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人類黎明時代  作者: つのん。


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第三話 重力の檻

軍楽隊が本艦を降りていった。

統一暦413年2月11日の朝、旗艦〈ウェリントン〉の格納庫甲板でカエサルは楽器庫が空になるのを見た。チューバの巨大なケースが8つ、整然と台車に載せられ、補給艦へ移されていく。入れ替わりに積み込まれてきたのは灰色の保護梱包に包まれた細長い箱の列だった。箱の側面には何も書かれていない。何も書かれていない箱が何であるかを本艦の人間は誰でも知っていた。

「演習に音楽は要らないんですか」

思わず訊いたカエサルに居合わせた航海科の老軍曹は台車を押しながら答えた。

「要るとも。だから降ろすのさ」

その日の艦内通達は3行だった。曰く、本日より私信は全て検閲を経る。曰く、全乗組員は家族連絡先の登録を更新せよ。曰く、第32次統合艦隊大演習の発動に伴い、上陸許可を停止する。

戦争、という語はどこにもなかった。

1200時、バルカ中将が全艦隊に放送した。放送は19秒で終わった。

「第3艦隊司令官より、全将兵へ。本艦隊は本日をもって、第32次統合艦隊大演習に参加する。諸君に求めるものは従来の演習と何一つ変わらない。すなわち──完全な遂行である。以上」

戦争という言葉はやはり使われなかった。だが放送が切れた瞬間、士官室の誰ひとり、互いの顔を見なかった。見れば、確認してしまうからだ。

3月に予定されていた研修生の帰校命令は2月11日付で無期延期となった。理由は通達されなかった。理由を察せない者はもう本艦にはいなかった。

その夜、コーヒーを運んだカエサルにノイマンは言った。

「いい放送だったろう。嘘が一つもない」

「・・・でも大尉、あれは」

「演習と書いてある。だから演習だ」ノイマンは決裁箱の書類に判を捺しながら言った。「覚えておけ、候補生。この国は嘘をつかない。──語彙を選ぶだけだ。剪定。転校。保守点検。そして、演習。人類の歴史で最もよく働いてきたのは銃でも軍艦でもない。言い換えだ」


封緘命令はヴァナヘイム関門を抜けた先で開かれた。

作戦図を初めて見た時、士官室は静かだった。侵攻軸は2つ。第1、第2、第5艦隊は帝国領へ──公式呼称は「大消失災害に対する救援進駐」である。飢えて崩れていく帝国の星々は評議会の輸送船団を抵抗どころか桟橋を空けて迎えているという。400年あまりの昔、瓦礫の日本とニュージーランドを救った国際協力部隊の末裔たちは今、同じ語彙で他国の国境を越えていた。

そして第3艦隊と第8艦隊は同盟方面へ。第1目標、リール星系。

「リールって、あの『二枚の旗』の」

思わず口にしたカエサルに情報参謀付きのダーウィン中尉が眉を上げた。24歳。第31次演習の航海中、ノイマンに「では誇張だと」と訊き返して以来、何かと従卒のカエサルに構う若い士官である。

「ほう。緩衝戦争を知ってるのか、候補生」

「『人類通史』で読みました。分割条約のあとダヌは評議会領にマナナンは同盟領に。リールだけが非武装中立として残ったと。首班の机には最後の日まで2種類の旗が入っていた、と」

「ノイマン大尉の貸した本だな」ダーウィンは笑って、配給の板チョコを半分に割り、半分をカエサルの掌に載せた。「いい本だ。だが今度の改訂版には俺たちの章が増える。──おい候補生、知ってるか。俺はノイマン大尉の言ったことを全部こいつに書き留めてるんだ」

彼は胸ポケットから小さな手帳を出してみせた。表紙に几帳面な字で「語録」とある。

「いつか大尉が提督になって、俺が首席幕僚になったら、回顧録の資料に売りつけてやる」

リール星系の概況はその晩の幕僚会議で配られた。恒星リール。第5惑星バロール──磁気圏の荒れた、灰色のガス巨星。本星リールの人口900万。主産業、農業と中継交易。防備、事実上なし。

