第16話 再会の不協和音 ~陽斗視点~
週明けの月曜日。三宮へ向かうポートライナーの窓から見える海は、ひどく平坦に凪いでいた。
アトリエでの一件から二日。週末に想定外のデバッグ作業で精神的なリソースを使い果たした自覚はあったが、職場に向かう足取りはそれほど重くない。
俺がいま身を置いているのは、社員数こそ少ないが、特定分野のシステム構築においては業界内で精鋭集団と目される技術者集団だ。大手企業が喉から手が出るほど欲しがる特許級のアルゴリズムを保持し、その保守・運用までもを一手に引き受けるプロフェッショナル集団。
中途採用という形ではあったが、入社から数ヶ月も経たぬうちに、社内の全システム構造を把握し、既存の欠陥を次々と最適化してみせた。その抜きん出た実力は、偏屈で知られる社長や上席たちをも驚かせ、今や、俺を通さなければ仕様は決まらないと言わしめるほどの信頼を勝ち得ている。
今日のこの場に俺がいるのは、組織としての論理的な必然だった。
(……だが、この世界に、論理だけで割り切れるクリーンなシステムなど存在しないことを、俺は失念していたらしい)
午前十時。新規プロジェクトに向けた最終顔合わせの場。
業界でも指折りの大手企業、貝村興産が、数ヶ月に及ぶ熱烈なアプローチの末、ようやく我が社との契約を結ぶ段階まで漕ぎつけた。
目的は、我が社が独自開発した次世代基幹パッケージソフトの導入、およびその販売権の獲得だ。我が社の社長は、相手がどれほどの巨体であっても技術に関しては一切の妥協を許さない。現場の最高責任者として、俺をこの席に指名した。
会議室の重い扉を開け、そこに並んで座っていた親子の顔を見た瞬間。俺の思考回路は、落雷を受けたサーバーのように、一瞬で完全な沈黙に陥った。
「……本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただき感謝いたします。貝村興産の社長、貝村です。そしてこちらが、私の娘であり、本プロジェクトの責任者を務めさせる浩美です」
恰幅のいい男の隣で、優雅に頭を下げた女。
聞き覚えのある、鈴を転がすような、だが底冷えするほど計算高い声。
上品に整えられた髪型に、隙のないブランド物のスーツ。
かつて、俺の隣で献身的な婚約者を完璧に演じながら、手のひらを返して資産家の御曹司のもとへ去っていった女。
俺がすべてを捧げようと誓い、そして効率的に切り捨てられた過去の象徴。貝村浩美が、そこにいた。
(……よりによって、このタイミングで、最悪のデータが紛れ込んできたな)
浩美が顔を上げ、その視線が正確に俺を捉えた。
一瞬、彼女の瞳に驚きが走る。それはすぐに、優越感に満ちた冷ややかな光へと書き換えられた。彼女は動揺を見せるどころか、むしろこの再会を、落ちぶれた男を鑑賞する機会とでも思っているかのような、歪な笑みを唇に浮かべてみせた。
「あら……。まさか、精鋭揃いと噂のこちらの会社に、陽斗さんがいらしたなんて。驚きましたわ。以前の会社で将来性を失ってからは、もっと身の丈に合った場所へ行かれたと思っていましたのに」
『陽斗さん』という、かつての親密さを敢えて強調するような呼び方。そして、社長である父親の隣という絶対的な安全圏から放たれた、俺の過去を嘲笑うような毒。
隣に座る貝村社長も、俺の顔を認識すると、これ見よがしに鼻で笑った。
「あぁ、君か。何というか、もっとしがない作業員でもやっているのかと思っていたが……。まぁ、うちのような大手の仕事を受けられる立場になれたのなら、少しはマシになったということかな」
親子の、息の合った蔑みの視線。
彼らにとって、人間とは年収や肩書き、血筋という資産価値で測るべき数値でしかない。かつての俺がその基準から脱落した瞬間、彼らは俺を「故障したデバイス」のように迷わず廃棄したのだ。
会議室に同席していた我が社の社長が、不愉快そうに目を細める。彼らの傲慢さは、技術を尊ぶこの場所において、最も忌むべきノイズだった。
