誌、さらにはピチピチのグラビア雑誌まで手広く展開する大企業である。
しかし、グラビア誌の撮影用小道具や、フィギュアの限定在庫を保管するはずの会社保有の倉庫は、いつの間にか『RED ZONE』編集部によって占拠され、オイルまみれのダンボールや廃棄タイヤで、文字通り物理的に封鎖されていたのだった。
「ちっ……あのお堅い常務め。実車の排気ガスより、グラビアアイドルの吐息の方が価値があるとでも思ってやがるのか」
粕谷編集長はタバコの煙を吐き出しながら悪態をついたが、さすがに役員からの直命令とあっては動かないわけにはいかない。
数分後、倉庫には「締め切り間際だから」と全力で逃げ回っていたレッドゾーン編集部の部下たちが、粕谷の放った凄まじい眼光によって強制招集されていた。
…当然、ウルフマッシュの流し前髪を珍しくヘアバンドでオールバックにまとめ、やる気ゼロの目で台車に腰掛けている藤野直人もその中にいた。
「にゃおーん……僕ニャン、なんでこんな埃っぽい暗がりに幽閉されてるんだにゃ。僕を待っているのは、倉庫のゴミじゃなくて、深夜のバイパスとシルビニャの助手席だけだにゃ」
「うるせえ藤野! 撮影用の機材やバックナンバーを整理するぞ! 終わるまで全員飯抜きだ!」
粕谷の号令のもと、地獄の倉庫清掃が始まった。
最初はブーブーと文句を垂れていた編集部員たちだったが、作業が進むにつれて、倉庫のあちこちから「レッドゾーン編集部」の輝かしい(そして狂った)歴史の遺物が次々と姿を現し始めた。
「おい、これ見ろよ! A80スープラ用の、Veil〇ideの超巨大デビルウィングじゃねえか!」
「うわっ、こっちにはFD3S RX-7用のRE〇宮スリークライトキットが箱入りであるぞ! 今ヤフオクに出したら何十万になるんだこれ!」
「おいおい、こっちはS13用のB〇Sportsのフロントバンパーだ! この地面を殺しそうなバカみたいな張り出し、懐かしすぎるだろ!」
かつての検証企画や、歴代のデモカーから剥ぎ取られたであろう伝説的なお宝パーツが次々と発掘され、さながらチューニング文化の考古学博物館と化した倉庫。
他の部員たちが「うおー! 懐かしい!」と盛り上がっている中、直人は一歩引いた暗がりに立ち、鋭いブルーの瞳を光らせていた。
「ふん、スープラだのセブンだのS13だの、他のやつらは目先のガラクタに惑わされすぎだにゃ。真のハンターは、そんな目立つ場所に置いてある餌には食いつかないにゃ……」
直人は、埃が糸状にねっとりと茶色い粘土のようになって積もっている、倉庫の最深部、まるでナ〇シカの腐海のような瘴気を放つ棚の奥を睨みつけていた。
そこには、重油とチリが混ざり合ってコーティングされた、一際ボロい小さな段ボール箱が押し込まれていた。
その箱の側面には、太い黒マッキーの殴り書きで、こう書かれていた。
『S14』
「……ッ!!」
その3文字が視界に入った瞬間、直人の背骨に電流が走った。
心臓の燃料ポンプが、一瞬でレッドゾーンの毎分8500回転まで跳ね上がる。
「S14……きっとシルビニャのだにゃ……!」
直人は周囲の様子を素早くうかがった。
粕谷編集長たちは、昔のグラビア誌のバックナンバーを見つけて「この年のこの子は最高だった」と職務放棄して盛り上がっている。
今がチャンスだ。
直人は猫のような無音の足取りで棚の奥へ忍び寄り、そのねっとりした茶色い段ボールを引っ張り出した。
箱のガムテープを爪で引き裂き、中身を開ける。
そこに収まっていたのは、埃の隙間から眩いばかりの輝きを放つ、鮮やかな「グリーン」の金属体だった。
「て、TE〇Nの……M〇NO RACING……車高調キット……フルタップ式……単筒式……倒立構造……キャンバー調整式ピロアッパーマウント付き……!!」
直人の脳内で、ドーパミンがダムの崩壊よろしくドバドバと溢れ出した。あまりの快感に白目を剥き、あやうくその場で昇天しかける。
TE〇NのM〇NO RACING。
それは、ストリートでの扱いやすさを完全に投げ打ち、サーキットを速く走るためだけに全ての技術を注ぎ込んだ、TE〇Nの最高峰スポーツスペックである。
しかも、新品同様の超極上コンディション。
現在の直人のシルビアには、前回の無料車検で直人を落とした宿敵でもある、「オイルが全抜けして完全に固着したピンク色の鉄屑(D-〇AX)」が装着されている。
「これがあれば……シルビニャの足回りは完璧に合法でありながら、路面を這うように走る無敵のコーナリングマシンに生まれ変わるにゃ……! お巡りどもの前で、胸を張って車検をパスできる無敵の『緑のやつ』だにゃ!!」
直人の胸の奥から、ドス黒い、しかし純粋すぎる車クズとしての物欲が湧き上がった。