そして情報部の見積もりが末尾に小さく付いていた。

「分離惑星同盟の反粒子虚数爆弾、完成弾頭保有数──最少で0、最大で3」

0から3。その4文字の幅の中に人類の残り時間が挟まっていた。

「大尉。どうして、今、なんですか」消灯前、カエサルは訊いた。「ヴァルハラボイドが怖いならなおさら、同盟を怒らせたら」

「逆だよ、候補生。怖いから今なんだ」ノイマンは茶碗を置いた。「帝国が抜けて、天秤の片方の皿が消えた。同盟の弾頭は最少で0、最大で3。来年は最大で10かもしれん。再来年は30かもしれん。つまり評議会の参謀本部はこう計算した──人類史上、今この瞬間が最も安く済む、とな。予防戦争という発明を知ってるか。明日の脅威を今日の血で前払いする仕組みだ。利率がいつも発明者の予想を裏切ることだけは歴史が保証してくれるがね」

「・・・始祖の人たちが見たら、なんて言うでしょうか」

「いい質問だが宛先が違う」ノイマンはふっと笑った。「祈りは従軍司祭へ。皮肉は私へ。報告は提督へ。それが軍隊だ。寝ろ、候補生。明日から忙しくなる」

その夜、カエサルは祖母に手紙を書こうとした。火星シドニア州で改革派始祖教の小さな礼拝堂の堂守をしている祖母である。書き出しを3度書いて、3度消した。検閲を通る言葉で本当のことを書く方法が見つからなかった。


3月14日、第3艦隊はリール星系の回廊口に到達した。

縮尺航行が解け、星々が戻ってくる。ここから先は重力の檻である。恒星リールの重力が空間の目盛りを固く締め上げ、メルカトル機関はただの重い荷物になる。ワープで入ることもワープで逃げることももうできない。ここから先、艦隊は線の移動で這う。秒速数百キロ──ノイマンの言う「銀河で最も鈍重な乗り物」の速度で3日かけて内域へ。

回廊口には予想通り、機雷原があった。

縮尺機雷。回廊の折り癖そのものに潜み、通過する艦の縮尺場を喰い破る、計量の罠。掃計艇が前進し、一つ、また一つと罠の位相を解いていく。2時間で6隻の掃計艇が戻らなかった。戦死者はまだ顔ではなく、数字で届いた。

その機雷原の配置図をノイマンは長い間睨んでいた。

「・・・綺麗すぎる」

「綺麗、ですか」

「スレイプニル会戦の布陣の、殆ど引用だ。318年の。教科書に載っている配置を教科書通りに敷く参謀はいない」ノイマンは図を指で弾いた。「引用というのはな、候補生、読ませたい相手がいる時にやるものだ」

ノイマンは司令部に上がり、4分後に戻ってきた。バルカ中将の決心は例によって30秒で済んだという。艦隊は侵入軸を変えた。教科書通りなら本隊が進むはずだった正面を空け、警戒隊を厚くして、第5惑星バロールを大きく迂回する航路へ。

内域への這行2日目、リール本星から平文の・全周波数の・暗号化されない放送が届いた。受信した通信区画でグェン中尉がそれを読み上げた。彼女の声はいつも通り平坦だった。

「発、リール星系政府。宛、当星系に侵入した全ての艦艇。──当政府はいかなる交戦国の艦艇に対しても港湾を提供しない。軌道を提供しない。市場を提供しない。墓地を提供しない。繰り返す。墓地を提供しない。──以上、本放送は15分ごとに反復される」

どちらの艦隊も応答しなかった。放送は約束通り、15分ごとに戦闘の最中も鳴り続けた。


同盟第2艦隊──戦艦1400を基幹とする約1万8千隻、司令官エリクソン提督──はバロールの磁気圏の陰から出てきた。

教科書通りの正面が空であることを確認し、迂回する第3艦隊の側面へ増速。だがそこにいたのは無防備な輸送隊列ではなく、針鼠のように展開を終えた警戒幕だった。罠を読まれたと知った時には彼我の距離は2光秒を切っていた。

リール会戦は4時間続いた。

宇宙の会戦は静かである。主砲の斉射に音はなく、2光秒先の閃光は2秒遅れて届き、駆逐艦が1隻砕けても旗艦の艦橋では戦域図の上の小さな輝点が一つ、色を変えるだけだ。カエサルは戦闘配置の間、司令部区画の伝令に充てられていた。艦内回線が中破する度、紙の命令が走る。書類仕事が人類を救った、と『人類通史』の編者は書いた。今、書類は走りながら人を殺すのを手伝っていた。

