第十一話「落ちる猫と、誰も気づかない夜」
夜中のメゾン・ブランシェは、基本的に静かだ。
静か――のはずだった。
午前二時三十二分。
ドォン!!
鈍い衝撃音が、アパート裏手に響いた。
だが。
誰も気づかなかった。
理由は単純。
203号室、カノはストロングゼロ五本目で爆睡中。
103号室、シホはニコチン満タンで昇天中。
周囲の住人も、だいたい人生に疲れて眠っている。
そして――
落ちた本人すら、意識を失っていた。
事の発端は、エイト君のいつもの深夜活動だった。
「……あっつ……」
改造RX-8のパーツをいじり、興奮冷めやらぬまま、上半身裸で窓際に立つ。
夜風。
心地いい。
「……コーヒー……」
眠気覚まし。
覚醒。
覚醒しすぎ。
そして――
足を滑らせた。
「……あ」
その一音で、すべてが終わった。
重心。
バランス。
窓枠。
猫族の反射神経。
全部、アルコールゼロでも無理な角度。
次の瞬間。
落下。
アパート裏、砂利とコンクリートの境目。
エイト君は、無様な音を立てて墜落した。
ドォン。
後頭部。
肩。
腰。
意識。
全部、消えた。
銀色のRX-8だけが、月明かりに照らされて、無言で佇んでいた。
朝。
午前六時。
大森のおじさん、ゴルフの素振りをしに外へ。
「……ん?」
アパート裏。
猫が落ちてる。
「……?」
近づく。
「……人間だ……いや、獣人だ……」
顔を覗く。
「……エイト君!?」
完全に気絶。
口、半開き。
涎。
変な体勢。
「……生きてるか……?」
恐る恐る、肩を揺する。
「……おーい……」
「……ん……」
「……おお! 生きとる!」
生存確認、完了。
だが、起きない。
「……救急車か……」
サイレンの音で、アパートが目覚める。
「……何事や……」
カノ、二日酔いの頭を抱えながら、外を見る。
担架。
猫。
「……え……」
シホも出てくる。
「……エイト君……?」
大森のおじさん、頭を掻きながら。
「……裏で落ちとった……」
「……落ち……?」
「……二階から……」
「「……」」
一瞬の沈黙。
そして。
「……猫、飛べへんかったんや……」
「……獣人でも……限界ありますね……」
救急隊員が説明。
「軽い脳震盪と全身打撲です。命に別状はありません」
「……良かった……」
誰もが胸を撫で下ろす。
が。
カノ、ぼそり。
「……夜中、なんか音せんかった……?」
シホ、首を振る。
「……タバコ吸って寝ました……」
「……俺も……音楽……」
全員、聞き逃している。
つまり。
エイト君は、約四時間、地面で放置されていた。
大森のおじさん。
「……誰も気づかんかったんか……」
「……はい……」
「……そうか……」
微妙な空気。
午後。
エイト君、包帯ぐるぐるで帰還。
「……俺……落ちたんすか……」
「……落ちた」
「……四時間、放置された」
「……」
沈黙。
「……俺……このアパートで……死んでも……」
「……三時間は気づかれへんな……」
「……っすね……」
事実は重い。
カノ、ストゼロを差し出す。
「……生存祝い」
「……医者に止められたっす……」
「……お前まで健康になるな……」
シホ、タバコをくわえる。
「……皆……死なずに生きてるだけで……奇跡ですね……」
「……ほんまやな……」
夕暮れ。
メゾン・ブランシェ。
誰もが死にかけ、誰もがギリギリ生きている。
それが、ここの日常だった。




