終幕、そして再会
「で、あれの様子はどうだ?」
一連の事件に収集がつき、カイツ共和国にヨシュアたちが戻ってきたのは、あれから十日後のことだった。
謀反の首謀者だったイーテは人知れず姿を消した。そしてイーテと密約を結んでいたツァフォン帝国は、その首謀者が失墜したことでナハル国における足がかりを失くし、撤退を余儀なくされた。
もっともあの時アヴィールにいた者たちは『翠姫』の持つ絶大な力に恐れ戦き、戦意を根こそぎ奪われたらしいが。
そんなわけで国王シェレグを筆頭に、イーテに対立し投獄されていた国の重鎮たちは無事釈放され、内政の混乱はあるものの概ね軌道に乗ってきたナハル国を、ヨシュアたちは後にしたのだった。
そしてカイツ共和国の面々も日常に戻ったのだが、ごく一部の人間は未だあの事件を引きずっていた。
その筆頭たる弟を心配したチェーリアの言葉が冒頭のそれである。
彼女はちょくちょくと訓練を抜けだしては、こうして弟の執務室へと様子を見に来ていた。
「そうね、概ね異常、と言ったところね」
さらりと返したルチアに、チェーリアは渋面を作る。
「概ね、異常……それでいいのか?」
先日の一件以降ルチアもまた、こうしてしばしば弟の執務補佐に入るようになった。それはやはり死線をさまよった彼の身を案じてのことである。
ちなみに彼女は自前の情報網と次姉からの報告書で、この度の事件の全容はほぼ把握済みだ。
姉たちの視線の先で、弟は不在時に溜まっていた決済書類にサインをしている。それ自体は珍しくもない光景だが、しばらく観察するうちに異変は現れた。
「はぁ……」
誰よりも勤勉な彼女らの弟は、執務中に集中力を途切れさせることはしない。
通常なら。
けれどその彼は今、大きな溜息をついたかと思えば、ぼーっと書類を眺めている。
「心ここに在らずってとこかしら」
「だな」
姉たちの視線に全く気づかず、ヨシュアは手元へ視線を落としている。かと思えば急に机につっぷし何やら身悶えている様子。
彼の手に握りしめられた羽根ペンが、ふるふると毛先を震わせているところを見ると、相当悶絶しているようだ。
「大丈夫なのか、アレ?」
弟の異常っぷりに心配そうな声をあげたチェーリアだったが、ルチアは「大丈夫でしょ」としれっと返した。
「いや、でもあれでは執務に差し支えるんじゃ……医者には見せたのか?」
もっともな次姉の言葉に、けれどルチアは苦笑を返す。
「大丈夫よ、ほどほどのところで正気に戻してるから」
それに、とルチアは口内だけで呟く。
(あの子のあれは医者じゃ治せないもの)
白魚のような指をあごに当てて、ルチアはほくそ笑む。
今回の事件は確かに未曾有の有事だった。だが、ヨシュアにとって、そしてこの国にとっての奇貨でもあったのだ。
そして我が国は奇貨を取った。
(あと一押し、かな)
その為の手は既に打った。手筈通りなら、そろそろヨシュアのための『薬』が届くことだろう。
こみ上げる笑いを押し殺しながら挙動不審の弟を見つめるルチア。そんな彼女にチェーリアは素直な感想をひとつ。
「おい、お前いま、猛烈に黒い笑顔してるぞ」
「あらやだ。ものすごく弟思いの姉と言ってちょうだいな」
「何がだ、どこがだ?」
弟の挙動不審さの原因は未だ分からないが、苦悩するその姿を見守る妹の表情は、どう控えめに表現しても黒い。腹黒い。真っ黒だ。
まさに策士のそれとしか言いようがないのだから、チェーリアが胡乱な目を向けてしまうのは仕方がない事と言えよう。
そんな姉たちのやり取りなど目にも耳にも、それどころか意識にすらも上らないヨシュアは、ひたすらに葛藤していた。
「……はぁ」
思い出すのは、柔らかな微笑み。それに水のように流れる青銀色の髪がとても印象的で。
(ああ、綺麗だ……)
弓矢に射抜かれ、意識が途絶えた後に見たものは、この世のものとも思えぬ美しい乙女の姿。
柔和な笑顔は慈愛に満ち溢れていて、髪を梳いてくれる手がとても気持ち良かったのを覚えている。
だからここは死後の世界なのかと、あの時のヨシュアは半ば本気で思った。
聖女に抱かれて目覚めるのなら、死後の世界も中々悪くないと思うほどに。
そんな彼の幻想が終わりを告げたのは、その直後だった
「気分はどう? どこか辛いところはない?」
鈴の音のように澄んだ、けれど絹のようになめらかな声が問う。その声までもが耳に心地よく、うっとりとしながらヨシュアは「ええ」と答えていた。
「そう、よかった。なら、そろそろ移動してもいい? 城に帰って、お父さまを助け出したいの」
城? お父さま? 助ける?