「……あぁ。そうですか。ですが、今は仕事中です。私情を挟むつもりはありません。貝村社長、そして貝村さん。早速ですが、契約の技術要件の最終確認に入りましょう。挨拶は手短に願いたい。私の時間は、あなた方の世間話のために割けるほど安くはありませんのでね」
俺は感情を押し殺し、努めて事務的な、そして相手を明確にクライアントの一つとして扱う冷淡なトーンで応じた。
浩美は父親に同調するように、俺を射抜くような視線を外そうとしない。その瞳の奥には、より資産価値の高い男に乗り換えた自分の正しさを誇示しようとする浅ましい支配欲が透けて見えた。
「相変わらずね。そういう、感情を排したような話し方。でも、今のあなたは、運良くこの会社に拾われただけの存在。そんなあなたが、貝村興産が求める高度な要求に応えられるのかしら? あなたの価値を知っている身としては、プロジェクトを任せるに足る器なのか、少し不安だわ。お父様、もっと信頼できる方を担当にしていただくわけにはいかないのかしら?」
挑発だ。
俺の最も脆い部分……かつて愛した人間に『価値がない』と断じられた記憶を、正確無比に狙い撃ちしてくる。
彼女は知っている。俺が一度、社会的な評価という防壁を完膚なきまでに叩き壊された人間であることを。そして今、かろうじて保っているこの独り身の静寂さえも、彼女にとっては格好の攻撃対象に過ぎないということを。
(……詩織さんのアトリエに現れたあの男と、根本的な構造は同じだ。他人の自尊心を餌にして、自分の優越感を確認しようとする、寄生型の連中。それが親の威光と資産という強固なガードに守られている分、より質が悪い)
俺の胸の奥で、先週末に消したはずの怒りの炎が再び燻り始める。
アトリエの灰色の静寂を守るために戦ったばかりだというのに。
今度は俺自身の足元を、過去という名の亡霊が、底なしの泥沼に変えようとしていた。
「クオリティの懸念ですか。いいでしょう。ならばはっきりさせておく。あなた方が血眼になって欲しがっているこのパッケージソフトを、今の完成度まで引き上げたのは誰だと思っている」
不意に、俺の隣で腕を組んでいた我が社の社長が、氷のように冷たい声を上げた。社長は俺の手元にある端末を顎でしゃくると、貝村親子を正面から射抜くように見据える。
俺は社長の意図を汲み、プロジェクターに膨大なデバッグログを表示させた。
「導入にあたって調査した結果、このソフトの旧バージョンには致命的な脆弱性が幾つも存在していた。潜在的なメモリエラー、データ整合性の不備、その他諸々。それらをすべて洗い出し、構造から再構築して実用レベルにまで修正した第一人者は、彼だ。彼が承認しない仕様は、このソフトの上では一行たりとも走らない」
社長の宣告に、浩美の余裕に満ちた顔が、一瞬で土色に強張った。
「あなた方がどれほど高圧的な要求を重ねようと、彼は自身の仕事を完遂する。それが、この会社の、そして技術者の誇りだ。あなた方の会社が、わざわざ頭を下げてまで我が社の技術を求めてきた事実を忘れないように。それ以外の仕事に無関係な不純な干渉は、一切認めない」
浩美を、そして彼女を甘やかすように座る貝村社長を真っ向から睨み返した。
会議室のエアコンが吐き出す乾いた風が、俺たちの間に、決して埋まることのない深い溝を描き出していた。
独り身の気楽な日々。それが、過去の亡霊たちの波状攻撃によって、修復不可能なほどに揺るぎ始めていた。
(……さて。この最悪の再会という不具合を、どう処理してやるか)
気付けば俺は、手の中のボールペンを、折れんばかりの力で握りしめていた。
戦いは、まだ終わっていなかったのだ。平穏を維持するためのコストは、俺が思っていたよりもずっと高くつくらしい。
今の俺には、守るべき静寂がある。そして、それを分かち合う同類がいる。
二度と、奪わせはしない。
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