第15話 亡霊の雨 ~詩織視点~
嵐が、過ぎ去った。
一階の重厚な鉄扉が閉まるガチャンという音は、私の人生を数年間にわたって雁字搦めに縛り続けてきた呪縛が、物理的な衝撃を伴って断絶した合図のように聞こえた。
アトリエに立ち込めていた、あの男特有の湿った雨と安酒と身勝手な執着が混じり合った不快な匂いは、開け放たれたままの扉から入り込む夜気によって、少しずつ、けれど確実に薄められていく。北野の春の夜風は、私の火照った頬を撫で、荒れ狂っていた感情を凪へと導いていくようだった。
私は、椅子に深く沈み込んだまま、自分の指先をぼんやりと見つめていた。
まだ震えがとまらない。膝の上で組んだ両手は、自分の体温を疑うほどに冷え切っていた。けれど、それは先ほどまでの喉を鋭利な刃物で掻き切りたくなるような恐怖からくるものではなかった。もっと深い場所、それこそ、長年暗い地下の檻に閉じ込められていた感情が、不意に光の下へ放り出されたことによる、戸惑いと、激しい動悸。
(終わった。本当に、終わったのね……)
心の中で、何度もその事実を反芻する。そのたびに、胸の奥に溜まっていた泥のような澱みが、一滴、また一滴と涙になって溢れ出した。
情けない。恥ずかしい。陽斗さんに、一番見られたくなかった姿。過去の亡霊に怯え、震えることしかできない無力で空っぽな自分を、これ以上ないほど無様に晒してしまった。
自立した一人の人間として、このアトリエで彼と対等に、心地よい孤独を共有していたはずなのに。結局、私は窮地に陥れば誰かの背中に隠れることしかできない、芯のない存在だったのではないか。そんな自己嫌悪が、波のように押し寄せては私を飲み込もうとする。自分が信じてきた強さが、ただの砂上の楼閣であったことを突きつけられたような、そんな惨めさに胸が潰れそうだった。
「……泣くなら、温かいうちに食え。冷えたら、ただの硬い小麦粉の塊だ」
陽斗さんの、いつものぶっきらぼうな声が頭上から降ってきた。
顔を上げると、彼は濡れた前髪を無造作にタオルで拭いながら、自分の席に戻っていた。
その表情には、英雄気取りの満足感も、私に対するこれ見よがしな憐憫の色もない。ただ、予定外の厄介な作業を終えて、少しばかりの疲労を感じている。そんな、どこにでもいるエンジニアのような、淡々とした空気だけを纏っている。
彼はあえて私に「大丈夫か?」とは聞かなかった。その言葉が、今の私にとっては何よりも残酷な問いかけになることを知っているかのように。
私は震える手で、冷めかけたトーストを口に運んだ。
耳が痛くなるほど静まり返ったアトリエに、サクッという渇いた咀嚼音だけが響く。
少しだけ焦げた小麦の苦味と、卵の濃厚な脂の味。それが、あまりにも血の通った現実の味がして、堪えていた涙が再び視界を滲ませた。
(美味しい……どうして、こんなに美味しいの……)
和真と一緒にいた頃、食事はただの義務だった。彼の機嫌を損ねないための色も味もしない作業。けれど、陽斗さんが不器用に焼いてくれたこのトーストには、確かな輪郭がある。私が今、ここで生きていることを肯定してくれるような、そんな実直な味がした。
「……陽斗さん。どうして、あそこまでしてくれたんですか?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
『友達でも恋人でもない、ただ週末を共にするだけの友人』。そう言いきっていた彼にとって、過去の男との修羅場に首を突っ込むことなど、リスク以外の何物でもないはずだ。ましてや、あんな風に相手の退路を断つような真似までして。もし和真が逆上して、彼に危害を加えていたら。そう思うと、申し訳なさで胸が締め付けられる。
陽斗さんは、残っていたぬるいビールを一口飲み、視線を窓の外、北野の深い闇へと向けた。