天国にしてはやたら世俗じみた言葉の数々がうまく理解できなくて、ヨシュアは困惑を露わにする。
「え、と……? その、すみません。いまいち状況が理解できないのですが」
そう告げれば美しい女性は、ほわりと口元を緩めた。
――その笑い方に記憶のどこかが疼いた。
「あのね、ヨシュア。ナハル国の騒動はもう終わったの。だからわたし、これから城に戻ってお父さまたちを獄から解放しないといけないの。まだ、詳しい政治については分からないけど、今回の事変は他国にも影響を及ぼしたから、早く謝りに行かないといけないでしょ?」
(なんだ、これは? なんで聖女が政治とか言ってるんだ?)
「あと国政も混乱して滞っていたら、一日でも早い正常化が必要だものね」
そう言ってにこりと笑う姿は少し得意げで、それがヨシュアの記憶を更に刺激した。
そう、この笑顔は問題が解けた時の、あの少女の笑い方に酷似していて。
「―――――……リ、リーネン?」
試しに呼べば即座に返る「なぁに?」の声。
「……………………」
その時の心情を言い表す言葉がない。
目の前の美しい女性が、あの小さかったリーネンだと知った時の驚愕は、とても言語に変換できる気がしないから。
そうして衝撃的な再会の後、あれよあれよという間にナハル国の城へ行き、投獄されていたシェレグ国王を解放すれば、
『この度の貴国の尽力には大変感謝する。ナハル国はこの恩を忘れず、以後、恒久的にカイツ共和国に友好を誓うこととする』
と血判付きの誓約書まで渡されて、帰国の途に就いたのだった。
その短い間に。
年相応に成長したリーネンが視界に映る度に、ヨシュアは動悸とめまいに襲われた。それこそ何度も何度も慣れることなく。
初めは女性恐怖症のせいかと思ったが、身体の反応が微妙に違う。吐き気、悪寒などはなく、鳥肌が立つこともない。ただ見つめると頭の芯に紗が掛かったようにぼうっとして。目が合い、笑顔を向けられると途端に動悸が激しくなる。
(なんだ、これは……どんな病気だ、一体)
逃げ出したい気もするのに、目を逸らすことも、ましてや離れることも考えられない。
そんな奇病に罹ってしまった自身を持て余しながら、ヨシュアは体内の鬱屈を抜くように、大きな溜息をついた。
と、そこに。
「おいヨシュア、手元を動かすな!」
鋭い声が意識に切り込む。
その声にはっと手元を見れば、そこにはいつの間にか逆さまに握っていた羽根ペンがインク壺の中に浸かっていた。つまり、羽根の方がびっちゃりとインクを吸う事態に。
「うわっ、なんですかこれは?!」
「バッカ、動かすな! 書類をダメにしたら、ルチアに鬼のように叱られるぞ」
慌てた二人がそうっとインクごと羽根ペンを机の上から退ける。山と積まれた書類に万が一のことがあれば、ルチアがどんな仕打ちに出るか分からないから。
どうにかペンを無事避難させた後、三姉がいないことに気づいたヨシュアが不思議そうに問えば、チェーリアは彼女が来客を迎えに出たことを教えてくれた。
「? おかしいですね。今日は来客の予定はないはずですが」
朝一に通達されたスケジュールには、来客予定は入っていなかった。
「なんだか賓客だといってウキウキしながら出ていったぞ」
「?」
ますます意味が分からない。もっとも権謀術数に長けるあの姉のことを分かった試しはないが。
「ふう……」
ダメにした代わりのペンを取りだして、書類にサインを再開する。
サインしてもサインしても終わらない紙の山にそろそろ辟易してきたが、逆に言えば不在時の内政を滞りなく進め、サインだけで済むよう手配してくれた姉とマハルには感謝してもしきれない。
そう、自分はこの国の元首なのだから。謎の奇病に負けてはいられないのだ。
決意も新たに次の書類をめくったその時、ノックもなく唐突に扉は開かれた。
「ルチア姉さん。何度も言ってますが、ここは公室である以上、一応ノックはしてもらえますか?」
手元から目を放さずそう告げれば、しばらく返事がこない。
「姉さん?」
不審に思って顔を上げたヨシュアの瞳に映る人物、それは。
「お久しぶりです、お元気でしたか?」
はにかむような笑みを浮かべたリーネンの姿だった。
「リ……っ?!」
それはもう脊髄反射だったとしか言えない。
椅子を蹴倒し立ち上がった。デスクに手をかけて。
けれどまさか手をついた位置が悪く、そのまま滑り落ちるとは。
「うわっ?!」
気づいた時には体勢を立て直すことも出来ないくらい崩れていた。
迫る机の角。
ああ、直撃は免れない―――。
ゴォン!
