エピローグ
数か月ぶりに見た彼はまるで憑き物が取れたように清々しい顔つきをしていた。
『お久しぶりです、いえ、初めましてと言うべきでしょうか。
蕪城凌佑さん』
「ええ、初めまして。永井さん」
硝子の向こう側で、彼は穏やかに笑っている。
初めての面会で対峙した別人格のアキラでもない。
私は初めて主人格である蕪城凌佑と向き合っていた。
『判決が下されましたが、どう思いますか?』
蕪城は目を細めた。
「ちょっと変な感想になるかもしれないんですけど、
やっと自由になれたような気がするんです」
その言葉を理解するのに、時間はかからなかった。
彼の言う、”自由”とは解離性同一性障害でなくなったことを指しているのだろう。
『もう、あなたの中にアキラさんたちはいないのですね』
私がノートの文字を見せると、蕪城は小さく微笑んだ。
「はい」
『寂しいですか?』
ほんの少しの沈黙の後、彼はまた口を開けた。
「もちろん、寂しくないと言ったら嘘になります。
でも、それよりも安堵の気持ちの方が強いのが正直な気持ちです」
『安堵、ですか?」
「俺は長い間、表に出られませんでした。
他のみんなが俺を守るために、表に出る権利をくれなかった。
最初は守ってくれて嬉しい、ありがたいと思っていた。
けれど、次第に自分は何のために存在するのかわからなくなった」
蕪城は自分の顔を両手で覆う。その動きはまるで自分自身を隠しているように見えた。
顔から両手を離し、彼は悲しそうに笑った。
「何のために生まれてきたのか。
そもそも、自分は本当に主人格なのか?
分からなくなったんです。
…皮肉ですよね。あの事件が起きたからこそ、自分を取り戻すことができたのに」
蕪城は続けた。私はじっと彼の言葉を視る。
「みんながやったことは決して許されることじゃない。
それは十分わかっている。
でも、みんなを生んだのはこの俺自身です」
言葉を選ぶように。
傷口に触れるように。
蕪城はゆっくりと言葉を絞り出した。
「みんなはただ、俺を守りたかっただけ。
俺は逃げ続けた。
苦しみも、
悲しみも、
恐怖も、
全部みんなに押し付けた。
ーーーそれが俺の罪です」
沈黙が落ちる。部屋の中は相変わらず静かだった。私は彼の続きの言葉を待つ。
「だから、俺も罰を受けます。
それが、俺にできる唯一の償いだから」
私は頷いた。
『あなたの言葉を聴かせていただき、ありがとうございました』
「こちらこそ、俺の言葉を視てくれてありがとうございます」
私は頭を下げ、ノートを閉じる。蕪城も小さく会釈した。
硝子一枚隔てた距離は埋まることはない。それでも、私は彼の言葉を視た。
面会室を出ると、空気が変わった。
長い廊下には消毒液の匂いが薄く漂い、靴音だけが白い壁に跳ね返る。
人の人生に触れることは、とても重いーーー。
記者という仕事は人の人生に触れる。生まれたときから今に至るまでの人生をなぞっていく。
言葉を聞くからこそ。言葉を視るからこそ。
だからこそ、記者はいつだって毅然とした態度で向き合わなければならない。
それがどんなに崇高で、残酷な事実であったとしてもだ。
ネットの世界に拡散される無数の情報に流されることなく、事実だけを見極め、自分の頭で、自分の言葉で真実を書く。それが記者なのだ。
数カ月後、控訴は棄却され、判決が覆ることはなかった。
最高裁では一審の判決を支持し、懲役三十五年の刑が確定した。
蕪城は上告しなかった。
よって、懲役三十五年が確定した。
仮釈放の可能性があるとはいえ、蕪城はこれから三十五年間を、刑務所の中で生きていくことになった。
別人格アキラが犯した罪を受け入れ、無骨なコンクリートの部屋の中でその一生を過ごすことになったのだ。
小さな格子の窓からかすかに日差しが差し込んでいる。その光を浴びながら、蕪城は何を思うのだろうか。
あの時、私は彼に「アキラを恨んでいないんですか?」とは聞けなかった。
もし、その質問をしたらきっと、彼は今よりも苦しむことになると思ったから。
自分を守るために生まれた人格、アキラを恨むことなど、できなかったのだろう。
蕪城はアキラの罪を受け入れ、償うことで、別人格の彼らにとっての贖罪になるとも考えたかもしれない。
私は、自分の書いた記事が間違っていたとは思わない。
記事に賛否両論あったことは十分理解している。
称賛も理解も求めていない。ただ、考えてみてほしかっただけなのだ。
この事件は、多くの人間に問いを残したはずだ。
法律とは何か。
心とは何か。
普段は周りに流され、自分の頭で考えようとしない者たちが、初めて本気で考えるきっかけにもなったはずだ。
だから、私はこれからも記事を書き続ける。
報道の力で。
言葉の力で。
世間へ、日本へ、世界へ。
ーー懲役三十五年は、本当に妥当な判決だったのか。
まだ、正解は見つかっていないが、考え続ける。いつか、法律が彼を救うと信じて。
外へ出ると、薄い陽光が地面に落ちていた。私はしばらく空を見上げた。さわさわと風が前髪をそっと揺らす。息を深く吸い込む。草の香りがした。




