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曠野の聖母

・ ・ ・ ・ ・



「……どうした?」



 春の嵐の晩。


 久方ぶりに曠野あらのの小家を訪れた大男は、女の変わりようを見て驚いた。


 今は卵月しがつの半ば、じきに黄色い花をつけるであろう曠野のはりえにしだの茎のように、女はしなびてやせ細ったように見える。


 力なく魚を受け取り、黒馬を納屋へ連れてゆく女の背中は、老婆のように曲がっていた。



「……坊主は、どこだい」



 炉の前、低く問うた大男を前に、女はふしくれだった右手ひとさし指をすいと立てる。


 指はなだらかな弧をえがくように動いて、女はあさっての方角を見た。



「丘の向こうへ? 死んじまったの?」



 女はうなづいた。


 向かい合って立つ大男の黒い目を、まるく哀しいふたつの青い目が見つめている。


 それは海だった。


 深い青の中に、心身の痛みをたたえながら輝く海。


 そこからぽとり、と嘆きがあふれてしずくになる。


 大男は女のを聴いた。


 常人の耳に言葉として届かない女の声をきき、その話を見た・・



 子どもは育って、村へ学びに通うようになっていた。けれどそこで、他の子らから何か・・をされた……女にはもちろん、知るすべはない。


 ある日遅く、足を引きずりながら帰ってきた。短衣を脱がせたら、あばらが赤と青に紫いろである。


 怪我だけでなく病も一緒に得てきた子は、あらがう力を持たなかった。


 女に理解できない言葉をうわごとのようにつぶやきながら、七日間苦しみ抜いて旅立った。


 家の裏手、母親の塚の隣に、女はあたらしく土盛りをつくらねばならなかったのだ。



「何てこった」



 男は大きな身体で覆いかぶさるようにして、女を上から抱きしめた。



「あんたは坊主を見捨てなかったのに。あんたが坊主に、見放されちまうとは」



・ ・ ・



 その夜、男はずっと女を抱えていた。


 炉の前、床にじかに座り込んで、老いた父が小さな娘を寝かしつけるように。


 あるいは祖父が孫を抱き守るようにして、女が泣くに任せていた。


 なくしてしまった自分の子以外、他の人間の温もりを知らない女は、妖精に授けられた声でとめどなく嘆いた。


 音にならない女のうめき声は、吹き荒れる嵐の轟音の中、男の胸の中にだけ響いている。


 際限なしに湧いて出る塩辛い涙が、やはり潮くさい男の縞がら首巻布の中に吸い込まれていった。



・ ・ ・



 うっすらと白み始めた外気が、板のはまった窓枠から線となって差し込む。


 はっと気がついた女は、炉辺のまえにひとり転がっていた。


 いつものぼろぼろ青毛織の上からぼろぼろ毛布にくるまれて、……あたたかかったのは、さらに大男のももんが外套にくるまれていたからだった。


 熾火おきびの残る炉の近くに、大男の長い棒は見当たらない。しかし外套があるのだから、まだってはいないはず、……そう安堵して女は顔をこする。


 周りは静まり返っていた。嵐はとっくに遠くへ去ってしまったらしい。


 真っ黒いももんが外套を胸に抱きしめ、女が外に出ると、男は家の裏手にいた。


 母親の塚と子どもの盛り土の隣で、地面を掘り返していたらしい。あの長い棒を使って、さかさか土ならしをしたようだった。



「よう、モイラ」



 女を振り返って、大男は薄明の中でやさしく笑った。


 曠野から吹いてきた涼風が、家のまわりの樹々を通り抜けて、二人の着ているものと髪をなびかせる。


 どうしてそんなところに穴を……。大男は何かを埋めたのだろうか、と女は小首をかしげた。



「あはは。嵐の行っちまった後だからねぇ。土がやわらかくなってて、深く掘れたよ!」



 大男は朗らかに言った。


 わずかな曙光の明るみに照らされて、女よりずっと年上の大男のしわ入り笑顔は、何だか少年のように見えた。


 なくした大切な子も、こんな風に笑うことがあったっけ、と女は思う。



「ほれ、よく言うだろ。虹の足もと地面を掘れば、宝物が出てくるって話」



 大男は泥にまみれた棒の先を、その辺の草でぬぐった。女から外套を受け取って、ふわりと羽織る。


 そこだけ黒い夜の闇が、小さなたつまきのようになって現れ出たように女には思えた。



「その話をまねして、俺もちょっとしたお宝・・を埋めてみたのさぁ。だからつきあえよ、モイラ?」



 何だかいたずらっぽいような、心地よいふざけ調子で男が言うから、女は思わずにっと笑った。



「……ちぃっと、仕事がややこしくってな。この後しばらくは、俺はここに来れないと思うんだよ」



 女は眉をさげた。笑顔がさみしくなる。



「でも次は、嵐でなくって虹と一緒にここに来よう。そんとき一緒に、この穴掘って宝だそうぜ。なぁ?」



 ぷふ! 


 それで女は、また笑った。男のしかけた計画は、意味もわからず妙ちくりんだが、おもしろい。


 この優しくてあたたかい黒い闇の大男は、女に約束・・をのこしてくれるのだ……!