「……前に言ったはずだ。俺は、自分の領域を荒らされるのが、何より嫌いなんだよ。あんたとここで過ごす週末は、俺にとって、一週間分の無意味なノイズを洗い流すための貴重な時間なんだ。それをあんな、他人のリソースを食い潰すことしか考えない男に汚されるのは、俺の美学に反する。それだけだ。あんたを助けたというより、俺の環境を守ったに過ぎん」
彼は、一度も私の目を直視しなかった。
それが彼なりの不器用で完璧な優しさなのだと、今の私には痛いほど伝わってくる。私が感じているであろう羞恥心や惨めさを、これ以上、刺激しないための徹底した独り身同士の距離感。
でも、私の手の上から伝わってきたあの熱い温度を。私という存在を否定させないと怒ってくれたあの広い背中を、私の肌は、記憶に深く刻みつけている。
(論理や効率だけじゃない。あの時の陽斗さんは、確かに怒っていた。私のために。私が描き直そうとしていた、この灰色の世界を守るために……。彼はそれを自分のためだと言い張るけれど、その不器用な嘘に、私はどれほど救われただろう)
私は、無惨に塗り潰してしまったキャンバスに視線をやった。
絶望に任せて塗り重ねた、重く濁った灰色の塊。かつての私なら、ここで全てを投げ出して、また暗い部屋に引きこもっていただろう。
『やっぱり私には無理だったんだ』と自分に言い聞かせて、筆を折っていただろう。
でも、今は不思議と、その上からもう一度、新しい色を置けるような気がした。この厚い灰色の下には、まだ私が描こうとした春の光が、息を潜めて眠っているはずだから。失敗したなら、何度でも塗り直せばいい。そう思わせてくれる静寂が、今の私にはあった。
「……陽斗さん」
「……何だ」
「……貴方に助けられたこと、忘れません。でも、次は……次は必ず、私自身でその防壁を張れるようになります。……二度と、私の聖域を汚させないように。誰にも、私の色を奪わせないように。……陽斗さんが、安心してビールを飲める場所を、私が守りますから」
陽斗さんは一瞬だけ、こちらを向いて目を見開いた。
そして、ふっと、これまで一度も見せたことのないような、微かな、本当に砂がこぼれるような苦笑を浮かべた。その表情は、どこか少年のようで、ひどく人間味に溢れていた。
「……ふん。期待せずに待っておくよ。あんたがどんな強固なシステムを築くのか。その絵に、次の色を置くまではな。もしまたエラーが起きたら、その時はまた、俺が叩き潰してやるよ」
外の雨は、いつの間にか小降りになっていた。
北野の坂道を濡らした水溜まりが、街灯の光を反射して、夜の底で静かに輝いている。
私たちはそれ以上、言葉を交わさなかった。
ぬるくなったビールと、少し硬くなったトースト。
不完全で、歪で、けれど誰にも侵されない二人の静寂が、アトリエの中に再び満ちていった。
私の中にあった依存への恐怖は、彼という強固な他者の存在によって、少しずつだが確実に、信頼という名の新しい色彩へと書き換えられようとしていた。
それは、一人で立っているからこそ感じられる、新しい絆の輪郭だった。もしかしたら、この気楽な独り身という関係性は、私が思っていたよりもずっと、強くて温かいものなのかもしれない。
(……明日、この上からまた、塗り直そう。もっと深い、今の私にしか出せない色で。濁ってしまった灰色を、私だけの生きた証に変えるために)
私は心の中で、自分自身にそう誓った。
雨上がりの冷たい風が、アトリエの窓を小さく揺らしていた。だけど、もう寒くはなかった。私の隣には、最高のノイズ・キャンセラーが座っているのだから。
静寂は、より一層その深みを増し、私たちの週末を優しく包み込んでいった。
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