「これを何とかして……僕ニャンのものにしたいにゃ。会社の備品? 知らないにゃ。この箱には『S14』と書いてある。そして僕のシルビアもS14。つまり、これは最初から、僕とシルビニャのために宇宙が用意した運命のプレゼントだにゃ!!」
物欲センサーが限界を突破した直人は、バレずにこの4本の重量物(車高調)をゲッチュするための「超極秘ステルス・テイクアウト作戦」を頭の中で構築し始めた。
しかし、車高調は4本で約20キロ。しかも金属の塊である。
ポケットに入れて持ち帰るなど物理的に不可能だ。
「よし、僕ニャンのツナギの収納力を信じるにゃ……」
直人は、他の部員たちがグラビアアイドルの外国ロケ企画に夢中になっている隙に、箱から1本のフロント用車高調を取り出した。
そして、それを自分のツナギの胸元から、背中へとスライドさせるようにねじ込んだ。
ひんやりとした鋼鉄の冷たさが背中を襲うが、物欲の熱に浮かされた直人には、むしろそれが快感だった。
続いてリア用を左足のスネにタイラップで固定し、もう1本を右足のスネに沿わせるように仕込む。最後の1本は、股の間に絶妙に挟み込んだ。
「ふぅ……完璧だにゃ。僕ニャンのステルス迷彩、これにてコンプリートだにゃ」
全身に4本の極太金属シリンダーを内蔵した直人は、立ち上がった。
だが、その瞬間。
カチャン。ギシシシッ……。
「……にゃっ!?」
車高調の高精度なピロボールと金属ブラケットが擦れ合い、非常にメカニカルで「車好きなら誰もが振り向く」良い音が、倉庫内に響き渡った。
さらに、両足に車高調をギブスのように固定しているため、直人の関節は1ミリも曲がらない。
彼の歩き方は、完全にレトロなSF映画に登場する「壊れかけたロボット」のそれになっていた。
ギギギ……カチャン、ギギギ……。
「おい藤野、何やってんだお前。早くこっちのゴミ袋を――」
粕谷が振り返り、直人の姿を見て言葉を失った。
そこには、髪を振り乱し、顔を青ざめさせながら、膝を一切曲げずに「ロボコップ」のようなすり足で、ギシギシと音を立てながら迫ってくる直人がいた。
「ふ、藤野……? お前、なんだその歩き方は」
「にゃ、にゃにがですか? 僕ニャン、いつも通りの軽快なステップだにゃ」
直人は必死にポーズを取ろうとしたが、股の間に挟んだ倒立式ダンパーが邪魔をして、腰が不自然に45度右にねじれていた。
しかも、ツナギの右袖の隙間から、鮮やかな緑色の減衰力調整ダイヤルが、まるでハイテク武器のようにチラチラと顔を覗かせている。
「お前……なんか体から歩くたびにカチャカチャ金属音がすんのは何だ」
「にゃにを言ってるんですか、粕谷編集長! これは僕ニャンの膝の軟骨が、経年劣化で完全にオイル抜けしてる音だにゃ! ちょっと今、減衰力の調整が狂ってて、関節のヘルニアが限界突破してるだけだにゃ!」
「お前の軟骨は鍛造アルミ製か!? あと、その右足の裾から見えてる鮮やかな緑色のスプリングは何だ!」
「これは……! 僕ニャンの、春のトレンドを取り入れた『T〇INグリーンの靴下』だにゃ! オシャレ最先端だにゃ!」
「車高調のスプリングを靴下にすんな!! お前、それ『S14』の箱の中身だろ!! 剥ぎ取って持って帰ろうとしてんじゃねえよ!!」
「うにゃあああああ!! バレたにゃああああ!!」
直人はツナギの中から車高調の重みに耐えかねて、その場に「カシャァァァン!!」と盛大な金属音を立てて倒れ込んだ。
床の上でカメのように手足をバタつかせ、関節を曲げられない直人は、それでも緑の車高調を抱きしめて涙目で絶叫した。
「嫌だにゃあ!! これをシルビニャに付けないと、僕ニャンはもう二度と車検に通らないにゃ! この緑のやつは僕の運命の足回りにゃ! 粕谷編集長のハゲぇぇぇ!!」
「誰がハゲだ!! 会社の備品をツナギの中に密輸すんな!」
激怒した粕谷編集長によって、直人はその場で捕獲された。
直人は全身を梱包用の太いガムテープでぐるぐる巻きにされて台車の上に固定され、倉庫のゴミ袋を回収するための「人間荷物カート」として夕方まで酷使される羽目になった。
夕方、体中をガムテープのベタベタまみれにされ、ボロボロになってアパートに帰ってきた直人は、廊下に倒れ込んだ。
「あ、あ、足が痛いにゃ……関節の減衰力がゼロだにゃ……」
部屋の前に転がり、冷蔵庫にあったアクの抜けていない冷え切ったタケノコを齧りながら、直人は涙目で呟いた。
「でも……僕ニャンのシルビニャを緑のやつにする計画は、絶対に諦めないにゃ……」
口の中を襲う猛烈なタケノコのエグみと、全身の筋肉痛のダブルパンチで涙をダラダラと流しながらも、直人の狂ったブルーの瞳は、まだ緑色の輝きを追い求めて怪しくギラついているのであった。