――また、来ておくれな? ギルダフ。



 妖精にさずけられた声を、女は初めてつかった。


 生まれて初めて、それが他者ひとに届くことを願いながら発した。


 その言葉がきっと伝わると、信じられる相手にむけて。



「ああ。必ず、また来るよ。モイラ」



 乗ってきた巨大な黒馬を納屋から出して、男はその手綱を引きつつ曠野の方へ歩いてゆく。女も脇を歩いて行った。


 やがて、つぼみを膨らましたはりえにしだの茂みがところどころに揺れる野を前にして、大男はゆっくりと言う。



「必ず来るから。その時まであんたはあんたのまま、ずっと変わらないでいてくれよ」



 大男の言うことは、女には奇妙に思えた。


 女は、……とくにこれまでの人生で変わった・・・・ことはない。


 と言うより、変えようのないただ一つの真実にしたがって、がむしゃらに生きてきただけだ。


 女は女であり、これからもそうだと言うこと。


 けれど女はとにかく、大男に向かってうなづいた。


 いつも朗らかな大男がまじめに神妙な顔つきだったから、その願いたのみをまっすぐ受けとめるつもりで、首をたてに振る。



「よし。祝福してくれるかい、モイラ」



 言って、大男は女のてまえでかがんだ。


 まっ黒々な短い髪の生える、大男の頭を目の前にして、女はぽかんとする。



「この辺だよ。ちゅう・・・としてくれりゃあ、いいんだよ」



 大男は右手ひとさし指で、額の上あたりに触れる。


 それでようやく、女は合点した。大男のこめかみを両手のひらではさんで、黒髪の生え際あたりに口づけた。


 なくしてしまった子どもに対して、いつもしていたこと。



「ありがとう」



 にこっと笑うと、大男はひらりと馬に飛び乗った。


 慣れた手つきで、くいっと棒を腰のあたりに括りつけたらしい。



「達者でなあ。曠野あらののモイラ」



 しめった涼風の吹き抜ける中を、大男をのせた馬は進んでいった。


 青い毛織を身体にかき合わせるようにしながら、女はその後ろ姿を見つめている。


 黒い馬にった黒髪の大男の、かさばるような黒外套のすそがたなびく姿は、曙光の野にそこだけぽつんと真っ暗闇の点だった。


 すべてを飲み込む真の闇、やさしく温かい虚無の黒。丘のむこうの地下の色。


 いつしか誰もがゆくところ……。


 紺色の空と雲、褐色と緑のまじりあう曠野から、やがて消えかかっている夜のしっぽのひとかけら。


 そこに浮く、全き黒闇のの点を、しかし女はおそろしいとも不吉とも思わなかった。


 なつかしくやさしく温かく、いつか自分を迎えに来てくれるよいものとだけ、信じられた。


 自分の声をきく大男の来訪。


 待つべきものを得たいま、女の胸のなかに張りつめていた失くした子への哀しみは、そのいばらとげを落とす。


 絶えず女を苛んでいた絶望は、……男の縞がら首巻が吸い取ってくれたのだろうか。


 乳と一緒に熱を分け与え、生をわかちあったあの小さな存在への最惜いとおしさだけが、女の心のうちにともった。



 女はくるりときびすを返し、家の中に入る。


 火に薪をくべて、……水を汲もう。鶏の世話をしなければ。


 もう一度あの大男を迎える日、そこまでへの長い旅路の一部分。越えるべき今日という日が始まる。



・ ・ ・



 嵐に湿った曠野を行きながら、大男ギルダフは笑顔だった。


 左目元、ひたいから頬にかけて大きく入ったただれ・・・痕のような傷の上。そこに笑いじわを無数に刻んで、彼は喜んでいる。


 大男の母親は、海から来た女だった。


 その母に始まるすべての女を呪ってきた彼が、ようやく呪わなくてよい女を見つけたのだから、祝うべきことなのである。


 先ほど大男は、たしかに深い穴を掘った。そこに高額硬貨をいれた革袋を落としもした。


 けれどそれは、ちゃちなごまかし演出なのだ。本当はそこへ将来埋めるべき、別の宝・・・のことを考えている。


 当分のあいだ……いや。女が生きている限り、自分がこの曠野のわび家にやってくることはないと、ギルダフは知っていた。


 しかしこれだけ、心を近づけた女のことだ。


 もし自分が、それまで生き永らえていたとして。女が丘の向こうへ行くときは、何となく風が鳴いて知らせてくれるような気がギルダフにはしていた。わずかではあるが、風や嵐のもたらすささやきを聞き取る力が、彼には備わっている。


 その時にはぜひともかけつけて、子の塚の脇に掘り直した穴の中へ、女をていねいに入れてやろう。


 彼の宝としての、とうといあの女を。


 誰をもだまさず裏切らず、さいごまで子を見捨てなかった唯一の女を。



「あんたは例外中の例外だ。そのまま俺を、裏切らないでくれ」



 囁き声が後ろへと流れてゆく。夜明けは速かった、――曙光と競うように、ギルダフは馬を速足にさせる。


 やがてまずしい集落が遠方に見える。そこを西むけ、黒馬の頭を白く浮き出た道の方へむけた。岬を経由して、首邑みやこテルポシエへとつづく道。



曠野あらののモイラ。あんたは、とうとい」



 青い毛織を身体にまきつけ、老婆のようにひしゃげて枯れそぼった聖なる母親。


 女の美しい姿を、男は目の奥に思い浮かべてまた微笑した。



【完】

〇 〇 〇


 皆さまこんにちは、作者の門戸もんこです。

 「曠野の聖母」に触れていただき、誠にありがとうございました。


 早いもので、こちら「小説家になろう」に投稿を始めて二年が経ちました。

 自分の中にしか存在できなかった物語たちに、発表の場をいただいていることを感謝してやみません。

 これからも物語と共に生きていきたい、と願っております。


2025年10月18日 門戸

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