鈍く重い音と、目の奥に閃光が走ったのは同時だった。
「だ、大丈夫ヨシュア?」
「~~~~~~~~っ!!」
あまりの激痛に生理的な涙が滲むのを止められない。
しばし声も出せず、額を押さえて悶絶していたヨシュアだったが、おずおずと頭を撫でる感触に今度は違う意味で煩悶した。
「い、痛いの、痛いの、とんでけ~」
どこで覚えたのか、市井のおまじないを一生懸命施す乙女の姿に、ヨシュアはもう色んな意味で息も絶え絶えだ。
そして。
「……あー……いつは、どうしたんだ? なんか壮絶に壊れてるが」
突然取り乱した弟の姿に、チェーリアは生ぬるい視線を送る。けれどルチアと言えば、先ほど姉をして「腹黒い」と称された笑みを浮かべながら、
「うふ。治療よ、治療」
と、楽しげに呟いた。
「お前の意図するところが、私には全く見えんぞ」
異次元すぎる妹の言葉に深く嘆息し、チェーリアは視線を弟たちに向けた。
見れば彼らはまだ座りこんだまま、何やらやり取りしている。と言っても、弟は微動だにせず、リーネンだけがヨシュアの頭を撫でているのだが。
(ちょっと待て、訳が分からない!!)
絶叫は脳内だけで。
身体は石像のように固まったまま、ヨシュアは全力で思考を――空転させていた。
(なんでリーネンが? どうしてここに? って、え? 何の用で?)
どれも彼女自身に聞けば即座に解決する問題を一人グルグルと考え込む。
それくらいヨシュアの頭は通常の域を脱していた。
「ヨシュア? あたま痛いの、治った?」
ああ、リーネンだ。
心配そうに覗きこむ、すみれ色の双眸。顔の横をさらりと流れるのは青銀色の髪。
「~~~~~っ」
今、自分の心臓は胸ではなく耳の奥にある。絶対に。
そう断言できるほどドクドクと疾走する鼓動がうるさくて。
それに急激に胃の腑がせり上がる感覚に、喉を圧迫され声が出ない。
急速にこみ上げてくるナニカに突き動かされ、伸ばした腕は彼女の手を握り。
そして……。
「おい、いつまで床に座っとるか、この愚弟が。お前がへたりこんでると、リーネンまで床の上じゃないか」
呆れた声に背をどつかれ、ハッとする。
「っあ、すみません、リーネン!」
アワアワと立ち上がり、しゃがみこんでいたリーネンを立たせると、手近なソファを勧める。
なんだかものすごく締まらない再会に、「もういっそ穴でも掘って埋まりたい」と心底願うくらいには落ち込んだヨシュアを他所に、チェーリアとルチアはリーネンを囲んだ。
「久しぶりだな、リーネン。その節は世話になった」
「ううん、わたしこそいっぱいお世話になったもの。またチェーリアに会えて嬉しい」
ほわりと花が綻ぶように笑う。その姿に見慣れた幼いリーネンの面影を認めて、チェーリアの口元が緩んだ。
「わたしも、またお前に会えて嬉しいよ。でも、一体どうしたんだ? 国元はまだ落ち着いてないだろう?」
「うん、まだたくさんの問題が山積みだってお父さまが言ってたわ。でも、今のわたしじゃ、ほとんど力になれないから……」
自らの至らなさを知る者特有の響きを乗せたリーネンの言葉。それをルチアが引き継いだ。
「王女としてのリーネンはまだまだ未熟で内政には関われない。けれど先日の一件で『翠姫』の威光は格段に跳ね上がってしまったの」
ルチアの言葉にはチェーリアも頷く。確かにあの時のリーネンの力は凄まじかった。あれを見て自然への畏怖を、ひいては精霊へのますますの信仰を覚えない人間はいないだろう。
そう確信しているチェーリアに、ルチアは説明を続けた。
「それでね、しばらく身を隠しつつ、その間に王女としての教育をさせたいシェレグ王に頼まれて、またリーネンを我が国でお預かりすることになったのよ」
「だから今回は正式な留学ね」と茶目っ気たっぷりのウィンクを飛ばすルチアに。
「……どうせ姉さんお得意の舌先三寸で、シェレグ王を丸めこんだんでしょう?」
呆れたような嘆息と共に、ヨシュアはようやくまともな言葉を吐き出した。