第3斉射と第4斉射の間に1発が届いた。

同盟の長距離弾が警戒幕を抜け、〈ウェリントン〉の左舷上部──通信区画に隣接する幕僚控室の区画を抉った。本艦が鐘のように鳴った。カエサルは通路の壁に叩きつけられ、文書箱を抱えたまま床を滑った。照明が落ち、非常灯の赤が点き、どこかで隔壁が閉まる重い音がした。

「左舷第3区、閉鎖。──総員、仕事を続けろ」

艦内放送のハラウィラ艦長の声は天気予報のように平坦だった。

煙の薄れた通路をカエサルは命令書を抱えて走った。担架が2つ、すれ違った。2つ目の担架には毛布が顔まで掛けられていた。毛布の端から焦げた胸ポケットと見覚えのある小さな手帳の角が覗いていた。

足が止まった。

止まったのは2秒だった。2秒で彼は走り出した。走りながら、自分が泣いていないことに気づき、そのことを生涯、忘れないだろうと思った。

戦闘終了は2218時。エリクソン提督は決戦を避け、損傷艦を捨て、驚くべき秩序で艦隊を回廊口へ退げた。去り際に出口の折り癖へたっぷりと機雷を撒いて。

2300時、通信区画で各艦の点呼が始まった。グェン中尉は額に包帯を巻いたまま、コンソールに着いていた。神様の電話機が1隻ずつ名を呼ぶ。応、〈キョウト〉。応、〈シドニア〉。応、〈カワナ〉。

「〈タウポ〉。・・・〈タウポ〉、応答せよ」

静寂が2度、繰り返された。

グェン中尉は時刻を記入し、次の艦名を呼んだ。点呼は止まらなかった。カエサルは彼女のペンが止まらないことがその夜の何より怖かった。


翌朝、カエサルは戦闘詳報の回付を命じられた。

彼我の損耗。第3艦隊──戦艦7、巡航艦26、駆逐艦以下60余、掃計艇6を喪失。戦死、約2万1千。同盟第2艦隊──戦艦9、巡航艦22、駆逐艦以下40余を喪失。戦死、推定1万6千。リール星系の制宙権は評議会の手に落ちた。公式呼称において、これは「演習第1段階の完了」である。

2万1千、という数字をカエサルは決裁箱に入れて運んだ。箱はいつもと同じ重さだった。それが何よりおかしかった。

士官室でノイマンは黙って書類を捌いていた。カエサルはコーヒーを淹れた。淹れて、運んで置いた。会議が長引いて、コーヒーはすっかり冷めていた。

ノイマンはそれを手に取り、一口飲み、何も言わずに飲み干した。

87度の話は出なかった。

カエサルは空の茶碗を盆に戻しながら、それがどういう意味か、訊かないでおいた。

「・・・言っただろう」随分経ってからノイマンは戦域図を見たまま言った。「艦隊決戦は重力の檻の中でしか起きんと。いずれ嫌でも役に立つと」

「はい」

「役に立ってほしくはなかったがな」

それから彼は机の抽斗から焦げ跡のある小さな手帳を取り出した。回収品の中から戻ってきたのだという。表紙の「語録」の字は半分煤けていた。ノイマンはしばらくそれを開きもせず眺めてからカエサルに差し出した。

「預かっておけ」

「・・・自分がですか」

「私が言ったことを私はすぐ忘れる」ノイマンは書類に目を戻した。「誰かが覚えていないと回顧録が書けんそうだ」

その夜、カエサルは祖母への手紙をようやく最後まで書いた。検閲を通る言葉だけを選んで。

──祖母上。演習は順調です。僕は元気です。

そこで手が止まり、長い間天井を眺めてから彼は最後に一行だけ、本当のことを書き足した。

──コーヒーを淹れるのがうまくなりました。

窓の外では重力の檻の中から見上げる星々が畳まれもせず、ごまかされもせず、ただ在るがままの距離で光っていた。


後に『人類通史』第12改訂版はこの会戦を3行で記すことになる。

「リール会戦。三度目の人類戦争における、最初の艦隊決戦。両軍合わせて、死者3万7千。なお、リール星系市民の死者は4名──いずれも軌道より落下した破片による──であり、彼らの政府は最後までどちらの旗も掲げなかった。」

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