「あらやだ。大筋は合ってるけど『丸めこむ』は頂けないわね。可愛い娘さんを大事にお預かりしますって誠心誠意お伝えしただけよ」
「……ルチア姉さんが一枚噛んでる時点で、『誠心誠意』の意味がひっくり返るでしょう」
思わずジト目で姉を見据えれば、思わぬところからルチアの援護射撃が入った。
リーネンだ。
「あのね、今回の留学先はわたしが希望を出したの。学ぶなら、ヨシュアの元がいいって」
「え」
「わたしね、ヨシュアと勉強するの、すごく好き。ヨシュアの話はおもしろいし分かりやすいから、まだまだあなたから色んなことを学びたいの」
人懐っこい笑顔は反則だ。
ぐっと詰まった息は、吐くことも吸うことも出来なくなる。
そしてそれきり言葉を失った青年の手を躊躇なく握って、
「これからもよろしくね、ヨシュア」
「っ!?」
花のように微笑む少女は、彼の胸にまたひとつ致死性の杭を打ち込んだ。
そんな二人の様子を生温かい目で見守っていたルチアは、脇腹をつつく感触に視線を向けることで応える。
「謀っただろう、ルチア」
「なんのことかしら?」
「ヨシュアの態度を見ていれば、いくら鈍い私でも分かったぞ」
「あら」
今度の声は嬉しそうだった。
「私の意図が分かったなら、協力してくれるわよね、チェーリア姉様?」
ルチアの狙い。それは長らく女性恐怖症を患っていた弟に恋人を、ひいては妻となるべき相手を見つけさせること。
いい年をした一国の元首が独身というのは、対外的にもあまり風聞がよろしくない。
そういう建前とは別に、ヨシュアが女嫌いになってしまった原因の一端を担ぐ者としては、弟に早く幸せな結婚をさせてやりたいという姉心もあるのだ。
「ナハル国なら願ったり叶ったりだし、それがあの子の初恋の相手ならなおさら、ね」
語尾にハートマークが付きそうなほど弾んだ声で告げるルチアを横目で見て、チェーリアは僅かに溜息をついた。
「気持ちは分かるが、……だいぶ前途多難だな」
なにしろ我らが弟君は奥手でいらっしゃる。
今も顔面を紅潮させこれ以上ないほど、どもるわ、挙動不審になるわで、正直目も当てられない。
「しかもあいつ、自分の恋心に気づいてないだろう?」
色恋事には滅法疎いと言われている自分でさえ分かるほど、ヨシュアの挙動不審さは際立つ。それはもう初恋に足元のおぼつかない少年のように。
「そうねえ。なにぶん初めてのことだから、勝手が分からないんじゃないかしら」
呑気な妹の言葉に頭の芯が痛むような気がして、チェーリアは思わずこめかみに指を押しあてた。
もともとヨシュアは器用に物事をこなす子だ。恋心だってきちんと自覚すれば、隠すなりコントロールするなり出来るだろうに。それがまるきり出来ていない時点で、無自覚の恋心に振り回されているのは明白だった。
渋面を作るチェーリアの隣で、楽しそうにルチアは笑う。
「でもまあ、だから楽しいんじゃない? すんなり鞘に収まったら恋物語なんて世界に普及しないわ。波乱万丈、山あり谷ありすれ違いあり。そんな劇的な恋の方が素敵よ?」
「………」
確かに、それはある意味真理かもしれないが。
「だが、お前の少女趣味に合わせてたら、くっつくものもくっつかない気がするんだが」
なんたってキャストはヘタレ気質持ちの末っ子元首と、超絶世間知らずのお姫様。しかも恋の自覚なしときたもんだ。
そのハンデを思うだけで、チェーリアの目頭には熱いものがこみ上げてきそうだった。
(これにルチアのひっかき回しが入ることを考えたら……)
自分だけは。そう、自分だけはせめて、あの二人の味方でいよう。
そう心に固く決めながら、チェーリアは未だ騒がしい室内から窓の外へと視線を移す。
高く遠くなった空は澄みわたり、乾いた風と強い日差しのコントラストが秋の気配を滲ませる。
「……季節が、変わるな」
新たな季節の到来を感じながら、これからにぎやかになるだろう弟の周辺に思いを馳せ、チェーリアはふ、と口元をゆるめた。